招かざる客〜ある殺人者の誤算〜
リリアベル&エリックシリーズ③
殺人者視点→〆はリリアベル視点
咄嗟に手に掴んだものを振り下ろす――と、それは綺麗に男の頭に吸い込まれ、形容しがたい音と、濁った短い呻き声を上げて男は床へと崩れ落ちた。
「…お前が悪いんだっ…!」
その言葉に抗議をするかのように倒れた男からは形にならないくぐもった声が漏れ、とどめを刺す為に更に数度繰り返し腕を振り下ろす。
「……はぁ…っ、…はぁ…」
衝動と興奮で荒くなる息が肩を揺らす。
代わりに静かになった男の頭の周りにはどろりとした小さな血溜まりが出来ていて。一度確認の為、つま先でその体を蹴ってみるがピクリともしない。
死んだ――、いや、殺した。
大きく喉を鳴らし、深く息を吐く。
「……は…、はは…はははっ!」
殺したことに対する後悔はない。
それが血の繋がった弟であったとしてもだ。
優秀な弟と不出来な兄。それが自分たちを取り巻く世間の評価。
そして本来なら先に生まれた自分が前に語られるはずの名も、「弟、――その兄」
…いつも、いつも、いつも、いつでも!
「…これで…、俺はだだの『俺』でいられる」
やっと…、やっとだ。
目の上の瘤であった弟はもういない。ここから始まるんだ。
だからこそ捕まるわけにはいかない。
ただ幸いなことに今日は、弟家族は本人を除いて皆んな出掛けていて戻らず、弟自身は用事があり、それを済ませ次第合流する予定だと言っていた。
その用事が来客であることは交わした会話の途中で聞いた。あれから大分経ったのでそうこうしてるうちにその客が来るかも知れない。
かと言って、このままの状態で逃げるのもまずい。色々と残してしまっている自分の痕跡を隠蔽しなければ。
来客をやり過ごしてから手をつけるか?
それとも、来客ごと巻き込むか?
または犯人になってもらう手もある。
その際は共に亡くなってもらうことになるが。
一人手にかけたのだから、もう一人増えても同じだ。それで己自身を確立できるのであれば。
―――ジリリリ…ン
玄関ベルの音がする。どうやら来客が到着したようだ。
ならば、その選択は相手を見てから決めることにしよう。
□
来客を迎える為に玄関の扉を開けて、にこやかに作った笑顔の先に人影は見えず。ひとつ瞬いてから視線を下げる。
そこにはこちらを見上げるように二つ並んだ小さな体。子供が二人。
予定の来客ではなかったか。
当惑を顔に浮べれば、二人も同じように眉を寄せる。
二桁にいったくらいの子供らしい素朴な少年と、ハッとするくらい顔の整った少女。少女の方は珍しいピンク色の髪だ。近所の子供だろうか?
「…あ、えーっと、何の用だろう?」
取りあえず声を掛けてみれば、少年の方が口を開いた。
「あの、ハワードさんは?」
「え?」
「僕、エリックって言います。こっちはリリアベル。 今日、ハワードさんと約束をしていて」
「ヘンリーと?」
「はい」
なんと…、弟の来客とはこの子供だったのか。
だけど流石にこの子供らを巻き込んでの話しは作りづらい。であれば、ここはやり過ごす方が無難だろう。
( どうせ子供だ、どうとでも丸め込める )
「すまないな君たち、私はヘンリー…、ハワードの兄でウォルトと言うんだが、弟は急な用事が出来てしまってね」
「用事? じゃあハワードさんはご不在ですか?」
「そうなんだ。 私も急に留守番を頼まれて」
「そうですか…」
エリックという名の少年は眉を下げる。その後ろでピンク色の髪が揺れ、ツンと少年の肩を少女がつついた。
「ね、エリック、ダメだよ、ちゃんと貰わないと」
「え…?」
「――貰う?」
思わず口をついた。そんなウォルトを少女が見上げる。綺麗な空色の目に、幼女趣味などないけれどドキリとしてしまう。
「はい、エリックのお父様の頼まれものをハワードさんが預かってるんです。 それがどうしても今日必要で…――ね、エリック」
「えっ、や、え?」
「……ね?」
「あ、はい…」
ピンク髪の少女――、リリアベルの呼び掛けに少年は若干焦った様子で頷く。
弟からは用事の内容までは聞いていなかった。ただ来客があるとしか。
「本来ならおじ様が来るところだったんですけど、忙しいらしくて私たちがお遣いに出されたんです。 だからどうしても持って帰らないと」
「いやしかしそう言われてもねえ。 私はそんな話しを聞いてないからなあ」
「じゃあお家にお邪魔して探させてもらってもいいですか?」
「え?」
何を言い出すんだ?
