無情②
「ここです、ここ。前の場面と矛盾していませんか?」
「むむむむむむむっ……」
エドワードが本に羅列してある文字の一行を指差し指摘していると、フィリアが怒っているのか苛ついているのか何かを我慢しているのか、よくわからない表情になってしまっていた。
「前の章では仲間を助けるのが最優先だとか言ってるくせに、こっちでは敵を倒すことが俺の最優先事項だとか、矛盾も矛盾じゃないですか」
「ほ、ほら! この敵と対峙する前に催眠術使いがいたじゃないですか! そいつに操られていたことにすれば」
「そんな描写どこにもないですよ。第一戦っていたの別の兵隊の人ですし。今回はキャラの深掘りと展開を意識するあまり、言動と行動が合致していないようにみえます。この後の下りでもちらほら見かけましたし。言っちゃえば細かい作りがカスですね」
「ぐふ、ぐはっ! き、今日は正面からのジャブが激しいですエドワードさん」
決まった一ページのように同じ画がそこにはあった。フィリアの本の感想会である。何も変わらない川のような日々、でも温かい日々を過ごしていた。変わったことがあるとすれば、フィリアの歳が十六から十七になったことくらいか。
フィリアの誕生日から一週間が過ぎた。パーティーはつつがなく進んで、最高の思い出になって記憶に残った。あんなに盛大で豪華な料理の数々を食べたことがなくて新鮮だった。
エドワードも村にいた頃は誕生日を祝っていたし、グレンとも冒険者の依頼で祝う所じゃない時以外は、二人で静かにお互いの誕生日を楽しんでいた。しかしどうしてか、今回の誕生日会はやけに心が躍っていた。やはり、プレゼントのせいかと考えた。
(喜んでくれて良かった)
一時は気に入ってくれなかったかと思ったが、少女の顔には笑顔が咲いてくれた。贈り物を喜んでくれることは、こんなにも嬉しくなるものなんだと理解できた。グレンが自分に愛武器をくれた時に、もっと喜びを表現しておけば良かったと今になって思う。
感謝と思いを伝えることは、相手にとっての敬意であり、優しさだと知れた。
(メレさんもいれば……な)
脳裏にちらついてしまったのがメレの存在だった。彼がいたら、誕生日会はもっと盛り上がっただろうか。今どこで何をしているのかわからない。フィリアの前では口にしなかった。せっかくの会を辛気臭い空気にはしたくなかった。考えても、メレは戻ってくるわけではない。それに約束したのだ。また会おうと。
なら余計な考えはしないように決めた。フィリアの幸せそうな姿を見れただけで、今は十分だ。
「ですがここっ、ここはどうですか!? 真っ先に思いついたのがここなんです! ここは絶対書こうって」
「それはなんとなくわかりました。やたら難しい専門用語ばっかりあったので、頑張って調べたのかなと」
ここはあれ、あれはこれと、自然と笑みを作って楽しく会話する両者。どちらも悩みが解消されて、ただ今のこの時を楽しんでいる。長々喋っていると、サンルームの扉が開かれて一人の老人が入ってきた。
「楽しいお話し中失礼しますお二方」
「ファン」
もう見慣れた顔だった。レインハート家で最古参の使用人であるファンが来た。エドワードが一番使用人の中で殻を破って話せる人物だ。長く話し込んでしまって約束の時間まで来てしまったようだ。
「ふむ……これはもう少し後にした方がよろしいですかな」
「いえ、大丈夫です。じゃあフィリア様。今日はこの辺で」
「わかりました。にしても珍しいですね。ファンがエドワードさんを誘うなんて」
確かにその通りだった。今日は午後からファンが自分に付き合ってくれないかと昨日提案をしてきた。別に断る理由もないので問題はないが、新鮮味を感じるのは事実。ファンは、はっはと笑ってフィリアを見つめる。
「たまには、男同士で語りたい時もあるのですよ」
今日のファンは一段と元気な様子………………な気がした。
────
「それで、ファン様。今日はどちらへ?」
「エドワード様に見せたい景色がありましてな。もうじき着きますよ」
