ド辺境の男爵令嬢が公爵家に嫁入りすることになりました。誰か助けて
木々の幼い芽が若葉となり、みずみずしい色を帯びて柔らかく芽吹き、樹木が降り注ぐ陽光を吸いこむみたいに茂り出す青葉が薫る季節。
春の目覚めのような緑の色彩にティティスは瞳を細めた。
ティティスのドレスも萌黄色だ。自然が彩筆を振るったような鮮やかな黃緑色のドレスは風に吹かれて足元の草花と踊るみたいに裾を揺らしていた。
光はそよぐように。
雲はなめらかに泡立つように。
ティティスの頭上で、空がひろやかな青い翼をひろげて澱みなく透き通って青く青く晴れ渡っていた。
その青い空の下には、ティティスが育った辺境の男爵領があった。
大きな雲が影を作り、のたりと風に押されて動き、太陽が再び地上を照らす。
遠くに見える川は、春とともに最後の雪のひとひらが溶けた雪解けの清流が山から下りてきて村々をめぐり、水面は木々の葉や花や鳥や蝶の影を映して、朝に昼に夕に光がとろけて青や紺や緑や白や赤や黄金に輝き、空の高さも空の深さも水底に呑み込んでゆるりゆるりと流れていた。
遠くに見える森は、晴れた日には陽の光を追い求めて木々の枝が伸び雨の日には水を追い求めて根が伸びて、吐息のように緑の匂いがたちこめている。緑葉のさざなみ。花香のさえずり。多種類の樹木が混成した森の中央には、樹齢千年を超える巨木が白骨化して鎮座しており森の織られた古い歴史を物語っていた。
春の風がさやぐ。
強くなった日差しに地上が温められて。
冷たい空気と入りまじり、ゆらめいて。
水の月のように、かげろう春の景色がティティスは好きだった。
ティティスは男爵家の一人娘だが、父親の男爵自ら薬草栽培などの畑仕事をするような家柄であったので、幼い頃からティティスは男爵領を走りまわって遊んでいた。
川で魚を捕り。
池で舟を浮かべ。
草原で花を摘み。
森で木の実を食べて。
ティティスはブランコにのって真っ青な空を蹴り。
裸足になって柔らかな大地の肌を蹴って。
森に飛ぶ蝶々を追いかけて遊んだのだ。
ティティスの美しい故郷。
しかし、男爵領で大問題が起きてしまいティティスの父親の男爵は、領地と領民の保護と引き換えに爵位も領地も返上することを決断したのだった。
「ティティス、出発するよ」
父親の声にティティスは故郷の、夏に滴り秋に装い冬に眠り、そして緑あふれる春の今の風景を瞳に焼きつけた。返上の手続きのために、これから王都へと向かうのである。ティティスが継承するはずだった男爵領は王家の直轄地となるのだ。
ザザザアァァッ! 空の奥から放たれた風が草や花を薙ぎ倒して王者のごとく吹き抜け、馬車に乗り込もうとしていたティティスの細い背中を押す。シャラシャラと髪飾りが涼やかな音で鳴り、木々の梢を埋めつくした花々を散らす花撒きの風に煽られた髪がティティスの頬をくすぐった。
風を遮るように急いで男爵家の使用人が馬車の扉を閉めた。バタン。ティティスは馬車の窓の向こう側になってしまった故郷に、ぎゅっ、と眉根を寄せた。こぼれそうな涙を下唇を噛んで耐える。
父親の判断に間違いはない。ティティスも納得している。
それでも、寂しい。
過去の想い出に破けそうに撓んで、寂しい寂しいと開いてしまいそうな心をティティスは涙とともに呑み込んだ。
「出立っ!」
御者が鞭を入れ、馬がゆるやかに走り出した。
舗装のされていない砂利道をガラガラと車輪が砂を煙らせ、馬車は枝分かれの道を迷わずに真っ直ぐに辺境から王都へと進む。
この時、小さな小さな灰色の蝶が風に巻き込まれてティティスの萌黄色のドレスに止まったことに、ティティスも誰も気がつくことはなかった。
ティティスは知らなかったのだ。
その小さな灰色の蝶が、王国はおろか大陸中で絶滅したと思われている貴重な蝶であることを。
だってティティスの森には、粉雪が降るように蝶々が飛翔していて。
