無情③
ファンが死んだ。あまりにも突然の出来事だった。息を引き取る前日の就寝前でも、ファンはいつもと変わらない様子で仕事をしていた。体に病を飼っているなど微塵も想像できないほどに。
葬儀は親族と関係者のみで執り行われた。とは言っても、ファンの親族は既に亡くなっており、配偶者とは子どもも産んでおらず、友人や知人も亡くなっているか近くの地域には誰一人いなかったので、必然と屋敷にいる者だけに限られた。
エドワードが話を訊いたら、本当に病のことは誰一人として知らなかった。もちろんケインもフィリアも。知っていたのは、二日前に丘の上で伝えられたエドワードだけだった。
(なんで……私だけなんですか)
心臓が動いていないファンの顔は雪のように白かった。間近で見てみると、ああ、本当にいなくなってしまったんだと、変えられない現実が重くのしかかった。でも苦しいのは少しだけだった。苦しみより疑念が湧いた。多分それは、雪のように白くなったファンの顔がとても穏やかだったから。
死ぬのを予見していた人がするとは思えない顔だった。
「あなたは本当に……怖かったのですか?」
ファンは死に恐怖を感じないわけではないと言っていた。倫理観が欠如しているイカれた狂人でなければ、死に恐怖しない人間なんていない。側にいたいと思える大切な人がいたら尚更の話。だがなんだ、その安心しきった表情は?
ファンだってまだ生きたかったはずだ。仕える主と。主の娘と幸福を共にしたかったはずなのに。1秒でも生き続けていれば未練は生まれる。明日も同じ風に過ごしたいと思うだけでそれは未練だろう。なのになんでそんなに穏やかなんだ。あるいは…………恐怖を感じるよりもそれ以上に、それほど心から安心できたから。
自分に託せたから。
「私が…………」
そう思ってしまうと、何も言えなかった。言えるわけ…………なかった。
「…………」
フィリアが気になった。しかしエドワードはフィリアの顔が見れなかった。どんな顔をしているのか想像がつき、視界に入れるのを恐れた。悲しみに暮れる姿は見たくない。フィリアの背を後ろから見るのが精いっぱいだった。でもおかしかった。
泣き崩れる音、鼻をすする音、冷たい骸に別れの言葉を発する音。ケインも含め多くが飛び交った。悲嘆、悲哀、悲痛が場を満たしつくす空間は好きになれない。むしろ嫌いに感じた。死は憂鬱しか生まない。しかしそんな空間で、フィリアの音は聞こえなかった。
ファンの体は、灰になって消えてしまった。
────
葬儀から三日が過ぎた。外はまだ薄暗い。今日は早朝よりも早くに起きた。時間は心にかっぽり開いた穴を埋めることができなかった。時間の問題ではないだろう。少なくともたった三日でいつもの調子に戻れるほど強くはなかった。
あれからまだフィリアの顔は見れていない。会話もしていない。自然とこっちも、おそらくあっちも意図的に避けている。気持ちの整理がついていない状態で会うのはお互い避けたいのだろう。エドワードとしても有り難かった。
二度目だ。近しい人がいなくなったのは。
でも今回はどうにもできなかった。自分は医者ではないし、そもそも余命宣告を受けていたのでは医者ですらどうにもならない。今日まで生き続けただけでファンは頑張った方だ。天寿を全うしたと本人も言っていた。それに間違いはないのかもしれない。
なのにどうして、喪失感が生まれてくるのか。簡単だ。死はいつだって怖い。他人の死となればもっと怖くなる。自分の寿命を分けたいとか、無駄なことでも考えたくなる。
もう会えないのが辛いのだ。死んだらその人は消えて思い出の中だけの存在になる。それだけでは満足できない。毎日会うから大切になって、ずっと近くにいるから愛おしくなる。死に方の問題じゃない。病気だろうと、他殺だろうと、自然な死だろうと、その人がいた時間が尊ければ、死は怖くなるし、喪失もする。
悔しいと感じるほど、どうにもならない。
「やる気が出ない」
