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 彼女はバルコニーで夜風にあたっていた。

 腰まで伸びた豊かな金色の髪をはためかせ、夜空に浮かぶ星のように煌めく翡翠の眼差しで、月に照らされる庭園を黙って眺めていた。

 皇帝の唯一の姉でありながら、質素なモスグリーンのドレスを身に纏う。皇室最後の良心と謳われる彼女の名前はイリス・ドュ・アーリス。


 静かだわ…。


 虫の鳴き声が人のいない気配を際だてる。

 イリスは違和感を覚えた。今日に限って衛兵がいない。いつも厳重に警備にあたっているはずたが…。胸騒ぎがする。


 誰もいない…。


 いつもなら控えている侍従も誰一人としていなかった。

 皇帝の執務室へと続く回廊を急いだ。そちらで皇帝と謁見する予定だったのだ。床を蹴る踵の音が甲高く歩廊に響く。

 重厚な扉をイリスは両手で開けた。

 彼女の視界には二人の男が体を絡めていた。

 一人はイーリオス帝国の現皇帝であるアルフォンス・ドュ・イーリオス。

 皇太后の傲慢な振る舞い、不当な制裁を止められず、暗君などと言われているが、彼女にとっては大切な弟。整った顔立ちだが、15歳になったばかりで年若く、あどけなさを残す。

 彼の艶めいた黒髪がしっとりと濡れて、物静かな蒼瞳が扉の前で動けなくなっているイリスを凝視していた。まだ、発達途中の中性的な肢体が力なくグッタリとして身動きしない。

 もう一人はディアス公爵家の庶子、エルンスト・ドュ・ディアス。

 イリスと同じ髪色、瞳を持っており、思慮深く柔和な彼の方が雰囲気も似ているためか、兄妹と間違えられることが多々あった。彼が微笑むと宮廷の女性たちは虜になると言われるほどに容姿端麗で、逞しい体は皇室の近衛騎士で団長を勤めるほどの実力だ。イリスの最愛の恋人である。

 イリスは目前の光景に息を呑む。

 愛しい人エルンストは両手を真っ赤な血で染め、アルフォンスを胸に抱いて、剣で彼の体を貫いていたからだ。

 黄金の刺繍を施し青色の上質な生地で設えたアルフォンスの式服は赤黒く、その眩い美しさは見る影もない。

 エルンストが剣を引き抜くと辺りに血飛沫が飛んだ。彼の白い騎士正装も返り血で浸っていた。アルフォンスの肢体が冷たい大理石へ崩れ落ちる。

「陛下‼︎」

 イリスの言葉にアルフォンスの指先がぴくりと動いた。エルンストは愕然とした表情で彼女を見ている。

「なんで…。君がここにいるんだ…」

 アルフォンスは最後の力を振り絞って、上体を起こし匍匐前進でイリスが立ち尽くしている方向へ移動しようとするが、血溜まりの大理石に滑って動けない。手を真っ直ぐにイリスへと差し伸べる。

「ねぇさまぁ…。にげて…」

 エルンストの剣が大きく翳され、アルフォンスを突き立てる。イリスは目を背けた。アルフォンスの血潮が噴き出し、イリスのドレスにも飛ぶ。

「あぁぁ…。ぁ…ねぇ…ぇ…」

「ゃゃ…やめてぇぇぇ‼︎」

 イリスの頬に生温かい血筋が伝う。顔を覆った。現状を直視できない。

「何故です…」

「貴女を私から離そうとするからだ。それだけは…」

「大切な弟なのです…」

「だが、一国の君主で皇太后の傀儡だ…。このままだと帝国は斃れる」

 イリスはアルフォンスへ近づく。額に触れると、まだ温もりが残っていた。魂は抜けているので、肉塊に過ぎない。それでも…。イリスはアルフォンスを抱き寄せた。

「イリスが血に濡れることはない」

 アルフォンスの亡骸から剥がそうと、イリスの前で跪くエルンストは彼女の手首を掴んだ。

「触らないで‼︎」

 イリスはその手を振りはらおうとしたが、エルンストは抗えないほどの強い力で動きを制限する。躊躇いがちに震えながらエルンストはイリスに唇を重ねた。涙か、返り血なのか、イリスの膝枕で転がっているアルフォンスの顔へ雫が滴った。

「愛しているんだ…」


 皇帝の骸の前で何を宣言しているのだろうか…。

 愛おしい弟を殺されて受け入れられるわけがない。


「…許しません」

「イリスさえ奪わなければ、私はこの帝国とともに堕ちていけたのに…」

 イリスの潤んだ瞳がエルンストを見上げた。熱を帯びた男女の視線が交差する。

 静寂だった室内へ、足音とともに一人の男の声が届く。

「皇太后は門へ吊るしておきましたよ…。って、何をしてるんです…」

 イリスはこの声を知っている。エルンストの義兄弟であり、イリスとも幼馴染で久しく友人だと思っていたユーゴだ。

「禍の種になるから、殺すべきだとお伝えいたしましたよね」

 ユーゴは穏やかな口調でエルンストを諭す。殺すべきというのは自分を指しているんだろうとイリスは悟った。

「…お前がイリスをここに呼んだのか?」

 エルンストは冷ややかな鋭い眼差しでユーゴを睨んだ。

「はい…。私がアルフォンスの名前を使って呼びだしました」

 エルンストの両腕がイリスの頭を庇うように覆った。

「彼女は殺さない。殺せない…」

 否定の言葉に苛立ったユーゴは、イリスの背中越しからエルンストへ叫んだ。

「駄目だ。前皇帝の血は根絶やしにする」

 先ほどまではエルンストへ敬意を表して話をしていたユーゴは、いつの間にか乱暴に言葉を吐いている。

「ならば、私は皇帝にならない…」


 エルンストが次期皇帝になる…?


 イリスには、何故、エルンストが次期皇帝の玉座へ座るのか分からなかった。

 皇帝の血脈であればまだしも、庶子であるエルンストには無理がある。ディアス公爵家長子のユーゴならばあり得るかもしれないが…。

「アンタは子供か…」

 イリスが抗議しようと二人の会話に割って入る。

「私の知らないところで話を進めないで…。ぐはっ…」

 刹那…。ユーゴの剣がイリスの背中を刺していた。エルンストには届かないように…。

 イリスの腹部に鈍く光っている剣先が覗いている。再び、床は血で溢れた。

「すまない…。この国の人柱になってくれ。アーリスの血統を残すわけにはいかない」

 遠ざかる意識の中でイリスはエルンストの悲鳴を聞いた。

「なっなっ…あああああぁ…あぁ‼︎」

「これ以上、苦しまないようにお前の手で送ってやれ」


 何を勝手なことを…。


 エルンストに拘束された手を振り解きたかったが、イリスの体は重たく力が入らなかった。

「オレを置いて行かないでくれぇ…」

 エルンストはとどめを刺すことはなく、イリスへ涙目で懇願するが、イリスは視力さえあやふやでエルンストの表情を確認することはなかった。

「チッ…」

 エルンストの狼狽ぶりを垣間見て舌打ちをしたユーゴは剣をイリスの身体へ深く食いこませた。そして、ユーゴは剣を一息に抜く。鮮やかな血がエルンストの視界を覆った。

「ぐはっあぁ…」

 イリスは喉から逆流した血を吐き出す。

「やめてくれぇぇぇぇ‼︎」

 エルンストの絶叫が轟く。

 エルンストの願いは虚しく、バルコニーから差し込んだ月光が血溜まりで重ねあった姉弟の死体を優しく包みこんでいた。

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