幼いティティスは子猫のように飛び交う蝶々にじゃれついて、ひらりと蝶に逃げられては追って、また逃げられて、楽しくて楽しくて夢中で蝶々と追いかけっこを毎日していたのだ。ティティスが蝶を追いかけるのか、蝶にティティスが追いかけられているのか、判定に困るような追いかけっこであったが。
そうやってティティスは、小さな灰色の蝶々たちに子守をされるようにして育ったのだ。
しかし、男爵領で金山が発見されてしまった。
ティティスは領地運営の手伝いもしていたのだが、水車小屋を作ろうと川を調査している時に砂金を拾い、不思議に思って上流を辿り金山を探り当てたのである。
莫大な埋蔵量の金山であった。
普通ならば喜ぶべきことであるのだが、ティティスの父親の男爵は秘密裏に王家と連絡をとり領地を返上することにしたのだった。
辺境の地にある男爵領は国境線に接していている。
つまり隣国がもしも金山に食指を動かした場合、簡単に蹂躙されてしまう場所にあるのだ。
かろうじて和平に合意している状態であるが、隣国とは幾度も戦火を燃やした過去がある。金山の存在が隣国に露見する前に、素早く守りを固める必要があるとティティスも男爵も考えたのだ。
だからティティスと男爵は、どれほど寂しくとも先祖代々統治してきた領民と領地と、森を、手放すことにしたのだ。守るために。国境線にあるとはいえド辺境の男爵領は地理的に重要視されておらず、そのため王国の砦もなく兵士も派遣されていない。農業や畜産が主産業である男爵家では守ることができない、兵力がないのだ。ティティスも男爵も、それが動かしがたい現実であると理解していた。
男爵領のまま王家に援助を請えば色々な諸問題が発生する。それよりも王家の直轄地となった方が、国王の強大な権力によって隣国に屈することなく迅速かつ確実に守護されることになるだろう。
王家は、領地と領民の保護を約束してくれた。
特にティティスと男爵が現状維持を願った森の保全には万全を尽くすとの契約を締結した。森は領地の水源地である。森が死ねば男爵領に未来はない。
10日後。
ティティスと父親の男爵は王宮の謁見の間にいた。
金山のことは隣国を警戒して公表していないため、国王と王子たち、少数の高位文官と武官、公爵位と侯爵位の貴族たちが人目を忍んで内々に集まっていた。年配者が多いが、若く凛々しい青年の姿も幾人か見られた。皆、興味深そうにティティスと男爵に視線を向けている。特に右奥に立つ金髪の青年貴族は、双眸に熱を帯びてティティスから視線を外すことがなかった。
誰もが膨大な富が確定された金山に水面下での牽制はあっても表面的には笑顔であった。
しかし、ティティスと男爵の顔色は悪い。暑くもないのに背筋に汗が流れる。豪華絢爛な室内に金糸に縁取られた真紅の絨毯。一生涯直接に会うことも言葉を交わすこともないと思っていた国王を前にして、ティティスも男爵も手を取り合って部屋の隅っこでぶるぶると震えていたい気持ちでいっぱいであった。
「やれやれ、あらたな領地も爵位もいらぬと言うのか……」
国王が溜め息をつく。
「は、はい。先祖代々、当家の領地はあの辺境の地でございます。領地と領民と森を保護していただけるのなれば、娘とふたりで今まで知らなかった世界を旅してみようと相談して決めております。どうかご容赦を……」
男爵は、若い頃は学者を目指していた。兄の急死により諦めたが、領主の仕事のかたわらに植物の研究や蝶々の生態を調べたりしていたので、この機会に念願の諸国を巡って研究三昧の生活をおくりたいと考えていたのだ。
「では、褒美は? 孫子の代まで不自由なく暮らせる報償金はいらぬか?」
「ありがたいのですが蓄財がございますので……。我ら親子にではなく、なにとぞ領地と領民と森に手厚い保護をお願いいたします」
男爵が深々と頭を下げる。もちろんティティスも。
その時、ティティスのドレスのフレアに隠れていた灰色の小さな蝶がヒラリと飛んで男爵の肩へと移った。
ティティスと男爵が灰色の蝶の存在に気がついた時には男爵領から離れており、窓から逃がしても戻って来るので王都までお世話しながら連れてきたのだ。部屋においてきたのだが、こっそり付いてきていたらしい。