この時間帯はいつもだと鍛錬をしている。眠気でやる気が低下しているのではなく、精神的にやる気が起きていない。昨日も仕事をしていた時に、ソルドが心配の声をかけるほどに集中力が切れていた。周りに迷惑をかけては世話ない。槍も部屋に置いてきてしまった。
気分晴らしにでもと、そんな考えにもならない。とことん自分の心の弱さに愛想が尽きてしまった。だから意味もなく屋敷の廊下を渡って庭の方まで歩を進めていた。あの広がる小さな世界を目に焼き付ければ、少しは心が澄み渡るようになってくれるのではないかという願望を持って。
「ぁぁ……」
「ん?」
自分の声でも心の声でもない声が現実に響いた。前方から聞こえる。エドワードはなるべく足音を立てずにゆっくり進んだ。庭の縁側に孤独な少女がいた。
「ぐすっ……はあ……駄目だよフィリア。泣いちゃ……だ……め……うぅ……ひぐっ、あぁ……止まれ涙……止まってよ……ぐすっ、うっ…………こんなんじゃ…………前が見えないよ……」
少女はうずくまってただ泣いていた。顔を隠している両手は水浸しだ。耐えているようにも見えたが、壊れた蛇口のように溢れ続けてしまっている。その姿はとても弱くて小さい。手を触れたら枯葉のように散ってしまうと考えてしまうほどに幼い体だった。別に意外だとは思わなかった。むしろ自然な姿だろう。悲しければ涙が出る。当たり前のことだ。
フィリアは我慢していた。
「……お母様……ファン…………どうして皆…………私を置いていってしまうのですか? いなくなるのは…………ああ…………嫌ですよ」
本音が吐露する。エドワードはわかっていた。見ていずとも、フィリアはファンの前で、ケインの前で、泣いている姿を見せていない。決して人前で弱い部分を曝け出さなかった。だからこうして人知れず溜め込んだ思いを一人で発散している。理由もわかっている。
彼女は優しかった。
「フィリア様」
「っ! ふぁ、えあ」
声をかけられるとは思っていなくて、フィリアは取り乱し口がうまく回っていない。ようやく目が合った目元は赤く腫れている。あれだけ涙を流せばそうなる。惨めな姿を隠さねばとフィリアはすぐ目を背けてしまう。
「エドワード、さん。これは、違うんです。わ、私は」
「いいですよ」
「これは……え?」
「そのままでいいです」
エドワードは縁側の隣に腰かける。フィリアの顔は見ずに、ただ前を向いて口を開く。
「フィリア様は困らせたくなかったんですよね。ケイン様を。あなたは決して、誰の前でも取り乱したりしなかった」
「……」
「多分、あなたは罪悪感を抱えている。以前、あなたのお母様が亡くなった時の自分が、周りの人々に迷惑をかけてしまったことに。だから今度はそうしないように耐えている。こんな場所で一人で、寂しく、我慢をして、一人で殻に閉じこもることを選んだ……って、勝手な私の想像ですが」
フィリアの顔は見ない。今はまだ見ない方がいい。
こんな妄想を浮かべるくらいには、フィリアのことを理解しているつもりだった。外れていれば本当にただの痛い奴だと笑う。でも隣にいる少女は優しいから、人のことを想える人だから、他人を気遣う選択肢を選ぶことができる。本当は周りの人と同じく泣きたかっただろうに。私情を排斥して孤独を選んだ。辛さを一人で抱え込むと誓った。しかし、
「でも、もしそうなら……私が隣にいていいですか? 邪魔なら私は全て忘れます。許されるのなら、いさせてください。周りに見られたくないのも、見せたくないのもわかります。だから私は見ません。フィリア様の気が済むまで、私はただ前を見ています。ただ孤独にならないでください。それがいつか爆弾となって、あなたを苦しめてしまう。ファン様も、あなたが一人で泣いている様子は見たくないはずです。それに…………いなくなるのは……私も嫌です」
泣いている間は一人で楽な気持ちになるが、泣き終えれば、虚しさと辛さが残るだけ。楽しい時はその気持ちを周りに共有したいのに、悲しい時は一人になりたくなる。それじゃきっと駄目だとわかる。楽しい時も辛い時も、誰かがいないと終わらない。
