無情①
フィリアは朝早くに目が覚めた。別に用があるわけではなかった。本当にただ早く起きただけだ。いや……理由があるとするなら彼だろうか。フィリアは大きなベッドから足を下ろし、ある場所へと向かう。
屋敷にある広い庭。母親が生きていた頃には、父と母と一緒によく遊んでいた。今はもう話すことすら叶わないけれど、心をあっためてくれる素晴らしい思い出だ。緑豊かな景色を眺めるだけでも、心満たされるのはフィリアだけではないはずと思っている。
「あっ」
そんな場所に男が一人、俊敏な動きで槍を振るっていた。こんな華麗で趣がある閑雅な庭で物騒な武器を振り回すなど、男自身も似合わないと自覚していたが、フィリアから見る男の立ち姿は洗練されていて、まるで一枚の絵画のよう。
武の素人であるフィリアから見てもその動きは繊細で、丁寧で、美しい。額を伝う汗も清潔さがある。無骨な穢らわしさなど微塵もない、見てて夢中になるほどに綺麗だった。そんな彼が屋敷の庭に相応しくないとは、フィリアはあまり思えなかった。
最も、見てて夢中になっているのは、綺麗だという純粋な感情ではなく、もっと別な感情が混じっていることも要因ではあるが。
彼──エドワードは仕事がない日はよく早起きして同じことをしている。鍛錬をしなければ体が鈍ってしまうらしい。それは別に構わなかったのだが、あの時からエドワードはより入念に鍛錬を行うようになった。
メレが去ってから二ヶ月は経過した。
メレとの一見で、フィリアは怖い体験をしたが、事は一応無事に終わった。メレのことは気になるが、自分ではどうすることもできない。それから後、エドワードは少し変わったのだ。やることはさして変わり映えはしていないが、打ち込む熱が上がったような気迫が感じられた。
聞けば、メレと一戦交えた際、エドワードは負けてしまったらしい。フィリアはエドワードさんみたいな強い人でも負けるならば、メレはどれほどの猛者なのかと気になった。それが原因か定かではないが、鍛錬に熱が籠っているのはそれかもしれない。誰かに負けてられない感情が灯るのは、別に珍しいことではない。
ただフィリアは体を壊さないことだけが心配だった。やり過ぎはよくないと昔から言われている。鍛錬しているエドワードは素敵だとは思うが、無理をしない範囲でと願っていた。
「エドワードさん」
数分眺めてからエドワードに声をかけた。でも応答がない。夢中になり過ぎて自分のことに気づいていないようだった。
「エドワードさん」
二度目は声量を大きくした。そしたらエドワードはこちらへ振り向き、鍛錬を止めてくれた。
「フィリア様。起きておられたのですね」
「鍛錬ご苦労様です」
近くで見るエドワードの顔は凛々しかった。最近は直視すると頬に熱が増して、心に安心が生まれる。幼い頃に母の体に用もなく抱きついて生まれた安心と同じような気がした。
「そんな褒められることではありません。私が勝手にやってることなので」
「確かに、以前私に矛を振り向きさまに向けた行為は、褒められた行動ではありませんでした」
「うっ、あまり思い出したくない記憶が……あ、あれは咄嗟のことで……意地悪ですねフィリア様」
「普段の感想のお返しです」
「根に持ってるじゃないですか」
短い会話でも笑いが生まれる。そんな些細なことでも幸せを感じられることは、本当に幸せだという証だ。母親が死んでしまった時には、人生なんて暗闇しかないと信じて疑わなかったが、それが嘘のように感じられる。痛みはまだ引いていないが、腫れた所を幸福が冷やしてくれていた。
「エドワードさんは今日どうしますか? 何もなければ、先日読み終わったと仰られたあの本の感想会でもどうですか? ずっと聞きたかったんです。前にお父様が買ってきた紅茶でも飲みながらでも」
あの本というのはフィリアが書いた本ではなく、フィリアが街の書店で買った本のことだ。ふと立ち寄って探していたら、有名な著名人が書いた本を見つけて、衝動買いした所すごく面白かったのである。その後エドワードに貸したきりだった。マニアではないが、フィリアも自分の本以外にもそれなりに色々な本を読んでいる。
今回の本は、読んでいる最中でもエドワードに内容を暴露したくなるほど素晴らしい物だった。たまには自身のではなく他の本の感想を語り合うのも悪くない。そう考えて、エドワードに提案をしてみた。
「ああ、えっと……その……」
二つ返事で了承してくれると思ったが、エドワードは歯切れが悪かった。
「すみませんフィリア様。ぜひ申し出を受けたいのは山々なのですが、今日は少し出かける用がありまして」
「そうなのですか?」
今日はソルドの店の仕事は無い日のはずだった。ならばそれ以外ということか。
「ええ。少し買い物を」
「なら私も一緒に──」
「ああ、いえ! あの、その」
付き添いを申し出ようとしたら、エドワードは両手を前に出して静止した。少し焦っていた様子に見えた。
「今日は大丈夫です。すごくつまらない物なので、もしかしたらないかもしれませんし」
「別にそんなこと気にしな」