「もしやっ!? アッシュグレーテイルラグナ蝶ではないかっ!!」
国王の背後に立っていた軍装の第三王子が身を乗り出す。どのような美姫とて足元にも及ばない、王国一の美貌と名高い常勝の若き将軍である。
「も、申し訳ございません! つ、付いてきてしまったようで……、どうかお許しを」
男爵がソっと蝶を両手で囲む。
「あ、あの、すぐに、すぐに外に出しますからお許し下さい。も、もし尊い方々のお目を汚してしまった罰が必要ならば私が受けますから、蝶はお見逃し下さいませ……っ!」
ティティスも男爵の手に自分の手を添えて、ティティスと男爵は小さな灰色の蝶を守ろうと必死に謝罪をする。
「罰? 何を言っている? アッシュグレーテイルラグナ蝶は絶滅種だぞ、その蝶が! 生きて目の前にっ! 奇跡だ! 素晴らしい!!」
感激するように高揚する第三王子にティティスと男爵は顔を見合わせた。
「奇跡、とは? 灰色蝶、あ、これは故郷での呼び名でして、アッシュグレーテイルラグナ蝶は数が減少傾向にあるとは知っていましたが、わたしが王都の学生だった20年前はまだアチラコチラで見かけましたが……」
「故郷の森には灰色蝶、あ、えと、アッシュグレーナントカカントカ蝶が溢れるほどに飛んでいますけれども……」
男爵とティティスが、躊躇いがちに言葉を綴る。
「「絶滅種……?」」
「10年前に悪質なデマが流布したんだ。灰色のような黒色のような色に肌が変色する死病の灰黒病の原因がアッシュグレーテイルラグナ蝶である、と。感染を恐れた人々によって大陸中でアッシュグレーテイルラグナ蝶は根こそぎ駆除されてしまった。現在では灰黒病は鼠によって病気が媒介したと判明しているし、治療薬も開発されているが……」
ティティスは沈痛な第三王子の声に、10年前のことを思い出した。
確かに灰色蝶が病気の原因である、との噂は流れてきた。
しかし、学者である男爵がきっぱりと否定したのだ。
領主の権威は絶大である。ましてや男爵は領地で唯一の学者であり、王都で学んだ博学な知識人であったので信用度がケタ違いであった。それに灰色蝶は昔からいるが、領地内で灰黒病が発生したことはなかった。
故に単なる数多い嘘っぽい噂のひとつとして話題になって終わったのだったが、まさか領地の外では灰色蝶が絶滅していたとは……!
驚愕の事実にティティスはあんぐりと開きかけた口を慌てて閉じた。国王の御前である。
「で、で、でしたら、あの、あの、なおさら森の保護を重ね重ねお願いいたします。森は灰色蝶、いえ、アッシュグレーナントカカントカ蝶の生育地なのです」
ティティスは一生懸命に頭を垂れた。
王家とは森の保護の契約がある。だが、灰色蝶が貴重な蝶々となれば乱獲の危機となる可能性が高い。
「心配するな。守ってこその契約だ」
ティティスを安堵させるように頷いた第三王子は、恭しく国王に向かって片腕を胸に当てた。
「昨日、内示をいただいた旧男爵領においての砦の司令官就任の件、喜んでお受けいたします。お任せ下さい。隣国の兵士などゴミのように払ってみせます」
「おお! 心強いぞ!」
満面の笑みを浮かべて国王が第三王子の肩を軽く叩く。
「頼んだぞ。すでに男爵領から王領への手続きは完了しておるゆえ、工兵の集団と騎士たち、大量の建材と荷運びに従事する人夫たちは王都を今日出発している。隣国に察知される前に国境線に壁を作る予定だ」
どんどん進む話に、ティティスと男爵はホッと胸を撫で下ろした。これでもう安心だ、と。
しかし。
「では男爵、協力してくれるね?」
ガシリ、と第三王子が男爵の肩を掴んだ。笑顔である。第三王子は利用できるものは遠慮なく利用する主義だ。あまりの麗しさに貴婦人たちがこぞって失神してしまいそうな妖艶さであるが、男爵は別の意味で失神寸前であった。
「き、き、きょ、協力とは……?」
「アッシュグレーテイルラグナ蝶の生態も聴きたいし、森の様子も知りたい。領地も詳しく教えてほしい。だから、協力をお願いしたい」
