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イリスの人生を終え、混沌とした暗闇に落とされてから…。
気づいたとき、彼女は微睡のなか、暖かなふかふかとした何かに大切に大切に包みこまれていた。
視界は朧げでほとんど何も認識できない。
何か話している声は耳へ届くのだが、何を言っているのかは理解できない。
とりあえず、身体を動かしてみようと試みる。辛うじて手足が振れるぐらいだ。
そして、ただただ眠い…。目を瞑れば、そのまま何時間も寝てしまう。時々、殺されたときの記憶を夢でみては泣き喚く…。
そんなときは、膨よかな何かが顔に触れて、優しく身体を揺らす。誰かの歌声だろう心地好い調べが降りそそぎ、うっとりと聴いているうちに、また再び、眠りを促され静かに闇へと落ちていく。
そんな日々を過ごしてるうちに、彼女は少しずつ周りの状況を把握できるようになった。
イリスは新たな生を受けたのだ。
「私の可愛いルイーズ…」
軽やかな声音で新しい名前を呼ばれる。
ルイーズの頬に柔らかなものを押し当てられた。ふっくらとした唇だ。
「お父様が絶対男の子だって言い張ったから、ルイスって名前しか聞いてなかったのよ。だから、私がルイーズって名前にしたの…。残念なお父様よね?」
この人は母親ね…。
上品で甘い香りがした女性の腕にルイーズは抱かれている。
前世の記憶を持ったまま生まれた赤子は穏やかで緩やかな幼少期を過ごしていくうちに全てを忘れるのだ…。
前世、イリスであったとき、誰かが話していたのを聞いたことがある。
ルイーズは平穏なひと時を感じながら、自身もそうなるのであろうと思った。
あれっ…。私はこの人を知っている…。
ルイーズは咄嗟に彼女の顔へ触れた。
小さな拳を握りしめたままなのだが、母の肌を求めてきた娘に夫人は愛おしくなって頬ずりをする。
「出産時には必ず駆けつけるとか言って…。帝都から帰ってこないなんて…。まぁ、役職柄、仕方ないけど…」
灰色の目尻が下がった柔和な瞳はあどけなく、笑うと更に愛らしく庇護欲をそそる。
愛情深いと言われる厚い唇。
ほんの少し灰色にくすんでいる金髪…。
アリシアだ…。
ルイーズは前世で親しくしていた友人の名前を懐かしむ。
「お母様が出産は領地でしたいと言いだしたのではないですか?帝都を離れるとき…。お父様…。涙ぐんでおられましたよ」
可愛らしい声が傍から聞こえる。もう一つの気配にルイーズは気づいた。
アリシアには小さな子どもがいて、イリスは一緒に遊んだことがある。とても幼い男の子だった…。
ベッドに腰かけているアリシアの隣りで頬を染めて、ルイーズの様子を楽しげに覗いている少年は、イリスの記憶より随分と大きくなっている。
母親にそっくりな容姿で、成長すれば上品で慎ましい美青年になるに違いない。
離宮の庭で子守をしたときは、まだ歩くのもやっとだったのに…。
「だって、自然豊かな領地で伸び伸びと子育てしたいじゃない…。友人を亡くしてから、帝都には辛い思い出しかないの…。出産を期に領地へ戻りたかったのよ…。って、子供にする話ではないわよね」
アリシアの目に涙が滲む。ルイーズはイリスのことを話しているのだと悟った。
少年は困惑した表情でアリシアを見守る。この少年の名前はリュカ・ドュ・ディアス。
そう、アリシアはディアス公爵ユーゴの妻…。
瞬間、イリスを殺した相手…。ユーゴが現世で父親だと気づき、ルイーズは慄いた。
嘘…。嘘だと言って…。
数ヶ月後…。
家族と離れて暮らすのに我慢できなくなった父親から帝都へ呼び戻され、それは現実だと思い知らされる。
「アリシア‼︎リュカ‼︎ルイーズ‼︎会いたかったよ‼︎」
両手を広げ、妻子を自分の胸へ飛びこむよう誘導している熱血漢は、見間違うことなくユーゴだった。ユーゴは家族を乗せた馬車が屋敷へ着く前からソワソワと玄関先で待っていた。
アリシアとリュカは冷静にユーゴの前で立ち止まる。アリシアは胸に抱いたルイーズをユーゴへ披露した。
力強く自信に満ちたユーゴの切れ長の目が見事に垂れ下がった。初めて会った娘が可愛くて致し方ない。
だが、ルイーズはイリスの腹部を刺したユーゴの剣の感触が記憶から掘り起こされ、怖くて怖くて泣き叫んだ。
「あらあら…。お父様のこと嫌いなのかしら?」
ユーゴは何とかルイーズを抱っこしたくて躍起になっている。凛々しく精悍な顔立ちを崩して、場を和ませようと必死だ。
「ひっ、人見知りがあるんだろう?」
「リュカにも愛想がいいし…。領地では家のものにも、お祝いに来てくださったお客様方にも、笑顔を振り撒いておりましたのよ…」
アリシアはリュカと顔を見合わせ、声をあげる。
「「ねぇー」」
リュカはユーゴに対して申し訳なく思いつつも…。
「ルイーズの特等席は僕の膝なんですよ」
と、自慢した。
「いっいやぁぁぁーーー!お父さん、悪いところは全部直すから、抱っこさせてぇぇぇ‼︎」
アリシアは普段から想像できないくらい悪い顔になっていた。無理矢理、帝都へ引き戻されたのだから、嫌味の一つぐらいは言いたかったのだろう。