日々と敵⑤
風が吹くの音も、人の足音も、心臓の音も、全てが無音に変質してしまい、メレの言葉だけが脳内で繰り返される。
「……え?」
真っ先に思いついたのは、聞き間違いだということ。きっと別の何かを言っていて、自分は先の憂鬱な心からおかしな言葉に自らが変換してしまったと考えた。しかしそれはメレの次の言葉で悪い杞憂に終わる。
「嫌やろ? 殺されんの?」
今度ははっきり聞こえた。なぜ、どうして? そんな言葉が今出てくる? 思いがけずにもほどがあり過ぎる。
「メレさん……冗談でもそれは如何と思います」
「そんなん言わんわ。俺はマジやで」
おどけた調子は変わらないが、言葉の先端にある冷たい感情が事実を物語っている。意味がわからないと問おうとした時、メレの方が早く口を開いた。
「屋敷に行かれたくなかったら、明日の夜、魔妖の森に流れるウーヨ川の下流沿いまで来てや。来おへんかったら……エドワードさんは"また失うことになる"」
避けられない脅迫が肌を冷やす。震えるほどに怖く、鋭い。店の中でフィリアを庇ってくれた人間と同一人物とは思えなかった。受け入れるという選択肢以外は、最早なかった。
「……わかりました」
「ほんなら、エドワードさん。また後日」
凍える雰囲気が無くなり、笑って肩を叩いてその場を去っていく。ソルドがいつまでも戻ってこないエドワードに声をかけるまで、呆然と立ち尽くしていた。
────
翌日の夜、エドワードは死闘を結んだあの森へとまた足を踏み入れた。今度は無断で来てはいない。フィリアやケインには、メレの家に泊まりに行くと言葉を残してある。男子二人で飲み明かしたいと言うのは、中々真っ当な意見だろう。
嘘をつくのは忍びなかったが、メレに会うから半分は合っていると自身を誤魔化した。行かない選択肢があるならそうしたかったが、無視をすれば何をされるかわからない。槍や武装などは前夜に外に隠しておいた。何も知らない彼女の見送りを受けて、エドワードは屋敷を出た。
「……」
昨夜はよく眠れなかった。特に眠気はなくむしろ良好だが、足取りが重いのは確かだった。
「何が……なんだか」
メレの発言が未だに信じられなかった。どうしてあんなことを? メレはただのソルドの店の常連さんだった。話してみれば気さくで良い人で、グレンと話してるみたいで穏やかな気持ちになった。自分とグレンを愚弄する言葉に介入もしてくれた。そんな人がなぜ?
「私は……彼を何も知らない」
だがよく考えてみれば、エドワードはメレがどのような人物なのかまるで知らなかった。半年の中で知れたことと言えば、彼の好物くらいだった。そう言えば、メレは普段何をしているのか、仕事は何をしているのかすら知らない。記憶を振り返ってみれば、話をしようとした時、さりげなく流されたことがあったかもしれなかった。
そんなこんな考えながら森に流れるウーヨ川沿いを歩いていると、一人の人影が川の水を触っていた。
「……お、来た来た。こっちやエドワードさん」
親しい友達を手招きするかのように上機嫌に手を振っている。場所が違えば笑顔の一つも見せられたが、今は却って不気味に感じられた。森の闇に溶け込むような黒い服装で身を包み、足元には大振りのハンマーが置かれていた。言葉通り、メレがそこにいた。
「時間どおりやな。エドワードさん真面目やね~」
「破るわけにはいきませんから」
「えらいピリついとんな。そんな警戒せんでええよ。すぐに喰いつこうなんて思うてへんから」
まだ手を出さないと言っている。メレは談笑する準備をするように川原に腰をつけた。
「よっこらしょ。エドワードさんも座ったらどうや? ちなみに言うけど、俺以外いないで。でもこの森、魔物ぎょーさんおるで有名やから、邪魔されんようにエドワードさん来る前に粗方始末しといたから、そこは安心してや」
そう言われ周囲の匂いを嗅ぐと、微かに血の匂いがした。見えてはいないが、魔物の死体がそこら中にあるとわかった。用意周到である。
「あんたとちゃんと話してみたかった。こうして二人で話すのは初やろ?」