驚いて目を見張るが少女は気にせず続ける。
「私もよく知らないんですが、多分捜査に関するものだと思うんです」
「そうさ…?」
「ええ、事件とかを捜査する『捜査』です」
「…捜査」
「はい、エリックのおじ様、治安維持局の捜査官なので」
「は…?」
( 今なんて言った? )
ウォルトの驚愕を知ってか知らずか、頬に手を当てたリリアベルは、今度は心底困ったような表情を向ける。
「でもどうしよう? 私たちが予定の時間通りにお遣いを出来なかったらおじ様自身が来ちゃうかもしれない。…だよねえ? エリック」
「――えっ? ……あ、そう、かも…?」
「いや――、」
それはまずい。
子供だけならどうとでもなるだろうが、本職が今ここに来られるのは非常にまずい。
少年が何か言いたげな顔で少女を見ていることなど切羽詰まった今の思考では気づくことなく。舌打ちを飲み込み口を開く。
「…わかった。 探してくれて構わないが、一応私も付き合わせてもらうよ」
「ええ。 ありがとうございますウォルトさん」
少女はウォルトに向かってニッコリと笑う。天使の如くな笑顔だが「余計な手間を」という気持ちが勝る。
何にせよ、さっさと見つけてもらって追い出そう。
体をずらし二人を家へと招き入れる。
弟の遺体が転がっているのは居間だ。家族が過ごす場で来客を迎えるとこではない。ましてや仕事的なものならあの部屋は関係ないだろう。
「では、どこから探す? 弟の書斎かな?」
それでも居間に行かれないように誘導すれば、少女がこちらをジッと見上げて目をパチリと瞬く。だけど何も答えないので、見兼ねた少年が代わりに答えた。
「…あ、じゃあ、書斎からでお願いします。 それでいいよね? リリアベル」
「………、…ええ」
まるで仕方ないという返事だ。
少女は少年の斜め後ろに位置を定めてはいるようだが力関係が測り知れる。
だからか少しだけ興味が湧いた。
「君たちはこの辺の近所の子なのかい?」
「はい、東側の一ブロック隣です」
「へえ」
少年が答える。東側というと貴族の邸宅がある方だ。
( …ハッ、弟は貴族とも繋がりがあるのか )
心の中で鼻を鳴らす。だけど弟は大学の教授、事件だとかに関わることはないはずだが。
「それで、一体弟は何の捜査に関わっているんだい?」
「――えっ」
「どう考えても関わる要素が見受けられないのだが?」
「あー…、えっとそれは…」
「それはハワードさんの専門分野ですよ」
そうキッパリと答えたのは少女の方。
「ヘンリーの? …確か、地質…だったか?」
「そうです。 詳しい捜査内容は流石に知らないですけど、事件の現場を土から特定するようなことを聞きました」
「…ぅわー、次から次へとよく…」
「エリック、何か言った?」
「いいえ何も…」
「そういうことで、おじ様はハワードさんに協力をお願いしたんです。 ……ところでウォルトさん、そこは書斎ではないですよ? その隣です」
「え? ――あ、…ああ、そうだったかな?」
しまった、と思う。 自分が弟を疎ましく思っていたのもあるが、頻繁に家にあがるような仲ではない。書斎に行くと言う弟を目で追っていて二階にあることは知ってはいたが流石に適当過ぎたか?