「わ、わたしは、旅に……」
「アッシュグレーテイルラグナ蝶はカルリアの花の蜜を好んだ。絶滅によって受粉が減って、カルリアの花も減衰してきている。カルリアの花は安価で効き目の高い風邪薬の材料だ。ここ数年、冬場における子どもの死亡率が増加しているのは、風邪薬が値上げして庶民の手が届く範囲の値段ではなくなったからだ。わたしはアッシュグレーテイルラグナ蝶を王国に復活させたいのだ」
光り輝くみたいに眩しい第三王子の美貌に男爵は、ナマズのヒゲのように目を細める。無理。キラキラしすぎる。男爵は目をキョトキョトさせて、バチリとティティスと視線をあわせた。
「む、娘のティティスの方が適任です。金山を発見したのも娘ですし、森は娘の遊び場だったので隅々まで熟知しておりますし」
父親に売られたティティスは、すかさず反撃する。目が潰れてしまいそうな美しさの第三王子など荷が重すぎである。
「い、いいえ。父こそ適任です! 父は領主でしたので領地のことは誰よりも把握しておりますし、何よりも灰色蝶の孵化に成功するなどして研究を重ねておりますし!」
娘の方が、いえいえ父の方が、と押しつけあう男爵とティティスに第三王子は目を丸くした。地位や美貌にすり寄られたことは数多あっても、回避しようとお互いになすり付け合う行為など初めてのことであった。
「面白いね、人生って意外性が楽しいものなんだね。ふふふ、わたしの部屋でぜひとも領地について語り明かそうではないか、男爵」
選ばれた男爵が蒼白になる。
軍職にあるが研究者気質の第三王子と学者肌の男爵は、アッシュグレーテイルラグナ蝶という共通の話題があるし、立場は違えど自然保護に対する価値観も似ている。それに第三王子は身分的に未婚のティティスを領地の見回りに連れ歩くのは難しい。わかってはいるが、男爵には旅への未練があった。
悪あがきとして男爵は、
「お、お話だけならば……」
と、ぎこちなく言うが第三王子はバッサリと却下する。実務能力のある前領主の補助は重宝するし便利である。第三王子の麗しい花のかんばせには、権力万歳とデカデカと書いてあるようであった。
「話か。そうだな、わたしの相談役として話相手となってもらおうか」
「おお! 爵位も領地もいらぬと言うから困っておったが。王子の相談役ならば名誉職ぞ、良き、良き」
と、国王は名案だと喜ぶ。
だが周囲は。
男爵、めちゃ嫌がっていますけど。と思ったが賢明であったので誰も口を挟まなかった。
ティティスも。
お父様、頑張って。と心の中で手をあわせて、旅がダメならば第二希望の王都の寄宿舎のある学校の入学に進路を方向転換する。薬学を正式に学ぶのがティティスの夢であったのだ。
そうして、その夜のこと。
春の大夜会が王宮で華やかに開催された。
ティティスも人生の記念になる、と思って出席をしたのだが早くも後悔をしていた。ド辺境の男爵令嬢に王都のパーティーなど二度と縁がないだろう、と最初で最後のパーティーにウキウキしていた一時間前の自分に、ちょっと冷静に考えて、と一言いいたいティティスであった。
昨年亡くなった母親から淑女教育は受けてはいるが、しょせんティティスはド辺境の男爵令嬢。とはいえ古い家格であったから美術品に対する鑑定も教えられている故に、さり気なく置かれている壷や壁に飾られている絵画の価値が理解できてしまうのもマズかった。
何かにウッカリ触ってガチャンと壊してしまったら、破産! と壁にへばりついて動けなくなったのだ。
別室で第三王子と仕事の相談中の男爵が戻って来るまで壁の花になっていよう、と決心したティティスだが喉がカラカラだった。お腹もすいている。謁見やらパーティーの支度やらで軽食を少し食べただけなのだ。
けれど、繊細なガラス工芸の極みのようなグラスを手にとる勇気はなかった。
疲れていたが、近くにある椅子にティティスの身分で座っていいのかもわからない。
しょんぼりと、萎れた壁の花になっていたティティスに、
「大丈夫かい? どこか具合が悪いのかい?」
