無情④
フィリアが倒れた。それが最悪の起き抜けで知らされた最悪の報告だった。理解が体に追いつかず、三十分もの間硬直していた。ようやく動いた体が向かうのは、フィリアの部屋だった。
「フィリア様! フィリア様!」
「エドワード……さん」
ベッドに横たわるフィリアがいた。熱はなく呼吸も正常だったが、少し顔色が悪いように見えた。
「手を……握っててくれませんか?」
エドワードは駆けつけてフィリアの左手を両手で握った。とても冷たかった。そうするとフィリアが少し安心したように息をついたから、隣でいいと言われるまで手を握り続けた。
その間に医者が何人か部屋にやってきて、口を揃えてこう言った。治す方法がない、と。
「どうしてですか!」
「落ち着いてくれエドワードさん」
声を張り上げるエドワードの肩に手を置くケインの顔は、いつもの温厚な様子とは真逆に青ざめていた。一旦フィリアからは離れてケインの所に問い詰めた。エドワードは冷静じゃなかった。
前触れもなく突然に愛娘が倒れたんだ。気が動転していないだけ大したものだろう。エドワードはなんとか落ち着かせようと大きく息を吐いた後、肺を黙らせることができた。
「どうして……治せないんですか? あの人たちは藪医者ではないでしょう」
軽々しく悪口が出てしまう。ケインは特に気にせず、青ざめた表情を変えずにエドワードに説明する。
「来ていただいた医者の方々は、フィオナ……フィリアの母が病気にかかった時も診てくれた人たちなんだ。フィリアの様子を見ていたら、もしやと思って……杞憂ならそれで良かった……でも、こうなってしまっては……」
「何がですか? フィリア様は何か病に冒されているのですか?」
「……フィリアは……母と同じ病気を患っている」
病名は医療に詳しくはないため存じ上げなかった。病名がわかっただけでエドワードの焦りは治らなかった。
「病気がわかってるなら、早く治療をっ」
「ないんだ」
「…………え?」
「治療法が……まだないんだ」
希望が底なしの穴に零れ落ちた音がした。ケインの今にも泣きそうな顔が、それが冗談ではないことを物語っている。
「な……い? ないって……」
「フィオナが亡くなった時から今日まで、まだ治療法が確立されていないんだ。アルコール依存症のような不治の病だ。だから妻も治すことができなかった。フィリアは……遺伝性の疾患だと医者は言っている。できることは……錠剤で不定期に訪れる痛みを和らげることくらいしかない。打つ手が……どこにもないんだ」
「……そんな……」
エドワードは膝から崩れ落ちた。絶望が体の内部を暗く染め上げている気分がした。似たようなことが昔あった。グレンが死んだ時だ。
あの時はまだ希望があった。自分の足が動き続ける限り、グレンは助かるんだと淡い望みを内に抱いていた。結果は虚しく枯れてしまったが、助けられると思い込むことができた。でもこれは違う。
ないと言われてしまったら、一体どうすればいいのか? 最初から希望を持ち得るのを禁じられるのは、耐え難い拷問に他ならない。
「……フィリア様のお母様は……どのくらい生きられたのですか?」
亡人の生時の長さを訊くのは無礼だとわかっているが、訊かずにはいられなかった。
「発覚してから二年で……」
訊かなきゃよかったと、話しが終わった後に思った。
────
ファンが亡くなってから一ヶ月も経っていない。この世はどうなっているんだと神に文句を言いたくなった。今日はこんな日になるんじゃなかった。もっと素敵で、一生記憶から忘れられない日になるはずだった。
癒しが広がる美しい草原に二人で一緒に行く。景色に溶け込むフィリアに自分はきっと釘付けになる。そして二人は向かい合う。多分、いや、絶対自分はしどろもどろになるに違いない。母親に好きと言うのとは天と地ほどの差がある。そんなエドワードを、フィリアは黙って待ってくれる。そして意を消して、柄にもない愛を囁く────そんな妄想をしてしまうほどに心は昂っていた。