とは思ったけど、だけどやはり子供だ。
こちらの動揺にそれ以上突っ込んでくることはなく。ただ純粋に教えてくれただけらしい。
「ごめんごめん、間違えたよ」
言いながら少女が教えてくれた方の扉を開く。
後ろに続く少年が怪訝に眉を寄せるのも、その更に後ろに続く少女が酷く冷めた目をしているのも気づかずに。
初めて入った弟の書斎は教授というだけに本やら紙やらがところ狭しと積まれていた。壁も二面が本棚で、そこもぎっしりと詰まっている。
「で、探すものはどんなものかな?」
「一緒に探してくれるんですか?」
「三人で探す方が早く終わるだろ」
それでさっさと帰って欲しい。
「黄色の箱です。これくらいの」
少女が手で大きさを示す。
そんなに大きくはない。しかも黄色というならそこそこ目立つ。ただ横の少年がギョッとした顔をしたことが少し気に掛かる。
どこか二人の様子、…いや、少年の方の挙動が不自然なのだ。
なので箱を探すふうを装い二人の様子を覗えば、二人は探すよりもコソコソと何かを話している。やはり少し怪しい。
( もしかして物盗りか? )
と、ふいに思い浮かぶ。
子供だろうがスラム育ちであれば犯罪に手を染めることは多々あることだ。だけど、二人の身なりや言葉遣いは貴族らしいものである。
( …そこまで徹底した犯罪組織であるとか? )
孤児を貴族らしく教育して上流階級の人間相手への犯罪に使う?
考え的にあり得ない手ではない。
であるとしても、多少裕福であれど弟は所詮中流階級の平民だ。狙いどころとしては微妙である。
考えごとから意識を戻し再び二人へと視線をやると少女がこちらを見ていた。
「――っ…」
可愛らしい容姿で誤魔化されそうになるが、こちらを見つめる視線には子供らしさはあまりない。
一瞬引きつった頬を無理やり笑顔の形へと持っていく。
「…何…、かな?」
「ウォルトさん、すみませんがここには私が探しているものは無さそうです」
「…そうか」
探してなどなかっただろうが、という言葉は飲み込む。
もし自分の推測が正しかったとして、何が目的か?
まずはそっちの出方を探るのが先決だ。場合によっては子供だろうとこの二人は使えるかも知れない。
だから今は怪しんでる素振りは出さずにこの茶番に付き合ってやろうと、ウォルトはにこやかに言う。
「それじゃあ次に行こうか?」
「ええそうですね、書斎でないなら次は…、寝室か…、応接間か…、居間か…」
「………」
こちらをジッと見つめたまま告げられる場所。
何も反応はしなかったはずだ。なのに少女はニッコリと笑うと「じゃあ、居間で」とのたまう。
聞こえない程度で舌打ちをつく。
「居間にはないだろう。あそこは家族が過ごす場所だ。仕事のものを持ち込むとは思わないが?」
「そうですか? 私とエリックがこちらを訪ねる時はいつも居間に通されますけど」
「それは――、」
「それに無かったら無かったで、それだけですよね」
「…っ…」
確かに弟は来客を居間に通す。だから自分もそこでの犯行に至った。が、しかし、「いつも」と言ったか?
