本①
「失礼、エレンさんでいらっしゃいますか?」
男性は不信感を抱かせない口調でカフェのテラス席の一席に座っている若い女性に声をかけた。相手の女性はこちらの方を向くと、優しい眼差しで男性に返事をしてくれた。
「はい。もしかして、エドワードさん?」
「そうです。今日のこの時間に会ってほしいと、仲介者から言われていたのですが……」
「ええ、問題ありません。本当は私が直接出向ければ良かったのですが、何分仕事が立て込んでおりまして」
そうですか、と男性──エドワードは軽く挨拶をして前の席に座る。今日、彼が来たのは仕事の依頼のためだ。自身の護衛の仕事は依頼主の仲介者から依頼をもらうことは少なくない。依頼されればこちらが出向くか、あちらから場所を指定されてそこで仕事内容を聞く。なのだが、今日は少しだけ気になることがあった。前に座る女性──エレンが自分に仕事を頼むとは思えなかった。
「エレンさん、職業は医者でしたか?」
「ええ。私の見た目からは、あまり想像がつきにくいとよく言われますが」
「失礼ですが、私に仕事を頼むのは人を間違えていませんか? 医者の方が私に依頼する仕事などあまり考えられませんが」
「少し驚くかもしれませんが、私がエドワードさんに頼みたいのは護衛の仕事ではありません。これなんです」
エレンは肩から下げていたバッグから何かを取り出した。それは青い一冊の本だった。
「これは……」
「見ての通り本です。エドワードさんにお願いしたいのは、この本を南の方にいる知人に届けてほしいのです」
「それだけ……ですか?」
「はい。もちろんただとは言いません。エドワードさんがいつも通りの仕事で引き受ける料金で構いません」
「あの……繰り返しになりますが、私に頼むことではないと思うのですが。物品の受け渡しなど、私以外にも適任はいますし、エレンさん自身が届けることもできるのでは?」
エドワードの眼に狂いがなければ、エレンが手にしている本は紛れもなくただの本だ。特別な魔導書でも歴史書でもなく、一般的にありふれた娯楽としての一冊の本。そんなものは他者に力を借りずとも輸送くらい簡単にできるはず。しかしエレンは違うと否定するように言葉を続ける。
「それでは駄目なんです。エドワードさん。貴方が行くことに意味があります」
「……意図がいまいち読めないのですが」
「これはその知人の住所です」
エレンは服のポケットからちっちゃな紙切れを取り出しエドワードに渡した。見ると家の住所らしきものが記されてあった。エドワードは確認すると、目を見開いた。
「これって……」
書かれていた住所には思い当たる節があった。それを確定させるためにエレンに答えを求めた。
「あの……エレンさんが言うその知人って」
「想像の通りかと。フィリア=レインハート様です」
的中した。途端に緊張の汗が背中を伝う。一体、どうして、なぜ、疑問符が次々と頭の中に湧いて出てきた。同時に脳裏に過る過去の痛み、幸福、恐怖。その名前はもう一生聞かないと思っていたのに。
「この本はフィリア様が書いたものなんです。エドワードさんなら、わかってくれると思うのですが」
確かに違和感はあった。エレンが出した青い本には著者も題名も表紙には書いてなかった。普通の本ならありえないことだ。
本を見れば思い出すことがある。彼女はよく本を書いてはエドワードに見せていた。楽しそうに描く空想の物語を。
「なんで……今になって」
「私はエドワードさんがフィリア様の執事をしていたことも知っています。事情を把握し、その上でここにいます」
「……申し訳ありませんが、私はその依頼を受けることはできません。この話はなかったことに」
エドワードは立ち上がろうとした。しかしエレンが左手に手を置きその動きを静止する。
「お待ちください。話はまだ終わっていません」
「いえ終わりです。私にはもう構わないで──」
「フィリア様はもう長くありません」
体が凍ったかと思った。そう感じるほどの寒気が襲った。エレンの言葉が信じられない。あの時、自分が彼女の元を去ってからそんなに悪化したのか。エレンが嘘をついている様子は微塵もなかった。
「私はフィリア様の体を診た医者の一人です。考えられる限りの努力はしましたが、私でも彼女の病を治すことはできませんでした。医師として不甲斐ないです。聞きたくはないことだと重々承知ですが、現実を伝えなければなりません。私はフィリア様の意志を持ってここまで来ました。どうか、最後の前に生きている彼女に会ってはくれませんか?」
エレンの言っていることがようやくわかった。本は単なる手段に過ぎない。真意は自分とフィリアを引き合わせること。だがわかったところで行く気にはなれなかった。
というより、会う資格なんて自分にはあるはずがなかった。エドワードは逃げたから。
「……無理です。私にはできない。仮に私が行ったとしても、彼女に不快な思いをさせるだけだ。こんな惨めで逃亡したように別れた私のような人間になんて会いたくもないはず。きっと罵詈雑言が飛び交うに決まってる。人生の最後にそんな苦い思い出ができていいわけがない」
「それは会ってみなければわからないことです。それに会いたくない、とは信じられません。私はフィリア様から直接貴方に会いたいとお願いされたのです。その心中を汲み取ってはくださいませんか?」
「そんなこと……あるはずがない。私の顔などもう……」
エドワードが頭を抑え悩んでいると、エレンの次の言葉が神経を逆撫でさせた。
「また逃げるのですか?」
「……っ!」
思わず手が出そうになった。そんなことできるはずがないのに。しかしエレンは痛い所を突いた。それがエドワードに怒りに近い感情を植え付けると知っての行動だろう。
エレンは謝罪をしようと頭を下げた。
「申し訳ありません。全てではなくとも貴方の心情を少しは理解しているつもりです。それを利用するような真似をしたことを謝罪します。ですが、受けてはくれませんか? これが最後の機会になるかもしれないのです。後悔を感じてからでは何もかもが手遅れです」
「……」
「エドワードさん」
エレンが言うことは全くの正論。何もかも間違っていない。でもエドワードは思い悩む。合わせる顔がない、不快な思いをさせたくない、ベッドで死を待つだけの寝たきりの彼女を見たくない。様々な理由が頭の中を右往左往しているうちに、遂に決心した。
「わかり……ました」
その決心はとても弱々しいものだった。
────
「これでよかったのだろうか……」
側から見れば情け無い男に見えるだろう。彼自身もそう思った。決断したにもかかわらずまだその行為を受け止めきれていない。それ以上に無様なことなどそうそうありはしない。
依頼金はもらわなかった。フィリアのことで金を受け取るなんてあり得なかった。エドワードはエレンから渡された青い本を片手に持ちながら街路を歩いている。
「その本は、エドワードさんがフィリア様の執事をやめになった後に、フィリア様が書きなさった物です。道中、よければ本をお読みになってください」
エレンは別れる際にそれだけ言い残した。まだ知らない彼女の物語があるなんて思いもしなかった。これまで散々聞かされたはずなのに。
【エドワードさんはちゃんと感想を言ってくれるから嬉しいです。次も楽しみにしていてください】
彼女が言った言葉を思い返す。無邪気で守りたくなるような笑顔が別れてからも残っている。
「フィリア様……」
彼女と会ったのはほんの偶然だった。
エドワードが喪失感を心に宿しながら、今と同じ護衛の仕事をしていた時のことだ。