だが現実はこれだ。都合よくハッピーエンドに向かう恋愛小説のようにはいかない。否、突然病に伏せる少女の展開の方が、よっぽど現実離れしているかもしれない。物語をリセットできればどんなにいいか。全てが平和に終わる展開に書き直す魔法でもあればいいと思ったが、そうすれば、自分と彼女が出会う物語にはならないのかと危惧した。
それで彼女が救われるならと、思い出が綺麗さっぱり消えてしまうのは嫌だと、どちらにも揺れる自分がいて情けなかった。
「フィリア様」
エドワードが平静を保った顔でフィリアがいる部屋に入った。案の定、寝床に横たわっている少女の姿があった。
「エドワードさん」
「すみません。少々話が長く」
「無理しないでいいですよ」
「え?」
「辛いなら辛いと顔に出したままで構いません。嘘をついている顔を……私は見たくありませんから」
心配をされた。まだ他人を気遣える気力があるのかと感心すると同時、そうさせてしまった己の顔を殴りたくなった。
「ごめんなさい。私のせいで」
「……なぜ謝るのですか? 一番辛いのはあなたでしょう」
「それはどうですかね? お母様が病に伏せっていた時、私は時々隣で泣きじゃくっていました。そんな私をお母様は「泣かないで、泣かないで」って、ずっと私の頭を撫でてくれました。今思い返すと、お母様には負担をかけてしまいました。多分自分のせいで、周りに不幸をばら撒いている感覚になっていたのかと、やっと今こうしてわかった気がします。誰かに心配をかけるのは、本人にとって病気よりも辛いことなんだと」
そうだとしても、与えた心配で謝罪なんてしてほしくなかった。いないなら心配すらできないと、あなたがかつてそう言ったんじゃないか。エドワードは拳にぎゅっと力が入る。爪が皮膚に食い込みそうだった。
「思い通りにはいかないものですね、人生は。病には誰も抗えない。いつか人は死を迎えますが、まさか、こんなに早くお母様の元へ旅立つとは思っていませんでした。もし私が行けば、お母様は怒るのかな……」
「……怖くないのですか?」
「え?」
「あなたは死に恐怖しないのですか? あなたはもっと泣いていいはずだ」
泣く時は自分がまた側にいる。いつまでだって手を握っていられる。なのにフィリアは全てを受け入れている。ファンもそうだった。世に未練はもうないと、偽りない笑顔でそう語っていた。
フィリアまでそうなのか? いや違う。ファンは天寿を全うしていた。病にこそ冒されていたが、己の道を進み、愛する人ができて、恩人に救われ、第二の人生を謳歌して、八十年近くの年月を歩き続けてきた。時間の長さが価値を決めるとは思っていないが、その時間の中で、あの人は選択の連続を繰り返し、自らの使命を果たしてきた。
だがフィリアはまだ二十にも届いていない若人。これからの人生、希望溢れる未来で多くのことを経験していくはずだ。その道が阻まれようとしている死に恐怖を抱かないはずがない。
「……そうですね。ないとは言いませんが、恐怖は少ないかもしれません。涙の方は大丈夫です。エドワードさんの胸の中で、枯れ果ててしまうくらい流しましたから。でも恐怖は私を蝕みません」
「なぜ? なぜあなたはそこまで強いのですか?」
「貴方が手を握ってくれたから」
ふと、ふんわりとした熱が右手を温めた。エドワードが下を見ると、フィリアが左手で自分の手を握ってくれていた。
「貴方がいると安心できます。手を握ってくれた時、私の心を温めてくれました。本当です。貴方が隣にいるだけで、私は病だろうがなんだろうが立ち向かえる気がします。それくらい……私にとって貴方の存在は……とても大きくて大切なんです」
「……」
「だから死に恐怖するよりも、貴方との時間を大切にしたい。いつもみたいに話をして、笑って、また話をして、笑って…………そんな素晴らしい日々を想っていたいんです」
視界が滲む。頬に雫が垂れそうになるのを我慢した。一番苦しいはずの人がそうなっていないのに、自分だけ甘えるわけにはいかない。改めて気づかされる。エドワードはフィリアが好きだ。
一緒にいたい。ずっと、これからも。恐怖よりも幸福を作っていきたいと言える心の強い彼女が愛おしくて、守りたいと思った。だから強く願う。