( こいつらは頻繁にヘンリーと会ってたということか? )
それならば書斎を知っていても頷けるが、何だか少々ややこしいことになってきた気がする。
やはり自分の推測が正しくて、この二人はヘンリーに取り入る算段だったのではないだろうか。
つまり自分は彼らの仕事を邪魔してしまったことになる。
そしてこちらも訝しんでいるが向こうもきっとそうだ。現状、互いに腹を探り合ってる状態だといえる。子供相手に…、とも思うけれど。
とは言っても、目下の問題は居間にある弟の遺体だ。それは探り合いなど意味をなくす程の物的証拠。先に有意な立場を取られるのは避けたい。
既に愛らしい少女、という目だけでは見れなくなった相手は、ごく自然な様子で窓の外へと顔を向けた。
「あら?」
そんな少女の挙動を見逃さずに追っていたウォルトも同じく窓の外へと視線をやる――と、門前に一人の男が所在なさげに立っている。
「エリック、ベイリーが来てるわ」
「え、ベイリーが? …あ、ホントだ」
ウォルトとリリアベルの会話中ずっと息をひそめるようにしていたエリックは、窓へと寄ると外を見下ろし呟く。その少年の行動には今度はひとつも不自然さは見当たらない。だから聞いてみた。
「ベイリーとは?」
「僕の家の馭者です。でも何で…、」
「おじ様じゃない? 時間が押してるから催促に来たのかも?」
「えっ」
「ね、エリック、もうちょっと待ってくれるように言って来てよ。 もうすぐ見つかるだろうし、……ですよね、ウォルトさん」
「……ああ」
少女の笑顔を受けて緩く笑う。
門前のやつはどうせ仲間なのだろう。今の状況の確認とかそんなとこか。
茶番に付き合うと決めたのだからここは合わせよう。
「え、でも…」と渋る少年を少女が追い立てる。
「ほら、早くっ」
「うわっ、ちょ…っ」
「私は先にウォルトさんと居間に行ってるから早くしてね」
「リリアベル!?」
「――あ、それと、ローランお兄様にもよろしくって」
「え、うわっ、あぶなっ!」
階段で背を押すのはよした方がいい。
□
一階へと戻り、玄関の脇の窓から門へと駆けてゆく少年の背をチラリと眺めてから、背後にいる少女を見下ろす。
「居間に行く前にキッチンに寄ってもいいかな? ちょっと喉が乾いてね」
「ええ、どうぞ」
少女がキッチンの入口に留まっている間に、水を飲む素振りで用事を済ます。そして再び廊下へと出ると、玄関のドアが開き少年がパタパタとこちらへとやって来た。
正直、少年の方は戻っては来ないと思っていたのだが。
それは少女にとってもそうだったのか少し驚いた顔をしたあと直ぐに渋面を作る。が、少年は気にしない。ちょっとだけ息を切らし言う。
「大丈夫、ちゃんと伝えてきたから」
「……そう」
渋面の中ででも少しだけ見せた喜びと安堵。偽ることなく見せた素の表情。子供らしくあり子供らしくない。
だけど互いが互いに、簡単で軽い存在でないことはわかった。
結局、二人に戻ったわけだが、今ズボンのポケットにはキッチンで手に入れたナイフがある。さっきは咄嗟であって適当なものを鈍器として使用したが、今回は抜かりない。自分の胸元にも届かない子供にナイフなぞ必要かとも思われるが、脅すか、それとも。 ……二人共にまとめて殺るか。
居間の扉をカチャリと開く。
錆びた鉄の匂い――血の匂いが、鼻をかすめた気がして自然と片手が鼻と口元を彷徨う。だけど後ろに続く二人に反応はない。
遺体を見ている自分だけが想像でそう感じているのか。
…そう、部屋に入っただけではソファーの向こうに転がる弟の遺体は見えない。
ましてや子供の背丈からすればそれこそ覗き込むか背後に回らない限りは見えはしないだろう。
