ベルクの答え
ベルク視点です。
俺の名前はベルク=ル=スデアール。
年齢は20歳で、スデアール王国の第三王子という立場だ。
三人の使用人と、十人の優秀なメイドが身の回りの世話をしてくれる。
いや、十人ではなく九人かもしれない。
一人だけ、優秀じゃないメイドがいるからだ。
そのメイドの名は、エステル。
三年前から俺に仕えている専属メイドだ。
艶やかな黒髪に、琥珀色の瞳。顎のあたりにある小さなほくろがチャームポイントの、小柄な子だ。
本人には恥ずかしくて言えていないが、出会ったその日にはもう恋に落ちていた。
一目惚れみたいなものだったが、おそろしくドジであるという欠点が、俺の心を大きく揺さぶった。
メイドというのは本来、主人に忠実で失敗をしないというのが大前提の職業だ。
素敵だけどユーモアがない。型にはまった所作をして、常に主人とは一定の距離を置き、純粋に慕ってくれる存在。
俺の中でメイドというのはそういう存在だったから、一日で十回以上転んでいるエステルを見て、たまらなく愛おしくなった。
もっと失敗する様子が見たい。
ドジを踏む姿が見たい。
王子としての振る舞いを意識して凝り固まった身体と価値観。日頃の鬱憤のはけ口を探していたこともあって、エステルを苛めるという行動に走った。
可愛い子ほどからかいたくなる、いわゆるキュートアグレッションというやつだ。
だから、エステルのドジが可愛くて、ついつい手を出してしまう。
敷かれたレールの上を歩いている自分とは違い、メイドという存在概念を素面でぶち壊していくエステルに、ただただ惹かれていった。
そんなある日、不意にエステルから告げられた予想外の言葉に、俺は唖然とした。
△▼△▼△▼
「ご主人様……私、本日限りでご主人様にお仕えするのを辞めます」
「……は?」
俺は、自分の耳を疑った。
けれど、エステルの顔はとても悲しそうで、思い詰めたような苦みを含んでいる。
「なにバカなこと言ってるんだよ、お前。寝言は寝て言えよ」
震える声で、俺は答える。
けれど、わかっていた。わかってしまった。
真摯に向けられた瞳が、決して冗談や嘘の類いでないことを、何より雄弁に語っていたからだ。
「寝言ではありませんし、冗談でもございません。昨夜、第二王子ベルグリン様からお誘いを受けまして、お仕えする主人の異動を受諾いたしました」
「なっ、兄上が?」
とたん、言いようもないほどの絶望感が胸に押し寄せてきた。
第三王子である自分よりも第二王子であるベルグリンの方が、権力が上なのは火を見るよりも明らかだ。兄の勅命であれば、弟である自分は相当な根回しでもしない限り、逆らえない。
けれど今は、そんなことどうでもよかった。
エステルへのちょっかいがエスカレートしていくと同時に、僕の中で彼女は、失うわけにはいかないほど大切な存在になっていたから。
最愛の人が、兄に奪われる。
それが何より怖かった。
「ふざけるな! そんなこと許すか! お前は……俺のメイドだ!」
身を焼くような焦燥から、その言葉が口を突いて出ていた。
脂汗が、頬を伝って床に落ちる。
「何よいまさら! 散々私を疎んでたくせに!」
次の瞬間、エステルの口から放たれた台詞に、俺は絶句した。
疎んでた? 違う、俺はずっと愛してた。なのにどうして……?
訳がわからない。
けれど、エステルは怒りと悲しみが溢れ出たように、酷い形相でまくし立てる。
「いつもいつも私を苛めて、嘲け笑って! 他のメイドには優しくしてるくせに! 兄の仕事を嫌な顔ひとつせず肩代わりするお人好しのくせに! どうして私にだけっ! 私、本当はあなたのこと――っ!」
「!」
ああ、そうか。バカか俺は!
俺は自分の行いを後悔した。そして、彼女を追い詰めていることに気付かなかった自分を、強く呪った。
愛ゆえについつい手をだしていたことが、彼女の中で耐えられないほどの苦痛になっていたなんて。
取り返しの付かないことをしてしまった。エステルに嫌われていても、何一つ文句を言えない。
でも、俺がエステルのことを疎んでいると、勘違いされたままなのは耐えられない。
だから。
「なんでって、それは……お前のことが好きだからだよ!」
精一杯、今まで苦しめた分の贖罪になってくれればと、本音を口にした。
「なっ……どうして?」
驚いたように目を見開くエステルの瞳を覗き込んで、一句一句丁寧に伝える。
「いつも有り得ないドジをするお前が、たまらなく愛おしかった。段差のない床で転んで、お茶を零して、インク瓶を倒して……それでも頑張るお前が好きで、可愛くて、だから苛めたくなった!」
全部、紛れもない本心だった。
彼女を追い詰めたという点で、接し方は間違った。けれど、これだけはわかって欲しい。
常に主人とは一定の距離を保つメイド。王子という優遇された不自由への鬱憤。
常に仮面をして、本音を繕いながら笑顔を向ける中で、ただ一人、君だけが、肩の力を抜いて接することのできる人間だったんだと。
「俺はこの立場に立っているから、いつも笑顔を取り繕って、いろんな人に気を遣って、息苦しくて仕方なかった。だから、主人に忠実で失敗の許されないメイドという職業から最も遠いお前が、型にはまった自分を慰めてくれる感じがして、つい長い時間いたくなるんだ。お前だけだったんだ、自分の脆い部分をさらけ出せるのは!」
必死に思いの丈を述べたあと、エステルは目元に涙を浮かべながら、震える声で言った。
「な、なら……私の気持ちも考えてよ。私だって、ご主人様のことずっとお慕いしていたのに……好きだったのに!」
それは、青天の霹靂だった。
絞り出すように告げられる、愛の言葉。
「すまない! ずっと耐えていたなんて、気付けなかった。気付こうともしなかった! 自分の気持ちに精一杯で、お前の思いに気付いてやれなかった。サイテーだ、俺は」
ぎりっと奥歯を噛みしめる。
大切な人の葛藤と愛情に気付けなかった自分に、無性に腹が立つ。
ならせめて、こんなサイテーな自分を愛し続けていてくれた、愛しい人に掛ける言葉なんて……これしかないだろう。
「だから、もしお前が今までのこと許してくれるなら、ずっと俺の……俺だけのメイドでいてくれないか?」
「っ!」
エステルの頬が、赤く染まる。
そして、宝石のように透明な涙を拭うと、すっきりとした表情で答えた。
「はい、喜んで」
「ありがとう、エステル」
俺は薄く微笑んで、彼女の身体を抱き寄せる。
しっとりとしたぬくもりが、身体に伝わってくる。
気付かぬうちに、お互いの気持ちがすれ違っていた。
だからもう、この手は離さない。
エステルの細い腰に回した手に、力を込める。
彼女の熱い吐息が胸に弾けて、心臓が大きく高鳴った。
――このあときっと、兄上と揉めるだろう。
けれど、どんな手を使ってでも、エステルは渡さない。もう二度と、彼女の気持ちを傷付けたくないんだ。
だから、悲しい顔をさせないために、笑顔で側にいるんだ。ずっと、永遠に。
彼女の温もりを感じながら、俺はそう決意したのだった。
読んでいただきまして、ありがとうございました!