「そうですね。ですが、その前にあの言葉の意味を答えてもらいたい。率直に伺います。メレさん、あなたは一体何者なんですか?」
一瞬無言の空間が広がり、川の流れだけが耳をつんざく。メレはエドワードの瞳を見つめて言う。
「あんたと一緒や」
「一緒……?」
「少し語弊があるか。昔のあんたと一緒や」
「む……かし」
「わかるやろ。俺も冒険者や」
冒険者という聞き馴染みのあるワードに驚きこそしなかったが、メレからそんな言葉が出てくるとは思わなかった。しかしメレは続けて言った。
「これもまた語弊があるか。なんちゅうかなぁ……汚れに汚れて、取り返しのつかなくなった冒険者。光の裏で生きる冒険者。裏冒険者とか名前つけようか?」
エドワードとは異なると否定した。メレ自身も己の仕事に名前を付けるのは初めてらしい。
「裏? それはどういう……」
「そんな珍しがることでもないわ。裏、隠密、諜報、暗部、秘匿、暗影、暗殺、暗躍。こんな単語が世界にあるのは、そういう奴らがうじゃうじゃいるからや。善にも悪にも両方。冒険者も例外じゃあらへん。一番わかりやすいのは汚れ役か?」
「……つまりメレさんは、人には言えないことをしている人だと?」
「まあそやな。一応、裏の通り名に鏖害とか言われとるんやけど、そっちでは呼ばんといて。ダサいから。ほんま名付け親ネーミングセンスないよなあ。エドワードさんもそう思わへん?」
「いや特には」
「そんな真面目に答えんでええよ」
メレは指摘して、手元にあった小石を川に放り投げた。
「俺は命令されたんよ。人使いが荒い裏の世界のお偉いさんから。レインハート家のご令嬢から、奪ってこいって。殺すは言い過ぎたな」
「奪う? 何を?」
「フィリアちゃんからちゃんと聞いとらん? 死んだ母親、魔導学者やったんやて」
縁のない響きだった。魔法に関する研究、分析、解明を行っている学者。その殆どは国の政府所属の官僚として働いていると聞き、魔法のエキスパートと名乗ってもいいくらいの素質と度胸を持ち合わせている。
「それもかなーり優秀な。俺ら下々の者には関わりないわな。別に魔法の名家の家系とか違くて、単に母親がそうだっただけらしいわ。国に多大なる貢献をした聖人様。ま、魔法とか言われても俺らはなーんもわからへんけどな」
ケラケラと自嘲するように言う。
エドワードはメレが言った事実を初めて知った。彼女の家が裕福なのは、母親の尽力があったからなのか。しかしその話を聞いても、エドワードの心は解せなかった。
「で、それが何ですか? フィリア様のお母様が魔導学者だとして、それがフィリア様が狙われる理由になるんですか?」
「まだ話は終わっとらんわ。その母親の死後、彼女が持っていた魔導研究の道具、資料。研究の実験に使われた薬品、鉱石、触媒とか諸々は、全て国が回収した。形見とかは別やろし、魔法に詳しいのは母親だけやから、遺族が持っといても価値ないわな。それで──」
「もしかして、お母様の何らかの価値ある遺品をケイン様たちが隠し持っていると?」
「あー……」
一つの仮説を思いついた。一人の人間が溜め込んでいた宝物を、誰か悪い人たちが盗もうとしているのではないか? 魔導学者ほどの人物であれば格好の的になってもおかしくないと考える。
「いやちゃうよ」
しかしすぐにメレが否定した。
「良い線いっとるけど、それなら母親が死んだ後すぐ動きおる。何年も経ってる今じゃ考えられへんな。そのこと言おうとしたら電光石火でエドワードさん入ってきよるから。早とちりはいかんわ」
「……じゃあ何だと?」
「俺が言いたいんは、お偉いさんの連中の中に、フィリアちゃんが魔導の血を引いていると盲信している輩がいるってこと。もっと簡潔に言えば、フィリアちゃんが魔導書を書いてると思い込んでる」
「魔導書……」
これまでの生活の中で、聞き馴染みもお目にかかりもしない代物だった。
稀代の天才魔法使いが書き記したダイヤよりも価値のある書物か、古代の遺跡から発掘される不明の古文書か、あるいは誰も知らない不幸を巻き起こす禁忌書か。定義は様々存在し、用途も多種多様に存在する。