と親切に声をかけてくれたのは謁見の間で右奥にいた金髪の青年貴族だった。
そして。
「君、椅子を」
と使用人に命じてビロードの優美な長椅子を移動させて、ティティスを座らせてくれた。
実はティティスの周りには第三王子の配慮によって、ひっそりと騎士や使用人が幾人も配置されていたのだ。なので、ちゃっかりとティティスの隣に座る青年貴族に騎士たちは頬をヒクつかせていた。
が、青年貴族は権勢を誇るやり手と評判の若き公爵。
身分差ゆえに手も足も出せない。
隣に座られてびっくりしたティティスも堂々とした公爵の態度に、これが王都のマナーなのかしら? と疑問を喉に呑み込んだ。
公爵に惚れ惚れするような美しさで微笑まれ、つられてティティスもにっこりと微笑み返した時。
ざわめく人々の間を縫うようにして近づいてきた男女が公爵に、
「ユジーリシャリアリア公爵、わたくしは貴方との婚約を破棄いたします」
と、いきなり宣言してきたのだ。
公爵が片眉を上げる。
「わたくし、心から彼を愛してしまったのです」
うっとりと女性が男性を見つめる。男性も愛しげに表情を蕩けさせる。
「彼女は侯爵家の三女、僕は侯爵家の嫡男、身分は釣り合う。公爵が彼女との婚約を破棄してくれれば全ての問題は解決するのだ」
一瞬で周囲が呆気にとられて静まる。
自分本位な身勝手な言い分だが高位貴族同士、大スキャンダルである。
鋭利な光を放つ氷のごとき眼差しで男(侯爵家嫡男)と女(侯爵令嬢)を捕えた公爵は、
「婚約ならば昨日、破棄されているが家から聞かされていないのか?」
と、侮蔑を含んだ声で言った。
公爵家と侯爵家の政略結婚である。
お互いに、夫として妻として吟味され家としても申し分ない条件であるとして結ばれた婚約であった。
しかし、恋に夢見る侯爵令嬢とチヤホヤと褒め称えられて成長した侯爵令息の出会いは最悪の結果を生んだ。婚約者がいる故の悲劇の恋、と二人は自分たちを哀れみ悲恋に酔い。真実の愛と公言して、越えてはならぬ一線を越えて。貴族としての義務も責任も軽んじて家と家との契約を足蹴にしたのである。
婚約破棄は当然であった。
「「え?」」
とんだ茶番を演じた男女はぽかんと声を揃える。昨夜は別邸で二人で盛り上がり、そのまま王宮のパーティーへと来ていたのだ。
その様子を見てティティスは、ちょっぴり腹を立てていた。
男爵令嬢のティティスですら、このような場所での婚約破棄宣言は醜聞以外のなにものでもないと理解できる。なのに家名を重要視しなければならない侯爵家の令息と令嬢が、事もあろうに。
巻き込まれた公爵は見世物状態である。
だから、親切にしてくれた公爵に同情したティティスは。
「ユっ! ユジナントカカントカ公爵様! 私と結婚して下さいっ!」
と、隣に座る公爵の手をギュッと握ってティティスは叫んだのだった。
ティティスの頭の中では。
晒し者となってしまった公爵を庇うために、人々の話題を変えようと計画したのだ。
巻き添え醜聞の公爵の立場から、分をわきまえない愚かな底辺令嬢に求婚されて困惑する公爵へと。
身のほどを知らぬ不作法で無様な小娘とティティスは嘲笑されるだろうが、そうすれば話題の中心は公爵からティティスへと移ると考えたのだ。
ティティスにとって、社交界は今夜限り。
汚名をかぶって笑い者になろうとかまわなかった。
それなのに。
公爵家の家名すらきちんと言えていない求婚であったのに。
突然の求婚を100パーセント断ると思っていた公爵は、ティティスの手を枷のごとく固く握り返してきて。
「嬉しいよ、ティティス嬢。必ず幸せにするからね」
そして、肉食獣のような眼でティティスに照準をあわせて、
「まさか求婚は嘘でした、なんて言わないよね? わたしのことを好きなんだよね?」
と公爵はティティスの耳元で滴る蜜のように囁いたのだった。
嘘です、と言えないティティスは額に汗を滲ませてぶんぶんと首を縦に振る。
騎士たちは。
ギャー、据え膳!
飛んで火に入る夏の虫っ!
蜘蛛の巣だよ! ダメー!