エドワードはファンと二人で、魔妖の森とは反対に位置する小高い丘を登っていた。別に魔物と戦うわけではないので、二人とも軽装だった。エドワードがファンの歩く速度と歩幅に合わせていた。
「そう言えば、午前中はどちらに?」
意図はないが単縦に話題欲しさにファンに訊いた。
「ただの墓参りですよ」
「墓参り?」
誰のと訊こうとするより前にファンは答えた。
「私の妻です」
「っ!」
一瞬目を見開いてしまったが、考えてみれば別におかしなことはない。ファンの容姿ならば、人生の伴侶がいたと考える方がむしろ自然なくらいだ。しかし、既に他界しているとは知らなかった。そんなことを考えていると、またもやファンが新たに口を開いた。
「エドワード様には、以前私が冒険者をしていたと仰りました。その時代に妻とは出会いましてな。いやあ、それがまた、目を惹かれずにはいられない美人でして。私もその一人でした。それがどんな因果があってか、こんな大して取り柄もない男のことを好いてくれました。最初は困惑で頭が回りませんでしたが、私は本当に幸せ者でした」
「そうだったんですか」
惚気話のように聞こえるが、エドワードは逆に珍しさを感じた。こんなに楽しく話すファンをあまり見受けなかったからなのか。
「きっとファン様の優しいところに奥様も惹かれたのですよ」
「優しいなんてとんでもない。人は誰しもに優しくなれます。面白みもない個性だ。でも……そうですね。そうだとしても、私は嬉しい限りです。しかし私が愛した彼女も、病には勝てませんでした」
声のトーンが少しだけ落ちた。いつの間にか、ファンの昔話を聞かされていた。
「発症した彼女の病気は、当時はまだその治療法が確立していなかった。病にかかって二年で、彼女は私の手を握ったまま天国へ旅立ちました。大切な人を失った私は、それはもう魂が抜けたかのようにやつれました。酒に明け暮れ碌な飯は食わず、他人から見れば顔も酷い物だったでしょう。心臓が動いているだけの屍ですかね? そうなって初めて気づきました。こうまで落ちぶれてしまうほどに、彼女は私にとってなくてはならない存在だったのだと」
言葉の重みが違って聞こえた。より長く生きている長者だからそう聞こえるのか。思い浮かべたのはフィリアだった。彼女も母親を亡くしている。
大事な人が側にいるのは心地いい。でもいなくなれば、その反動が大きく巨大な刃となって心を貫く。それは四肢が切断されるのと同じくらい辛いものだ。エドワードも心当たりがある。苦しいなんて一言じゃ語れないほどに、流した涙は大きかった。
「死も考えました。そうすれば、また彼女と会えると願って。そんな時道端で声をかけてくれたのが、旦那様でした。まだ小さく幼かった。落ちぶれ穢れ、触れるのすら躊躇う身なりをしている私に優しく、「大丈夫ですか?」と。私は一瞬天使と見間違えてしまいましたよ」
声は溌剌たる物に変わり、楽しそうに語り始める。
「私を屋敷まで招き入れ、立派な食事まで恵んでくれました。その上、屋敷の主──当時のですから、旦那様の父上です。わざわざ頼みにいって、私を屋敷の使用人にまで雇ってくれました。奇跡としか言いようがありません」
自分に既視感を感じた。助けられたのだ。ファンはケインに、エドワードはファンに。救ってもらい、同じ屋敷に行き着いた。運命とやらかは定かではないが、それに近しい現象があるのではないかと考えてしまった。
「慣れるのに時間がかかりましたが、私は生きる気力を取り戻しました。まるで第二の人生です。空にいる彼女にみっともない姿は見せられないと、手を差し伸べてくれたあの人に恩返しをしようと、私は毎日を笑って過ごしました。そんな日々が積み重なって、今の私があります。今では彼女がくたびれた私に生きる希望を与えてくれたのだと、そんな風に考えています」
悲しみは確かにあった。愛しい人を亡くしてしまったことを悲しまないわけがない。でもファンが感じているのはそれだけではない。失った心の穴を埋めてくれる日常を、ケインたちが共にいてくれた。