「とにかく、大丈夫です! すみません失礼します!」
エドワードは無理矢理と言った感じで、槍を持って退散して行った。疑問と困惑が迷路のように頭をぐるぐると回転するフィリアが一番感じていたのは、寂しさだった。
「なんで……」
────
「こんにちはソルドさん」
「おお、フィリアさん。いらっしゃいませ」
別の日、ソルドのカフェにやって来たフィリア。挨拶を済ませれば、店内に目を走らせる。もちろんエドワードを探すためだ。最早店に来る度習慣化している。
「……あれ?」
すぐに見つかると思ったが、いつまで経ってもエドワードを発見できなかった。奥も見たが同じく。仕方なくソルドに訊いた。
「ソルドさん。エドワードさんはどこに?」
「エドワードさん? 今日は早くに上がりましたよ。前からこの日は早く上がらせてくれって言われてたんでね」
初耳だった。そんなことエドワードは言っていなかった。また以前感じた寂しさが胸の中で蠢く。
「まあ今日は人も空いているので良かったんですが。もしかして、フィリアさん知りませんでした?」
「はい……全く」
「そうですか。となると、あれか……なるほど、なるほど……」
「ソルドさん?」
ぶつぶつと何かを呟いているソルドは、少し楽しそうだった。
「いえ、なんでもありません。まあ、エドワードさんも何か用があったのでしょう。気にすることはないですよ」
「そうですか……」
「人はそれぞれ事情がありますから。メレさんも仕事の都合で街を離れてしまって残念です。せめて別れの一つでも言って欲しかった。新作の試食を頼める時も、いずれまた来ますかね」
ソルドはメレの正体を知らない。エドワードの方から嘘の事情を伝えていた。深くは尋ねなかったのも、また彼に会えることを願っていたからか。子どもの無邪気に似た笑っている顔をまた見たいと。事情なんて詳しく知らずとも、ソルドはいつもと変わらず店を開いている。メレのことを信じている。
でもフィリアは思った。事情がわからずとも信頼できる関係は素晴らしい。でもやっぱりできれば話してほしいと考える。わからないともやもやする。わからないと心がちくちくする。
そして、寂しく思う。
フィリアは相槌を打った後、適当な席に座ってスイーツを頼んだ。
────
それから二週間、エドワードはなんだかんだ理由をつけて一人で行動することが目立った。今日も一人でどこかに出かけている。中には本当に用があったかと思うが、殆どは理由がチグハグな物ばかりだった。まるで、フィリアを避けているように見えた。
(私……何かしたかな)
覚えはない。だが忘れている可能性もある。だから必死に思い出そうとした。避けているということは、一緒にいたくないからだ。つまり、嫌われていると同義だった。
(……嫌だ)
寂しさが苦しさに化けた。苦しさは痛みが生じる。痛いのは嫌だった。この痛みは母親が遠くへ行ってしまった痛みに似ている。どうしてここまで苦しくなるのだろう。
メレのことを屋敷で聞いた時、体の全身が震えた。命を狙われているなんてことは今までなかったから、その反動もあってドス黒い恐怖が全身に絡みついてきた。虫にビビる恐怖とはまるで違う。本当に呼吸もできなくなるほどに怖かった。
「私が必ず守ってみせます」
だからエドワードの言葉が嬉しかった。その一言だけでも、フィリアの恐怖を和らげてくれた。安心をくれた。誰でも言って和らぐわけではない。エドワードだから、ここまで心が落ち着くのだ。
鍛錬の時も、森の中で自分を助けてくれた時も、彼はかっこよかった。彼はあまり真に受けてはくれないが、エドワードはフィリアにとって、ヒーローのような存在だった。
そう思っているからこそ、寂しさが生まれてしまう。エドワードの言葉が嬉しかったのも事実だが、同時に怯えた。恐怖で怯えたわけではない。エドワードがどこか遠くへ行ってしまうことが、自分の死を間近に感じるより怖く見えてしまった。そう考えたら、自然とエドワードを引き止めていた。
自分のためにとはわかっている。しかしどうしても言わずにはいられなかった。側にいてほしい、己の近くで守ってほしいと。今思えば身勝手な発言だった。結果的にはメレが助けてくれた。でもあの時、言葉を曝け出して後悔はなかった。恥ずかしさは残っているけれど、本音は伝えることができた。
うまくいったはずなのに、今現在、エドワードは隣にいない。ただ出かけているだけだ。そんなのはわかっている。しかし本当に自分を避けているとしたら、心が耐えられない。
離れていかないでほしい。
「……あ」
屋敷の外から足音がした。窓から確認すると、エドワードが屋敷の玄関まで後少しの距離の所で歩いていた。帰ってきたのだ。フィリアは居ても立っても居られず、自室を飛び出し駆けた。
迸る稲妻のように勢いよく玄関の扉を開けた。
「おわっ! フ、フィリア様?」
エドワードがフィリアが開いた扉にぶつからないギリギリの距離にいた。なぜいるのかとびっくりしている様子だった。
「ど、どうしました? わざわざ出迎えなんて」