誰かがいないと虚しさが残り続けて、一人寂しいままその先を生きねばならなくなる。自分がそうだったように、フィリアにはそうなってほしくない。こんな何もない自分でも、せめてこのくらいはしてあげたいと願った。
「……エドワードさん……ゎ、わ……たし」
その願いは、一人の少女へと届いていた。
「ぁ……ああ、あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!」
フィリアはエドワードの胸に縋った。その叫びはエドワードの体を震えさせ、聞くのは彼のみだった。
「うわあああああ!! なんで! なんでいなくなっちゃったの! まだまだ話したいこと、いっぱいあったのに……どうしてえええええ!! 私の前から、いなくならないでよ! お願いだから……お願いだから!」
「……私も……生きててほしかった」
「死んじゃ嫌だよ……もっともっと、一緒にいたかった……なのに……なのに……ぁあ……ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!!」
男の目頭が熱くなって、気づいたら、頬が痒くなっていた。
ただ、前を向いている。
────
「ファンは小さい頃から、近くにいるのが当たり前の存在でした」
数十分間、エドワードの胸に埋もれて泣き貫き、涙腺がようやく枯れた後、顔が涙と鼻水でくしゃくしゃになってしまったが、喋れるようになるまで回復した。おかげでエドワードの寝巻きは水没してしまったが、大して気にはならなかった。
「気づけば私の身の周りのお世話をしてくれて、お父様もお母様もいない時には、よく遊び相手にもなってくれました。祖父は私が生まれる前に亡くなっていたらしくて。だから、小さい頃は本当に私のお爺様だと勘違いしていたんです」
「それは微笑ましいですね」
「はい。良い思い出です。私が悲しい時も……ファンはずっと側にいてくれました。その時……私は…………一時の不安な感情から……本意ではない発言をファンに吐いてしまい……それでもファンは文句の一つも口にしなかった」
お母様が亡くなられた頃か。本心では微塵も思ってもないことを、苛立ちやストレスが自動的に悪い思考に変換させてしまう。フィリアもあったのだろう。今日までその後悔を忘れることができなかった。
「謝りたいです……面と向かってまだ……謝れていなかったのに……」
向き合った後悔で枯れた瞳が潤んでしまう。溢れてしまいそうになる雫を拭き取ろうとした左手に、エドワードはそっと自分の手を重ねた。
「謝罪ではなく、感謝の方がいいです。きっとファン様は、最後まで幸福な思い出を想い続けて天国に旅立ちました。だからフィリア様もごめんなさいではなく、ありがとうと。それだけで良いんです。その方が絶対……心が嬉しくなります」
「……はい。ありがとうございます」
重ねた手に温もりが宿る。涙の痕には何も流れなかった。
「実は、私が物語を書き出したのは、お母様が亡くなってからなんです」
「そうなのですか? てっきり私は、幼少の頃からそうなのだと」
「それが違うんです。私の始まりは……逃避からだったんです」
フィリアは昔話を始めた。重ねたエドワードの手は、いつの間にかフィリアが握り返していた。
「母親を亡くした日から、私は未来が見えなくなりました。まるで全身の筋肉が機能を停止したかのように、喪失が私そのものになっていました。そんな時ふと思ったんです。知らない世界に行きたいと。そこに行けば、辛いことも全部忘れられるんじゃないかって。だから頭で考え始めました。誰も知らない空想の物語を。当時の私はずっとその世界に入り浸っていて、土も草もない地面を歩いていました」
とか、それっぽく言いますが、結局は現実逃避です。