部屋をぐるりと見渡すようにして後ろの二人を振り返る。
少年の視線はキョロキョロと部屋の中を巡るけれど、少女は僅かに眉を寄せて部屋を一瞥しただけでウォルトを見上げる。
部屋に入れば何かあると確信していたのだろう少女に向かって、緩く口の端を上げた。
あるにはあるのだけど気づかなければそれまでだ。
どうせ黄色い箱など間に合わせの嘘であり探すフリをするだけなのだから、さっさと見切りをつけさせよう。
「どうだい、ありそうかい?」
「………」
「そう、じゃあ無ければ次に、」
「――あっ!」
少年が大きく声を上げた。
一瞬バレたかと焦ったが「リリアベル、あれ…」と少年が指差す方向は入口横のサイドチェストの上。
そこに置かれた黄色い箱。
「……あ」
なんと…、本当にあったのか。
嘘でありただの言い訳と思っていたので流石に驚く。だけど。
「……見つかりましたね…」
見つかってしまいましたね。
小さなため息と共に零された少女の声は、仕方ないとも残念とも取れるもので。少年がおずおずと持ってきた黄色い箱にリリアベルがポンと手を置く。
少女の思惑や思慮がどうであったかは知らないが、だけどこれでやっとこの二人を追い出せる。
つまり自分は勝ったわけだ。
大袈裟かもしれないが、この状況における命運を分かつ勝負に。
邪魔な弟は排除でき、この場をも切り抜けた。
そうだ、天は自分に味方している。
「はは、良かったよ、ちゃんと見つかったようで。 これで、君たちも気兼ねなく戻れるな?」
「そう…、ですね」
大人のように苦虫を噛み潰したような顔を向ける少女に、大人気ない優越感をもってして笑う。
では、予定通りこの家から出て行ってもらおうと、二人の横を通り過ぎ居間の扉に手を掛ける。
―――と、
……タンッ、タラランタン…タン……
軽快でいて、でもどこか音のはずれた、そんな音楽が鳴った。
ビクリと体を揺らす。
――どこからだ?
音の出どころへと視線をやる。
………ああ――、これは……。
「何だろ? オルゴール…?」
「ちょっ、おい――」
一瞬の動揺が制止の声を遅らせた。その間に少年は音の出どころへと向かう。
それは、ソファーの向こう側。
「――うわあっ!!」
「…? エリック、どうしたの?」
「…リ、リリアベル来ちゃダメだっ!」
「え、何よ?」
「ハ…、ハワードさんが、死んでる…」
「え――、…っ…! …ああ――、……やっぱり…」
「……やっぱり?」
聞き捨てならない言葉が聞こえた。
ソファーの向こう側へと回り込んだ二人は固まったまま、視線を下に向け顔を歪める。
弟の遺体を見つけられてしまったことはもはや仕方ない。それに対しては次の手を打つだけだ。
だけど今の少女が零した言葉。
「弟が死んでることを知っていたとでも…?」
眉を寄せた少女がゆっくりと顔を上げる。
顔色を悪くはしているが取り乱す様子は窺えない。死体を見たというのに。
「……亡くなっているか、または暴行を受けて動けないか、のどちかだとは思ってました」
「へえ…」
じゃあ、さっきまでの茶番はその為であったとでも言うのか。
「で、それを行ったのが私だと?」
「だって隠そうとしましたよね? 居間を避けようとした」
「いいや、そんなことはないさ。私もこの部屋で弟が死んでるなんて知らなかった。だから今すごく驚いてるよ」
流石に無理があるが言い切ってしまえばいい。所詮子供だ、不服が込められた眼差しが返るがそれだけ。
ぎゅっと一度唇を噛み締めた少女は、再び口を開く。
「でも、そもそもがおかしいんです。 ハワードさんが貴方に留守番を頼むなんて」
「何故?」
「ハワードさん、お兄さんと仲が良くないって言ってましたから」