「だからエドワードさん。あの──」
「まだです」
フィリアを死なせたくない。
「え……?」
「まだ諦めるのは早いです。きっとどこかに、あなたの病気を治す方法があるはずです。世界は広い。私たちがいる国にだって、万を超える医者がいるんです。私は探します。貴方を救う方法を。あなたがまた元気になってくれる日を私は諦めません」
「エドワードさん……」
「私は昨日言いましたよね、あの美しい草原で、あなたと話したい。明日と言いましたが日にちは問いません。病気が治った時、フィリア様がまた起き上がれる時に、一緒に行きましょう。その時まで言葉はとっておきます。絶対に私が助けます。絶対に、絶対にです」
エドワードは真っ直ぐに気持ちを伝えた。フィリアはすぐに涙を流しそうな顔で、微笑んで言った。
「はい。ありがとうございます」
エドワードの決意が固まった。その時現れた声を、彼は聞いていなかった。
[友達一人救えなかった奴が、助けるなんて偽善吐いてんじゃねえよ]
────
そこからエドワードは行動に出た。仕事は休んでフィリアを助けることに集中した。まずはフィリアの病気について調べた。多くの本や医者の論文から情報をかき集めると、やはり浮かび上がってくるのは不治という単語だった。毎度同じような文章を読み漁っても、目ぼしく出てくるのは進行と痛みを遅らせ和らげる薬の存在のみで、明確な治療法はなかった。
「まだだ」
今度は足を使った。街の中、街の外まで出て、手当たり次第医者という医者に訪ねていった。謝罪の言葉を何度も聞く羽目になったが、エドワードは挫けなかった。フィリアを助ける方法が見つかるまでは、足を止めるわけにはいかなかった。
「ただいま帰りました」
「お帰りなさい。エドワードさん」
方法を探す時以外の時間は全てフィリアの隣にいた。なるべく彼女の側にいたかったし、彼女を安心させたかった。病気の進展の話はあまりしなかった。ないと言葉にすれば落ち込むのはわかっている、いや、感情を欺く術など持ち合わせていない自分なら、顔に出ていてフィリアに即気づかれている可能性もある。
それでも一緒にいる時くらいは楽しくいたいと願って言わなかった。フィリアとはいつものように会話をする。楽しく、笑顔で、フィリアと一心に向き合うのが日課となっていた。
「……」
でも……なぜだろう。最近は笑顔というより、作り笑いなっている気がしてならない。そんなはずはないと思っているのに、腹を渦巻くわだかまりが気になって仕方がない。触れるフィリアの手の甲が冷たく感じると、死に近づいているようで身の毛がよだつ。
「エドワードさん?」
「あ、え、えっとはい。なんですか?」
「大丈夫ですか? ぼーっとしていましたが」
「いえ、なんでもありません。最近少し疲れているからですかね」
「本当に……無理をしないでくださいね。私のために貴方が……あっ、くうぅ!」
突然フィリアが胸を押さえて苦しみ出した。
「フィリア様!」
エドワードは、慌てて側の台に置いてある錠剤入れと水の入ったカップを手に取り、一錠を掌に出してコップをフィリアの口元に持っていく。
「フィリア様、こちらに」
「はあ……んっ……はあ……はぁ……」
「フィリア様。落ち着いて呼吸を整えてください」
錠剤を胃に流し込み、フィリアは呼吸を何度か繰り返した。荒い息は次第に落ち着きを取り戻し、胸を押さえる両手を解いた。
「ありがとう……ございます。もう大丈夫です」
無理矢理に笑顔をこちらに見せるフィリアだが、そんなものでは気が休まらなかった。不定期にフィリアの体を蝕む痛み。病気の作用の一つで、錠剤を飲めば一旦は治るが、次にいつそれがやってくるのかは見当がつかない。
(早くしなくては)
エドワードは諦めない。だが焦りは生まれていた。フィリアと話しをするのは楽しい。だがたまにくる痛みの決起が現れる度、エドワードの余裕は砂時計のように減っていった。無理をするなとフィリアは言ったが、それには応えられそうにない。無理でもしなければ、彼女は救えない。
[頑張るなよ。見捨てた方が楽になるぞ?]