エドワードを見たら安心した。精神が和らいで、心があったかくなった。そうなったら忖度も気にせず、率直にエドワードに訊いていた。
「私……何かしましたか?」
「はい?」
エドワードが何も知らないのか、とぼけているだけだったのか。苦しさと心地よさが入り混じった心のフィリアには、判別ができなかった。
「何かとは……なんですか?」
「私が何か、エドワードさんに無礼を働いたのではないですか?」
「え? な、何ですかそれ? そんなことあるわけないじゃないですか」
「でもエドワードさんは最近私を避けています。理由もないのに避けるのはおかしいです。今日だって、エドワードさんはどこに出かけるかすら教えてくれませんでした」
「それは、その……まだ話せないと言いますか……」
濁した言い方。避けているのを否定しなかった事実が、フィリアにとって悲しかった。やはり自分が何か粗相をしたのだと思い込んだ。
「……私と一緒に……いたくありませんか」
「っ! 違います! それだけは絶対、違います! これには理由があって」
「なら理由を話してください。知らないままは……嫌です」
「……」
エドワードは戸惑う。そこまでするほど話してくれないのかとフィリアは落胆したが、わかりましたと、根負けしたようなエドワードが目の前にいた。
「確かに私は最近、フィリア様を避けていました。でもそれは負の感情からしていたわけではありません。今日までばれたくなかったんです。でも仕方ありませんね」
「ばれたくない?」
「本当はもう少し後に渡す予定でしたが──」
そうしてエドワードは両腕を前に出す。エドワードはフィリアが玄関扉を開けた直後、咄嗟に両腕を背中に隠したのだ。両手に持つある物を隠すために。フィリアは思考が追いつかず気付いてもいなかった。
「フィリア様。誕生日おめでとうございます」
世界に色が咲き乱れた。フィリアの視界を埋め尽くす上質な青とオレンジは豪華絢爛な強さを放ちつつ、凪の如く静謐な気品を纏っていた。エドワードが手に持っている青とオレンジのカーネーションの花束は、甘く芳しい香りが鼻をくすぐった。
フィリアは数秒間思考が吹っ飛んだ後、正気を取り戻した。
「たんじょう……び」
「え? いやいやいや、それ何ですかみたいな顔しないでくださいよ。フィリア様自身のでしょう。昨日食事をしていた時、誕生日パーティーを今日しようとケイン様たちと話したじゃないですか。その時、フィリア様が上の空な顔だったのが気になっていましたが」
そうだった。今日は自分の十七歳の誕生日なのを思い出した。ようやく頭の中が冴えてきた。そうだ、そうだ、今日はこの後使用人たちが腕を振るってくれた料理を皆で食べるのだ。最後にはケーキを食べる。苺たっぷりのケーキが好きだから、母がよく自分の乗っている苺をくれていたのを覚えている。
家族で過ごす誕生日は、いつだって楽しい。
「これは……もしかして……プレゼント?」
「は、はい。そうです」
「もしかして……一人で出かけていたのは」
「プレゼント探しです。私は人に贈り物をするなんて縁がなかったのですが、その……今回は頑張ってみようかと。誕生日もそうですが、今までの礼も込めて。自分なりに考えたり、ソルドさんにも訊いて、この花束もソルドさんの知人の生花店で選ばせてもらって……いたのですが」
わかりやすくエドワードは落ち込むそぶりを見せた。
「お気に……召しませんでしたか。まあですよね。ロクにプレゼントもしてこなかった私が悪いんです。当然ですよね……」
「えっいや、ち、違います! すごく、すごく嬉しいです!」
フィリアの反応が薄かったため、気に入っていただけなかったと思ってしまったエドワードを慌ててフィリアは否定した。世界が百八十度ひっくり返った展開に驚愕が脳を支配して、正常な反応ができていなかった。
「そうだったんですね…………なんだ。私の勘違いか」
小さな笑みが溢れた。胸のつっかえが取れて楽になった気がした。寂しさはもうない。勝手に早とちりして、勝手に都合よく解釈していただけだった。我ながらアホ丸出しである。変な気をせずとも今日でわかる予定だったのに。エドワードがせっかく用意してくれたサプライズを無下にしてしまった。
だからちゃんと前を向いて言わないと。
「フィリア様?」
「エドワードさん」
青とオレンジのカーネーションの花束を受け取り、幸福が心を満たしてくれた。どんな美しい花よりも、目の前にある花たちが間違いなく、世界で一番綺麗だった。
「私は一生、この日を忘れません」
ありがとうございます。
プレゼントは毎年貰ったことがある。母、父、使用人、両親の関係者から多くのプレゼントを。どれも嬉しかったし喜んだ。だがなぜだろう? 今日はいつもより、喜びが強い。それがとても不思議に思えて、でもすんなり受け入れられた。
青のカーネーション。オレンジのカーネーション。花言葉はそれぞれ────
永遠の幸福。
あなたを愛します。
二人は意味を知らずとも、巡る日々の片隅で、強く、強く、無意識に、それらを願っていた。