答えたのは少年の方だ。
なるほど、弟と交流があるのならばそういう話しもしたのだろう。だからとてやはり認めはしないが。
「じゃあ私が実はヘンリーの兄でないと言ったら」
「…それこそ本末転倒ですよ。なら貴方は誰で何故ここにってことになります。それに――、」
少年から会話を引き継いだ少女は一旦言葉を切り、緩く目を細めてこちらを見上げると、自らの顎の下をトントンと指差す。
「自分のここ、見えませんよね」
「…?」
「――血痕」
「!! ………は、…ああ、そういう…」
ことか。
言われたように顎の下など己自身では見えやしない。
玄関ベルが鳴った時にひと通りは確認して血の飛んだジャケットは脱ぎ、ついでに顔も拭っておいたのだが。二人の目線からすればそこはよく見えただろう。
結局取り繕うことに意味はなかった。
いやむしろ、その必要こそなかったと、ポケットの中のナイフをスラリと取り出す。
「……っ!!」
瞬間、顔を険しくさせた少年が少女を庇うように半身を前に出す。なかなかの反応だ。
だが残念ながらその小さな体では警戒心も湧きはしない。しかも微かに震えてもいる。
そんな少年の献身をまるで気にも止めず、少女は横からひょいと身を出す。
「それで、何でハワードさんを殺したんですか?」
「……は?」
「リリアベル!?」
このタイミングでそんなことを聞くのか? と目を瞬く。
「今そんなものの答えが必要か?」
「単なる興味です」
「興味…」
「仲が良くなかったからと言うだけでハワードさんを殺したんですか?」
「――は…? ……は…、ははっ! 変わった子供だな、お前」
「ちょ…、リリアベル…」
少年が少女を押し留めようとするが、やはり歯牙にもかけない。将来苦労しそうな関係性だ。
だけどそんな関係も今日ここで終わる。なので最後に答えてやろう。
「いい加減、弟の日影に甘んじることが嫌になったんだよ。俺は俺だ。自分としての個を確立しようとするとあいつが邪魔になる。だから殺した」
「…自分……個…?」
「そうだ。 だっておかしいだろう。 何で兄である俺が、毎回呼ばれる時に『ヘンリーの』兄と言われるんだ? 弟の名が先にくることなど普通にあり得ないだろ?」
それが弟の友達や仲間からならば不思議でもないことだ。だけど兄弟が共に関係する行く先々でも「ああ、あのヘンリーの」と言われる。ともすれば『あの』部分が『優秀な』『よく出来た』などと変化するが、兄はそのままだ。
「優秀? ああ…、弟は確かに優秀なんだろうさ。 だけど俺だって頑張っていたし努力していた。 なのに…、なのにっ、それは結局弟の前で全て掻き消されてしまう! 俺の成したことは全部あいつのせいでなかったことになってしまうんだぞ? おかしいだろ! …だから、俺は俺自身が正当に評価を受ける為に、弟に居なくなってもらった。……それだけだ」
こんな子供相手に少し感情的になって言わなくていいことまで言ってしまったと、軽く笑う。それに対して少年は何とも言い難い表情で顔をしかめ、少女は、
「はあ…、なるほど」
と、納得の言葉を零した。ただしその顔はとても凪いでいて、そのくせ、両手は強く握りしめられているのはどんな感情からか。そして口を開く。
「要するに、ただの妬みで僻みですか」
「――は? ……何だって?」
「嫉妬、ですよね?」
「……おい、今の話しをちゃんと聞いていなかったようだな? 俺は、俺という個の存在である為に邪魔な弟を排除したんだっ」
低い声で威嚇するように言えば少女は軽く目を瞬き口元に指をあてるとコテンと首を傾げた。こんな状況でなければ容姿も相まってそれは大層可愛らしい仕草であろうが今は苛立ちが募るだけだ。