この会話の中で語られたのは、幸福のほんの一部。もっと楽しいこともあって、もっと嬉しいこともあって、時には喧嘩したことあったかもしれない。第二の人生というのも、あながち間違いではと思う。
「それは……幸せですね」
死は辛い。しかし、不意に訪れた祝福を愛した人の贈り物と思えた隣にいる男の人生は、きっと幸せに違いない。
「ええ。私は幸せです」
男もそう断言できた。
「私はね、エドワード様。私と同じとは言いません。貴方が、貴方だけの幸せを掴んでほしいのです」
「え?」
「さ、着きましたよ」
ファンが前を指差す方向に目を向けたら、丘の頂が見えていた。三歩ほど前に進んだら、視界が緑一色に染まった。
「わあぁ」
見渡す限りの草原だった。さらりと生い茂る草が風に揺れて、まるで指揮に操られているオーケストラのよう。快晴も相まって癒される空気間を放っており、横に寝っ転がって日向ぼっこでもしたくなる気分になる。
(まるで)
そう、まるで、フィリアの屋敷の庭に似ている。あの庭のスケールを千倍にしたような感じがして、なんだか心が癒される。フィリアが草原を駆け回る姿はきっととても可愛らしくて、どんな一級の絵画よりも価値があると確信できた。
「気に入っていただけましたか?」
ファンが草原を眺めながら言う。
「ここは」
「見ての通りの草原です。昔……フィリア様の母上が生きていた頃は、家族でよくこちらにいらっしゃって遊んでいました。亡くなってからは、殆ど来なくなりましたが」
「そうなん……ですか」
「エドワード様にも見てほしくて、今日は連れてきたんです。綺麗でしょう?」
「はい。とても綺麗で、癒されます」
「そう思っていただけたのなら幸いです。後、一つ頼み事をエドワード様に聞いてほしくて」
「頼み事?」
「ええ。たった一つの」
緑溢れる景色と一体になりながら、ファンはただ一言。
「フィリア様と一緒にいてください」
シンプルで単純で、捻りも裏もなく、ストレートに願いを伝えた。瞳が僅かに潤んでる気がしたが、一度瞬きをしたらそうだったのかわからなくなった。
「一緒にって……」
「エドワード様。多分私は……もう……長くないんです」
長くない。その言葉はとても恐ろしかった。刹那の最中、無風になった気がする。文字通りの意味ではない、奥に潜む影。長さは人の命の長さを指しており、ファンはそれを否定した。それはつまり…………
「実は私、フィリア様の母上が亡くなる前には、もう余命宣告を受けておりました」
間を空けずに衝撃な事実を告白された。まるで予想外だ。フィリアの母親が亡くなる前ならば、もう五年以上も前ということになる。
「旦那様とフィリアは知りません。知らないと言うより、伝えるタイミングを逃したんです。余命宣告を受けた時には、長くて1年とだけ。まあ歳も歳でしたし、私にも番が回ってきたと受け入れました。死に恐怖を感じないということではありません。恐怖に負けないくらい私も、あの屋敷で多くの思い出を作れましたから。別れるのは辛いですが、それよりも幸福な人生に感謝をしたかった。良い頃合いを見て、旦那様に伝えようとしました。しかしその直前に……」
母親が亡くなってしまった。災いは苦しくも、男の体だけに現れてはくれなかった。
「もうご存知かと思われますが、フィリア様は相当なショックを受けました。旦那様も私も失意の底におられましたが、フィリア様はその比ではありませんでした。あの若さで死を経験するには早すぎた。私が目を背けたくなるほどに、彼女の世界は暗闇でした。人も光も、差し伸べた手すら見えない暗黒に囚われていました。比喩などではありません。当時のフィリア様はそれほどまでに苦しんでおられた。私は思いました。私は今、死んでいいのか? 自分ながら天寿を全うしたと思います。今更未練はありません。だが私がこの世を去って、フィリア様はどう思うのか? 近しい人がまたいなくなったしまったら、彼女は何をしでかすか。苦しみを増幅させてしまうのではないか。私はフィリア様が心配でなりませんでした」
だから私は、まだこの世を離れるわけにはいかなかった。