彼はまた聞かなかった。
「もっと深い所になら……」
エドワードは視点を変えた。助ける方法を探し回ってみたが、どれも良い収穫は得られなかった。捜索範囲を広げることもできるが、どうせ糠に釘で終わると踏み込む気力が湧かなかった。表の世には手段がないとわかった。だが"裏"はどうかとまた行動に出た。
そういう世界があるのだと教えてくれたのは、今はもうどこかへ去ってしまった友人だ。エドワードは踏み入った。闇市、ブラックマーケット、非合法市場、無法都市。荒くれ者や法破りが住み着くゴミ溜め。そんな場所でもそれなりの社会が形成されている。
そんな場だからこそ、フィリアの不治を治せる違法薬品や非合法医療があると踏んでいた。エドワードはそれだけを胸に情報集めに勤しんだ。
そんな物であの少女が救われたいと本気で思っているのか?
そんな疑問は一瞬たりとも出てこなかった。彼の神経は麻痺している。
「ここにいるんですね?」
「ええ。もちろんです」
エドワードの前を歩く健康的とは言えない肥満体質な体の男。別に彼とお茶をしようなんて思いはさらさらない。住む街から離れた別の街の南に位置する、表から見放された地帯で、エドワードは男と一緒に廃墟となった建物の前に佇んでいた。
情報を集めに彷徨いていたら、あちらの方から声をかけてきたのだ。闇医者ですが、その病気を治せる人を知っていますよ、と。エドワードは疑いもせずその話に飛びつき、その背中を信じてここまで付いてきた。
盲目になっていたのだ。一縷の希望を差し出されて、静かに心が舞い踊っていた。疑念も湧く暇がないほどに、エドワードは救いを求めていた。
「はい、ごくろうさん」
だから、世界には善人もいれば悪人もいると、歳を重ねればわかっていく現実を忘れてしまっていたのだろう。自分に話しを持ちかけた肥満の男は、建物の中にいたイカつい男からまあまあの大金をもらって、エドワードを一瞥もせず出ていった。
「なんだその顔? もしかして本気でいるとか思ってたのか?」
「一周回って笑いも出ませんね。こうも簡単だと。よほど必死だったんでしょ。大切な人でもいた? あっは、ご愁傷様」
醜悪の軍団がエドワードを待っていた。
お前はここらじゃ見ない顔だ、良い身なりが気に食わなかった、治療法を探しているならそれなりの金を持ってるはずだ、お前は必死に求めていた、俺たちからすればいいカモだった、とエドワードの希望を破壊していく言葉を黙って聞き取っていた。
騙された。エドワードが今いる場所では、そうなった方が悪いという了解が誰しものルールなのだ。いつものエドワードなら気づけた。だが必死で駆け回る彼の視界には、地面に埋められていた地雷に気づくことができなかった。
「……屑が」
だから、怒りに操られてしまう。
────
「ただいま戻りました」
「お帰りなさい。今日は……えっ、エドワードさん!」
部屋に入ってきたエドワードを見るや否や、フィリアは小さな体で素っ頓狂な大声を上げた。
「どうかしましたか?」
「どうしたって、何ですかその怪我!」
「ああ……」
エドワードは頬にできた切り傷に触れた。感情の傀儡となって拳を振るった結果だった。とはいえ多くの修羅場を経験してきた元冒険者のエドワードにとって、愚連隊でもないはぐれ者の集団など取るに足らなかった。
数だけは一丁前だったので数度殴打とナイフで皮膚を裂かれたが、全て軽傷だった。もし槍を常備していたら、自分は一体どうしていたのかと怖くなった。間違っても亡き友人の贈り物で蛮行を行うことはしないと自身に願っている。
「少し揉み合いになっただけです」
エドワードがそう告げても、フィリアは、ああそうですかと納得してくれなかった。
「揉み合いって……一体何があったんですか? エドワードさん、最近どこに行かれてるのですか?」
「ただ街で情報を集めてるだけです」
「それだけでそんな姿になるわけないでしょう」
「怒りやすい人が歩いてたんです」
「……嘘ですよね」
「大丈夫です」
「はっきり言ってください! 私は──」
「大丈夫だって!」
張り上げた声が部屋を満たす。フィリアが驚愕の表情を浮かべている。その面には、怯えがあることがわかった。フィリアの前でこんな大声を出したことが、今まであっただろうか?