それを知ってか知らずか少女はもう一度目を瞬かすと口の端をキュッと上げた。
「でもそれでは呼び方が変わるだけでは?」
「は…?」
「ハワードさんが亡くなったとしても、亡くなった優秀な弟の『兄』になるだけでは?」
「…っ」
「しかも結果的は、その優秀な弟を殺した『兄』になるだけですよね」
「……っいい加減にしろ!!」
ナイフを掴んだ手を壁に打ち付けると大きな音が鳴り、視線の先にある二つの体がビクッと強張る。
本当に、初めからこうしておけば良かった。
大きく一歩足を踏み出し、未だ硬直したように動けない少女に向かってナイフを振り上げる。
「リリアベル!!」
ドンと腰に衝撃が来た。が、とても軽い、抵抗にもならない程の軽さだ。振り上げていた腕を雑に払うとしがみついていた少年の体は床へと倒れた。
「――っ…」
「エリック!!」
勇気は称賛するが力が伴わなければ意味はない。倒れた少年へと駆け寄ろうとする少女の服を掴みナイフを振り下ろす。
「…いやっ、きゃあぁっ!!」
鮮血が飛んだ。
その愛らしくもあり憎らしくもある顔を狙ったが、体を捻るように腕で庇った為に狙いがそれた。だがしかし少女の腕には赤い血が滲む。
なので、もう一度振りかざす。
「――そこまでだっ!!」
突如、バンッ!!と勢いよく扉が開き、そんな声と共に男たちが部屋になだれ込んで来た。
そして、一瞬呆気に取られているうちに一番最初に駆け込んで来た若い男がナイフを掲げる腕に飛び付く。
「――なっ!? …ックソ!」
「リリアベル! 早く離れて!」
「ローランお兄様!!」
( ローラン? )
それは先ほど少年が男と話をしに行く前に少女が口にした名だ。どうせ同じ穴の狢だろうからと放置したが。
それじゃあこいつらは仲間か?と、今度は乗りかかるように押さえ付けてきた数人に目を走らせるが男たちは揃いの制服を着ていて。
「……は…っ!? 治安隊だとっ!?」
「――ミルズ卿、男性の遺体を発見しました!!」
「よしっ! じゃあこいつの身柄を局に、」
「ちょ――、ちょっと待て! ……何故、治安維持局が…?」
「…は? そんなの、従弟が教えてくれたからだ」
「従弟…?」
ミルズ卿と呼ばれた男が視線を向ける先には「リリアベル!」と焦ったように少女へと駆け寄る少年の姿。
「リリアベル、ちょっ…血が…っ」
「あー…、うん、流石に、ちょっと痛い…」
「当たり前だろっ! 早く医者に――」
「――なんで?」
急に割り込まれた声にリリアベルとエリックが顔を向ける。
「なんで…、お前たちが治安隊と…」
犯罪者と正義の番人が馴れ合う? そんなこと。
押さえ付けられ顔を歪めながらもそんな疑問を口にするウォルトに、少女は痛みと怪訝で眉をひそめる。
「そんなの…、言ったじゃないですか、エリックのお父様は治安維持局の捜査官だって。それにローランお兄様もエリックを従弟だと」
「本当の…、こと、だったのか?」
「本当?」
「俺を騙す為の嘘かと…」
「嘘だなんて…」
何のことだと言わんばかりに少女は小さく微笑む。
激しく、理不尽な怒りがウォルトの体を震わした。
「お前たちさえここに来なければっ!!」
「……そう言われても、約束だったから、ハワードさんと」
「約束だとっ!」
「この黄色い箱、もらいに来たんです」
「ははっ、それも本当だったと!」
「ええ、そうですよ、中身はハワードさん手製のクッキーですけど」
「――は……」
…今なんて…?
「ハワードさんはいつも私たちにお菓子を作ってくれるんですよ」
「…は…」
「お菓子作りの職人になるのが夢だったと言ってましたから」
怒りや、抗っていた気持ちが急激薄れてゆく。
……クッキー…、……だと?