と口パクしたが、もちろんティティスには聞こえなかった。
しかも騒ぎを見ていた国王が、
「めでたい! ティティス嬢も褒美はいらぬと言うから困っておったが、公爵夫人の地位ならば報償となる。良き、良き」
と、ティティスと公爵の結婚の許可をその場で出したのである。
あまりの急展開にティティスは目眩がした。
ぐらり、とティティスの世界の天と地が逆になったように足が震える。混乱と怖れ。まさか男爵令嬢と公爵の結婚が承認されるなんて、ティティスが習った貴族教育では考えられないことだった。
「愛しているよ、ティティス嬢」
公爵に鎖のように抱きこまれて、ティティスは自分の計画が完全に失敗したことを覚った。
けれども。
公爵の手が真珠を育む真珠貝のように、優しくティティスの頬を包む。公爵の呼気がティティスに落ちてくるほどに距離が近い。金色の髪の下、公爵の青い眼が海の如く煌めいた。
「ティティス嬢」
と宝物のように名前を甘やかに呼ばれて、チラリと見上げれば蠱惑的に公爵に微笑まれて。
「大丈夫、決して不幸にはしないよ。あらゆる全てからティティス嬢を守ってみせるから」
公爵の真摯な言葉にティティスの震えは少しだけ止まる。
想像した結末とは違うものになったが、もしかしてもしかして本当に幸せになれるのかも、とティティスは思ったのだった。
【第三王子と公爵の夜】
第三王子の私室で。
第三王子と公爵はそろって口角を緩めていた。
「男爵は」
「わたしの可愛いティティスは」
「真面目で」
「誠実で」
「善良で」
「律儀で」
「「蝶を庇った時からわかっていたが思いやりがあって」」
魑魅魍魎が巣食う王宮で、二心なく真心をつくしてくれる男爵とティティスの存在は、第三王子と公爵にとって安らぎと癒やしを与えてくれる掛け替えのない存在となっていた。
「元男爵領に行くのは来週だったか?」
公爵の言葉に第三王子が頷く。ふたりは親友であった。
「男爵は有能でね。色々と助かっているんだ。今では相談役兼副官だよ。わたしの部下たちも男爵の穏やかな性格と的確な仕事ぶりをすっかり信頼してね。男爵の穏やかさは良いムードメーカーになっているよ」
「ティティスも優秀だよ。庭師長の老人と仲良く希少な薬草を育てていてね。でもティティスが聡明であることは、わたしだけが知っていればいいことだから薬草は屋敷で消費していて。使用人たちは大喜びだよ」
「社交界には出さないのかい?」
「ティティスの本意ではない結婚なんだ。公爵夫人の仕事は全部わたしがするから、ティティスには屋敷で好きなことをして笑っていて欲しいんだよ」
「ふふふ、めちゃくちゃ溺愛しているね」
「そういえば元婚約者の侯爵令嬢、修道院に入るそうだね」
第三王子は息をひとつ吐いた。それは軽蔑の吐息だったのか、友を傷つけられた怒りだったのか、深い呼吸だった。
「貴族の契約である婚約を蔑ろにした上、パーティーでの醜態だ。取り返しがつかないほどに家名に泥を塗る場面だった。ティティスの嘘の求婚がなければ」
「あれは君のためだったが、両侯爵家にとっても助け舟になったね。娘や息子の失態が、国王陛下の結婚を祝う祝詞に上塗りされたのだから」
「両侯爵家からは謝罪と感謝の嵐でね、ちょっと閉口しているよ。反面、両侯爵家は娘と息子に大激怒で元婚約者の修道院なんてマシだよ、嫡男の方は貴族籍を抜かれて家で飼い殺しだ、教訓と見せしめのために下男として」
「ふふふ、国王陛下のおかげだね」
「しかし陛下は本気で、男爵の王子の相談役やティティスの公爵夫人が褒美になると考えているのだから……」
「陛下は父親だが、視野が狭いところがあるんだよね。まぁ、側近たちや大臣たちがしっかりと支えているから問題はないんだけど。今回は、わたしたちにとって幸運だった」
「ああ、空からダイヤモンドが落ちてきたようなものだ」
第三王子と公爵は顔を見合わせて笑った。
「「もう絶対に離さない」」
【公爵とティティスの夜】
今夜も公爵はご機嫌だった。
膝の上にティティスを乗せて、いそいそとティティスの口にスプーンを運ぶ。
「はい、あ~ん」
小さな口が開いて、ぱくり。もぐもぐ。
「婚約者や夫婦は、あーん、ってご飯を食べるなんて王都は凄いですね」
「でも、これは仲のいい婚約者と夫婦だけがすることなんだよ」
「なるほど! 仲良しの証みたいなものなんですね!」
疑うことのないティティスに、周りの使用人たちがソっと目をそらす。
「次はパンを食べようか。はい、あ~ん」
もぐもぐ。
「柔らかくて美味しいです!」
今夜も公爵家は春の木漏れ日のような温かい幸福に満たされていた。
そして、これからもずっと。
読んで下さりありがとうございました。