「ほんと……大丈夫なので。すみません今日は疲れているので」
「あっ、エド──」
呼びかける声に振り向きもせず、エドワードは扉を開けて部屋を出ていった。扉を背に向け寄りかかるようにしゃがみ込み、両手で顔を塞いだ。
「何してんだ……私は」
こんなことしたかったわけじゃないのに。自己嫌悪で押し潰されそうになった。
[お前は何もできない。お前は好きな人一人すら救えないんだよ]
…………彼は聞こえないフリをした
────
裏切りを目の当たりにしても、エドワードは挫けなかった。きっとどこかに望みは隠れていると信じた。広大な砂漠の中で特定の砂粒を見つける途方もない道のりだとわかっていても、足を止めるわけには行かなかった。
彼女を治す術がないなど、信じるわけにはいかなかった。
探した。探して探して探して探して探して探して探して探して探して探して探して探して探して探して探して探して探して、探し続けた。ある時は足の筋力の限界が来て道端に倒れ込むまで動きを止めなかった。
結果は散々だった。努力は報われるなんて言葉を作った奴を呪ってやりたいと思った。
搾取目的で近づく奴、偽情報を渡して嘲笑う奴、詐欺紛い、恐喝。どいつもこいつも最初に会った畜生と大差なかった。神に祈れば救われるとかいうカルト宗教もいた。祈るだけで病が治るなら病没なんて言葉は存在しない。
期待が裏切られる度、エドワードは暴力を振るった。どうしてお前らみたいな屑が生きてて、彼女が辛い目に遭わなくちゃならない、と同じような言葉を吐いて。治療法がないと断れるよりも神経が削れていった。
希望が、願いが失われてゆく。表にも裏にも救いがないとするなら、後は一体どこを探せばいい? 無限に入り込む迷路の出口はどこにある?
[諦めろ]
疲労と絶望が蓄積する毎日が、響く声を明瞭にしていく。気づけば、フィリアと顔を合わせる日が減っていった。
「……」
深夜にもなって屋敷の玄関扉を開く。一週間ぶりに帰ってきた屋敷の中は、当たり前のように静寂だった。こんな時間なら当然かと思った直後、トンと廊下を踏む足音が右から聞こえた。
「エドワード……さん」
弱々しい少女が、月明かりで青く照らされていた。無論フィリアなのはすぐにわかった。歩いている姿を見るのは久しぶりだった。ベッドから抜け出してきたのか。壁に手をついてゆっくりとこちらに近づいてきているがおぼつかない。明らかに無理をしている。
気怠さと精神の磨耗が相まって、素っ気ない返事をしてしまう。
「ちゃんとベッドにいないと駄目ですよ」
「エドワードさんこそ……そうした方がいいです。酷い顔ですよ。傷も増えてるし」
「そうですか?」
鏡を見てないのでわからなかった。
「私は大丈夫です。さあ、戻りましょう」
「こんな遅くまで、何日も帰らないで、一体どこに行ってるのですか?」
「心配はありません。大丈夫です」
「その大丈夫が信用できないんですよ!」
フィリアがエドワードの目の前で叫ぶ。息を荒くしながら、今のでフィリアは全力でダッシュしたのと同じくらい疲労が出ている。
エドワードは思う。
ああ、うるさい。