「医者も驚愕ですよ。私は余命宣告を拒絶して、今日まで生き続けてきました。フィリア様の苦しみを背負うには、旦那様だけでは荷が重すぎる。せめてフィリア様がまた笑顔を見せてくれるその日まで生きようと願いました。結果フィリア様は活気を取り戻し、暗闇からも顔を出してくれました。でも、それでも私は死ねなかった。ふとした私の死が、フィリア様のトラウマを引き起こしてしまうと考えてしまって。私はただ屋敷で近くにいることしかできませんでした。私では彼女のトラウマを消すことはできない。ただ……そこにいることしかできなかった。そんな時です……貴方が来たのは」
皺が増えた穏やかな顔の瞳に映っている人は、一人の救世主。傷が痕になって体に残る男の瞳に映る老人は、己の救い人だ。
「貴方といるフィリア様は本当に素敵です。いつも楽しそうだ。何より貴方はフィリア様のために体を動かせる。貴方はご友人の死を経験したからこそ、彼女の痛みに寄り添い、互いに支え合える関係だと考えています。フィリア様も貴方と一緒にいることを望んでいる。それは前の屋敷での言葉でわかりました。だから私は…………安心しました。貴方があの屋敷に来るまで側にいるのが、私の役割だったんです。使命感のような欠片が灰になって消えたようで………今度こそ…………もう未練はありません。エドワード様──」
「ちょっと待ってください」
慌ててファンの言葉を静止した。怖かったから。このまま話を聞いていたら、ファンがどこかへ消えてしまいそうで。安心しきった顔が儚く見えて……透明になりそうなのが嫌だった。
「何をそんな……そんな悲しい声で言わないでくださいよ。まだ終わりなんて……そんなこと急に頼まれても。わ、私如きがそんなこと。私はただの人です。物語の主人公でも強くもない。事実私は……たった一人の友人すら守れなかった」
「エドワード様」
ファンの声が耳に入る。前を見るエドワードの瞳の中のファンは、透明などではなく、今確かにその場にいる。
「そんなに卑下をなさらないで。フィリア様は貴方を必要としています」
「……で、でも、ファン様……自身の死を予見するような言い方はやめてください。貴方にはまだ、生きてもらわないと。あなたへの恩がまだ返せていません。それに誕生日だって。フィリア様の誕生日会は本当に楽しかった。また次の年、その次の年もやりましょうよ。思い出はいくらでも増やせます。あなたの話だって私は聞きたい。まだ、まだ出会ったばかりじゃないですか。だから…………だから…………」
必死になって思っていることを言葉にした。良い返事をもらうために、ファンの考えを変えさせたかった。それがうまく伝わったのかファンは、はっはと軽快な笑いを起こして喋った。
「すみませんエドワード様。責任を押し付けてしまうような口ぶりを。私も不謹慎なことを口走ってしまいました。思い込みすぎてきっと疲れてしまっていたのですかね。貴方を縛るような言い方をどうか許してください」
しかし頭を下げさせてしまった。気の抜けた空気が流れだしエドワードは困惑してしまう。
「い、いや、頭を上げてください。ほら! 今日はもう遅いですし、そろそろ帰りましょう」
「そうですね」
エドワードは胸を撫で下ろした。どうやらいつものファンに戻ってくれたみたいだ。
(あなただってフィリア様には必要だ)
ただ嫌だった。沈んだ悲しい話を聞くのが。ずっと楽しく過ごしてはいけないのか? ずっと幸福でいちゃ駄目なのか? 日々の暮らしは変化をしてしまう運命の呪いがかけられているのか? だとしたら、世の中は理不尽極まりない。誰かが死ぬのを見たくない願望は……罪なのだろうか……。
自問自答するエドワードは、帰ろうと果てしなく広がる草原に背を向けた。
「もう返してもらいました」
老人は呟く。
「え? 今何か言いました?」
「いえ、なにも」
本当に幸せだった。
「頼みましたよ」
────
二日後、ファンは自室のベッドの上で息を引き取った。
その時の顔は、とても安心しているようなものだった。