「それくらいしないとやってられなかったんです。現実ではないどこかへ逃げなかったら、そのまま部屋の隅っこで死んでしまいそうな気がして……。次第に私はその空想の物語を書き写していました。それは酷い出来でしたよ。起承転結が成り立っていなくてご都合主義の世界が展開されていて、まあ、今も似たような物ですが、でもそれが……とても楽しかったんです。たとえ逃避だとしても、私が作る物語がキラキラと輝いて見えて、安楽に浸れました」
そしたら、笑顔が少しずつ増えていきました。
「エドワードさんが屋敷に来たのは、その少し後です。せっかくだから、何も知らない人から感想をもらおうとしました。なんででしょうかね? 作品を作り上げたら、感想を求めてしまうのは。それが、あんなにボロクソに言われるとは考えもしませんでしたが」
「あははは……コメントしづらいな」
「でも新鮮でした。私の世界に誰かが足を踏み入れたのは初めてでしたから。それが、思いのほか楽しくて。次はどれを持っていこう、次はどんな感想を言ってくれるかなって、自然と期待していたんです。気づけば貴方は……私の世界の一部になっていました」
エドワードは自然と横を向いてフィリアを見つめていた。太陽がまだ昇り切っていない薄青い景色。そこに溶け込むように隣にいる彼女の姿に、心が奪われそうになった。
「本だけではありません。貴方は二度も私を守ってくれた。貴方はとても逞しくて……とてもかっこよかった。槍を操る貴方の姿がいつまでも見ていられるほどに魅力的でした。この前の誕生日は……お母様が生きておられた頃に来た日と同じくらい、私の心は満たされました」
「……そう言っていただけるなら光栄です。少し照れくさいですが」
「そのうち私は……ゎ……たし……えと、あの…………あっか……かかっ……はあ…………えっと……」
フィリアの言葉が、途切れ途切れになって思うように発せていない。握られた手から伝わる体温が高い。頬はまるでチューリップのようだ。意を決したのか、フィリアは赤面した顔を前に出して伝えた。
「貴方と家族になりたいって、思ったんです!」
枯れたはずの涙腺から、またしても熱い涙が涙痕を伝う。でもそれは悲しくは見えなかった。辛いのでも苦しいのも違う。一番良いのはなんだろうか…………勇気だろうか。
(一緒にいる、か)
ファンの願いが脳裏に過る。このことを伝えたかったのか。もうエドワードはわかっていた。
自分はフィリアが好きだ。
ずっと一緒にいたいと思えるようになった。
フィリアは自分に寄り添い温かさをくれた。フィリアがソルドの店で自分のために声を上げてくれた姿は、とてもかっこよくて。自然と見せる花のような笑顔が、美しく魅力的だった。そんな彼女を好きになっていた。
フィリアといる空間が、二人だけの小さな世界が、かつての友人の隣と同じくらい居心地が良かった。
フィリアとなら幸せになれると、心から思えた。
「あ、あの、エドワード……さん……」
フィリアがおどおどとした様子で問いかける。エドワードが返事をくれないのでどうしたらいいかわからないご様子だった。
「す、すいません! あの、今の言葉は忘れていただいて──」
「フィリア様」
エドワードは心を決めて言葉を発した。その含みが伝わったのか、フィリアは心臓の鼓動が早くなった。何を言われるのか、黙って見守っている。
「明日、フィリア様がお母様とよく訪れていた、あの美しい草原へ一緒に行きませんか? そこであなたと話したい。今後のことも……私の思いも」
「あっ……」
思いを言葉にすると小恥ずかしくなるのは万年の摂理だと悟る。格好も場所も今日ではかっこがつかない。一度日を改めよう。そしたら新たに始めたい。人生はまだまだ続いていく。
ファンが言っていた第二の人生が、自分にもあるのだと信じたい。
「はい。私も話したいです」
白紙の世界を彩ろう。恩人の願いを土壌に、二人が笑い合う世界を。子どもが描く理想郷のような物語を。
それは絶対に素晴らしい。