「どうしちゃったんですか? 最初の頃はまだしも、最近は屋敷にいない時間の方が長い。何も教えてくれないし、帰ってきても顔も見せてくれずにまたどこかへ消えてしまう。どうして何も教えてくれないのですか?」
「伝える必要がないからです。あなたを助けるためです」
「私のため? 私のためになぜ貴方はボロボロで帰ってくるのですか? 日に日に窶れるエドワードさんは見るに堪えません。そうまでしてほしいなど私は一言も仰っていません。無理をしないでと言ったのに……」
「無理をしなければならない時もあるのです」
「それは貴方が傷ついて良い理由にはなりません!」
頼むから少し寝かせてくれ。
「もうやめましょう。エドワードさんか私のために傷をつけて帰ってくるのはもう見たくありません。もういいんです。私は貴方と話せれば……それでいいんです」
「いや」
頼むから……
「また以前のように戻りましょう。何もない天井をずっと眺めているのは寂しいんです」
「だから」
「私のために頑張らないでください。もう十分です。私はただ貴方と────」
「じゃあ早く元気になってくださいよ!!」
フィリアの肩をぐっと掴んで、訴えかけるように、怒鳴るように言う。誰もそれを止めてはくれない。
「こっちは必死なんです! あなたが死なないように、あなたがまだ生きるために、体が壊れるまで動いてる! その度に頭を下げられ、同情され、ただ去るのみ! おまけに悍ましい光景まで見せられて私の心を醜くしていく! 苦痛ですよ! ……でもいい。失う毎日でもまだよかった。あなたが……また元気な姿で私に笑いかけてくれるなら。なのに……なのに……頑張るな? 十分です? いい加減にしてくれ! よくもそんな言葉が────」
はっとした。肩に置いている両手が震えている。震えているのは彼女の方だった。いとも静かに、その両瞼から悲しみを露出していた。
やってしまったと後悔する。
「いや、違う! 今のは違います! あの、えっと」
「……ごめんなさい……ごめん……なさい」
「いや、だから」
「私の……ひぐっ……せいで……ごめん……ああっ…………な……さい……」
違う。泣かないでくれ。謝罪をさせたかったんじゃない。頼むから泣かないでくれ。そう思い続けていると、自然と己の瞳からも溢れ出ていた。
「違うんです。私は……私は……ただ…………」
その一言は、フィリアに届いていたか危うい。
「独りに……なりたくない」
どうしてこうなった。
[さっさと諦めちまえよ]
また聞こえた。もうわかっている。この声は自分だ。楽になる選択肢を心の奥底にいる己が差し出している。
[たった一年ちょっとの関係だろ? 去って半年もすればすぐに忘れるさ]
忘れない。忘れてたまるか。時間の長さで優劣を決めるな。
[お前は誰も助けられない。友人を見殺しにしたんだから]
そんなのわからない。今彼女は目の前にいるんだ。グレンとフィリアは同じじゃない。
[どうかな? お前のお得意の槍で病を倒せるか? お前はそれしか能がないのに]
黙っててくれ。
[お前の周りはどんどん死んでいくな。グレン、ファン、そしてか弱い少女。なんでだろうな?]
……
[全員が不幸の末路を辿る。なあ、わかってんのか?]