「………は…、はは…、…そんなもののせいで俺は…」
これが結末か。弟が作ったクッキーなどのせいで…。
いや…、その以前に、突然に鳴ったあの音楽――、
あれは弟を殺した鈍器。木製の置き時計。
随分と前に時間を知らせる為の音楽は鳴らなくなったと言っていたものだ。
天は自分に味方したと思ったのだが…。
そう、だけどこれが、結末。
憑き物が落ちたように制服の男たちに引き起こされるウォルトに「そんなもの?」と少女の硬質な声が降る。
「でも失ったものは二度と戻らない。それは人でも物でも。…貴方は私たちが来なければと言ったけれど、私たちにとっても、ウォルトさん、貴方は招かざる客だった――」
痛みにか、それとはまた別の要因か、顔をしかめ一旦言葉を切った少女は深く息を吐いて続ける。
「……貴方の身勝手な暴挙が結局全ての原因なのだと、暗く冷たい檻の中で延々と、尽きることなく思い知って下さい」
少女の眼差しは透明でいて突き刺すように冷たい。
もう、返す言葉はない。
項垂れたまま男たちに引きずられ部屋を出るウォルトの背後で、少年が焦ったように少女の名を呼ぶのが聞こえた。
□□□
それから丸一日が経った。
「痕が…、残るらしいね」
「あー…まあそうかもね」
閉じ込められている自室に見舞いに来たエリックが神妙な顔でそう話すのを私は曖昧な感じで頷く。
男によって付けられたナイフの傷は結局八針ほど縫われることとなり、お母様からは叱りと呆れと心労で白髪が出たと言われ、お父様は泣き崩れその場に突っ伏した。
暫くは大人しくしようと流石に思った。
そして目の前のエリックといえば、物凄く罪悪感に苛まれた顔をしている。
「エリックが気にすることはないよ?」
「は!? するに決まってるだろ!?」
「いや、だってあれは私が完全に煽ったわけだし」
「自覚はあったんだ…」
「そりゃー…まあ…」
腕以外は何ともないのでソファーに座り、傷付いた右手ではなく左手で紅茶のカップを手に取る。正直少し不便だが仕方ない。
「でもムカついたから」
「ん?」
「あんなつまらない理由でハワードさんのクッキーが食べられなくなるなんて…」
「クッキーなんだ?」
「だって大事でしょ」
食べ物の恨みは怖いものだ。しかもそれが自分の好物であるのなら。
エリックは眉を寄せてため息を吐く。呆れからかと思えば何だか違う。どうも元気がない。
( …気にしてるんだろうなぁ )
別にエリックのせいではないのに。
( ――でも )
と、そんな意識が上る。
痕が残る傷をエリックはきっとずっと、気にするのだろう。私自身がそんなものを気にしなくなってもずっと。
それはなんて。
「ふふっ」
「…え、何、急に」
思わず零れた笑いにエリックが不審の目を向ける。それに勝手に浮かぶ笑みを消せないまま首を振る。
「うんん、なんでもない」
私の満面の笑みに何となくそれ以上突っ込んでも仕方ないと思ったのかエリックは話しを変えた。
「でもさ、リリアベルは最初に見た時からあの人が怪しいって思ったの?」
「まさか。でも最初に出て来た時の笑顔は胡散臭いとは思ったけど」
「そうなんだ」
「そうでしょ。友達や知ってる人にならともかく、知らないだろう訪問者をそこまでにこやかに迎える必要ある? そんなの、何か心に一物抱えた人か清廉潔白なシスターくらいだよ」
「えー、極端じゃない?」
「じゃない」
エリックだって投げ飛ばされたというのに甘い。
「それに、最初から帰らす気満々だったじゃない。子供相手だって態度もありありだったし。 血痕はその後に気づいたんだよ」
「僕、気づかなかったんだけど…」
「あー、まあ」
それは私が常に疑う目で人を見ているからだ。性格が悪いとは思うが、前世から引きずる性根はなかなか変わらない。それをエリックに話すつもりはないけど。
「何にせよ、どうでもいいよ、もう」
「うん、まあそうだね」
私の言葉にエリックも素直に頷く。
でももしかしたらエリックは私の傷を受けたことの精神的な面を慮ったのかもしれない。けど正直、ホントどうでもいい。
どういう経緯かは知らないけど、あの男は私たちも犯罪の片棒をかつぐ何者かだと思ったらしい。うん、意味がわからない。
『お前たちさえここに来なければ』と、男は憎々しげに叫んだが、大体、玄関ベルの音を無視すれば良かっただけの話しだ。
来客があろうとも不意の用事などはある。だから初めから居留守でも使った方がマシだっただろうに。
客を迎える決定を下した男の行動が自分自身の首を絞めた。結局誤解して自ら自滅していったわけだ。
ハワードさんが残した最後のクッキー、「エリックも食べなよ」と勧めてから自分も一つ手に取り口へと運ぶ。
サクリ、そしてホロリと、それは口の中でほどけて消えた。