たった一冊だけで世の魔法均衡を崩してしまう物もあれば、読むだけで全知全能の魔法を取得できる可能性を秘めている。最早、魔導書自体が魔法の如く力を持ち合わせている。価値だけ見れば、数十年は生きていけるだけの額がある。
「多分フィリアちゃんがソルドさんの店に来た辺りやか、連中に魔導書だとか噂が流れ出したのは。どっかからか漏れ出して、情報が行き着いたんやろなぁ。俺はそれを奪ってこいって言われたんや」
「ま、待ってください! 魔導書? い、一体どんなヤバい理由が出てくるかと思ったら、わけがわかりません。そんな情報デタラメだなんて、メレさんもわかってるでしょ」
何か壮大な陰謀やらが口に出されると思いきや、とんだ拍子抜けをした。そんなエドワードに共感するようにメレが笑う。
「実は全くその通りや。俺は詳しく見てへんから内容までは知らんけど、少しチラ見したことがあってな。あれは百パーただの物語本や。趣味でしかあらへん。まあ中身知らんくとも、エドワードさんとフィリアちゃんの話してる所見とったら、一発でわかったけど」
「で、ですよね。だったらこんなこと──」
「「はい違いました。あれはただの本です」って。それで理解してくれるほど、お偉いさん頭良くないんやわ」
メレは容赦なく冷酷な現実を叩きつけた。それで事が終わるなら、自分は貴方を呼んではいないと。
「まともな判断ができてないんよ。お偉いさん、栄華を誇ってたか定かやないけど、パッと見りゃただの老いぼれジジィやからな。経年劣化は避けられへんし、金と地位が欲しくてしゃあないんやろ。本だけ持って納得いかんかったら次は拉致して、それでも駄目やったらヤケクソにどっか人身売買に引き渡して……ロクなことにならん。それに俺は逆らえられへん…………これが俺が何者かの説明や。満足?」
会話を終わらせるようにメレは立ち上がり、足元にあったハンマーを拾い上げた。もう甘菓子が好きなメレの純粋な瞳はなく、魔物に対峙した冒険者のそれだった。エドワードは思わず息を呑んでしまう。
「どや? なんかまだ聞きたいことあんなら聞くで?」
ハンマーを肩でおぶりながら余裕の調子で返す。メレはもうどんな展開になっても動じないと言わんばかりだ。エドワードの方はまだ心の整理ができていないというのに。このまま黙っていれば、彼に槍を向けなければならないことになる。
その事態はもう決定事項なのかもしれない。ならそうなる前に、エドワードは最後に一つ聞いておきたかった。
「……一つ、いいですか?」
「なんや?」
「メレさんが……今ここにいる理由がわかりません」
メレは目を細めた。
「どゆ意味や?」
「メレさんは、フィリア様が書いた魔導書を奪うことが目的なんですよね? 実際には違いますが。それなら、夜にでも屋敷に忍び込んで盗み出すか、フィ……言葉にしたくありませんが、フィリア様を拉致でもすれば済む問題ではないですか?」
「……」
「今考えれば、私に警告をした行動の意図が不明です。黙って実行をしていれば良かったはず。だから……私を呼んだのは、何か別の理由があるのではないですか?」
質問が終わると同時に、エドワードは愛武器の槍を両手で構える。これからどうなってもいいように。次に来るのはメレの返事か、土を蹴る音かと思案していると、
「はぁ……なるほど」
気の抜けた男の言葉が出てきた。
「でもエドワードさん。それはまた早とちりやで。あんたみたいな元凄腕冒険者が家に一緒に住んでたら、侵入できても気づかれる恐れがある。だからこうして呼び寄せた。そう考えるのが妥当やない?」
「むっ……」
悔しいがその通りかもしれない。フィリアが事に絡んでいるせいで、知らない内にまともな思考ができていなくなったのかもしれない。己の未熟さに呆れていると、
「でも当たりや」
称賛する声がエドワードに届いた。
「え?」
「最初言ったやろ? あんたとちゃんと話がしてみたかった。俺が言った妥当は本心の一割。後の九割は────」
「俺の私情や」