…………
[お前はただの疫病神なんだよ]
エドワードは考えた。
「……私が死ねば助かるのか?」
「えっ?」
よからぬことを考えてしまう。
「そうか、そうだ。私がいなければいいのか。そうすればフィリア様は助かる」
「な、何言ってるんですか?」
「思えばそうだった。私の大切な人たちは皆死んでしまう。グレンもファン様も。私が側にいなければ、私なんてこの世にいなければ、誰も死なずに済んだかもしれないのに!」
激昂しているのに顔には表情が抜け落ちている。色が抜けた絵画のように。エドワードは無意識に両手で自身の首を絞め始める。文字にもできない苦悶の声が上がる。後少し続ければ、エドワードの息は絶える。
「やめてください!」
そんなエドワードをフィリアは止めに入る。小さな両手が己の首を絞めている両手に触れた時、エドワードは我を吹き返した。一体自分は何をしようとしてたのか。迷わず命を絶とうとしていた自分に恐怖を覚えた。
「もう、やめ……て……」
フィリアは限界がきたように、エドワードの胸に倒れた。
────
歩くだけでもしんどかったはずなのに、あれだけ声を荒げてしまったのだ。倒れるように眠ったフィリアの体を部屋まで運んだ。落涙は止まったが、涙痕はしっかりと美しい顔に残されていた。今一度さっきの非礼を謝罪したいが、彼女は聞いてはくれそうにない。
「綺麗な顔だ」
見ない間に少し痩せているが、それでもフィリアは華のように綺麗で美しかった。ベッドに横たわっていなければ、病気だなんて想像がつかない。
「最低ですね、私は」
思ってもないことを口にしてしまった。いや、もしかしたらそうなのかもしれない。膨れ上がった感情が、檻に閉じ込められていた本音を曝け出してしまった。そうではないと信じたいのに、自分を信じられない。醜くなってしまった自分が嫌いになりすぎた。
「間抜けな男だ」
こんな奴が、優しい少女の側にいてはいけない。
「……お別れです」
言葉は届かない。エドワードは自室へと戻り、私物をかき集めた。それほど量はなかった。大事な物は、友人から受けた槍くらいだった。また一度フィリアの部屋へと戻る。
「素晴らしい思い出を……ありがとうございます」
最後に開かれた右手の甲に触れる。もうこの手を握ることはない。視線を移せば花瓶に生けている花束が目に入る。自身がプレゼントした物だ。あの時のフィリアの笑顔は、もう見られそうにない。
別れを嫌っていたのに、まさか自分から出ていくことになるなんて夢にも思わなかった。結局人生は、本のような決められたプロットのようには動いてくれない。見たくもない展開が、季節のように巡ってきてしまう。全く笑えない。
エドワードは背を向けた。
「行かないで」
小さく現れた声で思わず振り返ってしまう。フィリアは依然眠っている。寝言だった。一体どんな夢を見てるのだろう。
「あっ……」
言葉を紡ごうとした。しかしすぐに思い止まり、また背を向ける。
幸せになってください。どの口がそんな言葉を言えるだと己を呪った。独りの男の姿は、闇夜に紛れて消えてった。
小さな世界の住人が、一人いなくなった。
────
自分がいたら皆を不幸にしてしまう。感情に任せて愛する人に暴言を吐くような奴が一緒にいてはいけない。助けるといきがって何も成し遂げられない奴は消えるべきだ。
言い訳はたくさん出てきた。
でもわかっていた。
本当はただ…………彼女が死ぬ姿を見たくなかった。見たら今度こそ立ち直れなくなる。どんどん自身の背中の上で冷たくなっていく友人が頭に浮かぶ。それがとてつもなく怖くて、寂しくて、逃避を選んでしまった。
情けない。
好きな人との約束を破って、希望を掲げるだけで無理だとわかったら怒鳴りつける。恩人との会話も、新たにできた友人との約束も、全て道端に投げ捨ててしまった。こんなに無様な醜態を晒した人間を他に知らない。
やっぱりあの時、友ではなく自分が死ぬべきだった。そんなことを考えてしまう己は、無責任で、薄情で、愚かだった。
男はまた、孤独に堕ちた。
誰も知らない物語。小さく、寂しがり屋で、喋るのが苦手で、誰かに依存しやすく気持ち悪い、好きな人の側にいることもできない、愛する人を小さな箱庭の世界に置いてきてしまう。
無情な男の、つまらない人生の一端。




