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長い夏

作者: 夕凪あかね

初作品。初めて着地できたストーリーです。

(※8月19日一部内容改)


 暦の上では立秋を過ぎたが、毎日更新される最高気温のニュースに秋の気配は感じられない。ただ、日の入り時刻が徐々に早まっていることは夏の終わりを感じさせていた。沢渡容子が勤務する老人ホームは小高い丘の上にあり、湾に沈む夕陽は美しく、入所している高齢者や介護に疲弊する職員たちの癒しとなっている。今日も見事なオレンジ色で空が焼けている。

「日が短かくなりましたよね」

 女性事務員が手持ち無沙汰にボソッとつぶやいた。容子に話しかけたわけではない。彼女は独り言が悪い癖だ。いつもは聞こえないふりをして業務に勤しんでいるが、今日は定時に退勤したい。帰りたいアピールも兼ね返答する。

「本当、もう薄暗くなってきましたね。駐車場まで暗いと嫌だからそろそろ終わらせようかな」

「今日は残らないんですね、たまには早く帰った方が良いですよ、無理はしないでくださいよ」

 無理をしなくて良いなら無理などしない。業務が終わらないから仕方なく残業していることを言い返したいがゴクリと喉の奥に一気に飲み込んだ。波風を立てたところで何も解決はしない。

 容子は生活相談員という職種で、入所高齢者の様々な問題を解決する業務に従事している。ひとことで言い表すには乱暴すぎるが、「何でも屋」だ。事務員は3名。生活相談員は2人。同じ事務所の中で業務をしているが、事務員が残業しているのを見たことはない。昼休憩も10時と3時のおやつもしっかり確保している。

 容子は生活相談員の主任を命じられている。2人の部署で主任と言われても上司、部下という感覚は薄い。もう一人の生活相談員である山内祐樹は大学を新卒で入職し3年目。容子は他の高齢者施設での勤務経験後、中途採用で入職し5年目。45歳と25歳という年代の相違もあり、スムーズに連携を取ることができていないのが実情だ。ほぼ一人で奮闘している状況が容子の仕事に対するモチベーションを下げている。しかし、やらなければならないことは山積している。山内の視線を感じた容子が机の上の書類から視線を彼に向けた。

「山内くん、終われそうかな」

「はい。僕はもう記録も終わりました。沢渡さん、今日は残業しないんですか?やっておくことがあれば受け取りますよ」

「大丈夫。明日の入所判定会議の資料もできているし、山内くんも残務がなければ定時で帰っていいよ」

 机の上を片付けながら返答する。

「じゃ、失礼します」

 山内の一言で事務員たちもそそくさと退勤の準備を始めた。皆、口には出さないが残業する容子を置き去りに退勤することが後ろめたいと思っているのか、定時間際になると容子の顔色をうかがったり、言動を注視している。諸々不愉快ではあるが、とにかく今日は18時半には職場を出発したい。


 19時オープン、19時半スタート。容子の友人である林田絵里子が属するバンドはスタートと同時に出演予定だ。初めて訪れるライブハウスのため駐車場の場所が分からず手間取り、薄暗い店内に到着した時、すでに3曲目だと話すMCが聞こえてきた。絵里子のバンドはボーカル、ギター、ベースの男性3人とドラムの絵里子が紅一点の4人組だ。昭和のロックバンドのカバーバンドで、容子が高校生の時に熱心に聴いていたバンドということもあり、ライブが予定されている日はなるべく駆け付けている。容子が以前に交際していた相手、川瀬紀之がバンドマンであり、紀之が出演するライブに絵里子たちのバンドが共演していたことがきっかけで仲良くなった。絵里子は女性特有のめんどくさい要素がなく、気さくで付き合いやすい性格だが、容子は自らをめんどくさい女だと自覚しているため、当初は絵里子と仲良くなったことに我ながら驚いていた。

「容子ちゃんは女子って感じでうらやましい」

「私は絵里ちゃんがうらやましい。サバサバしていて誰とでも仲良くできるし」

「そうみえるだけだよ、あれやこれや心の中でめんどくさいこと考えてるよ」

 40代の女が二人で女子って言い方は図々しいよね、絵里子はそう言って笑っていた。最初は紀之のバンドメンバーや絵里子のバンドメンバーたちと大勢で過ごすことばかりだったが、絵里子とは映画の好みが合い、二人で劇場鑑賞して以来、定期的に二人で会うようになった。正反対の二人なのに仲が良いことを紀之は微笑ましく思っているとよく話していた。2年後、容子は紀之と別れたが、その後も変わらず絵里子とは二人で映画鑑賞を楽しんでいた。


 梅雨の長雨に悩まされていた頃、絵里子から連絡があった。映画のお誘いかと思ったが、2か月くらい入院することになったからしばらく映画に行くことができない。心配はしなくても良いという内容だった。いつも心身ともに元気な様子の絵里子と入院という言葉に違和感を覚え、胸がざわついた。心配しなくても良い旨が書かれていることで更に気持ちが波立つ。

 高齢者施設で仕事をしているため、病気や医療機関とは縁遠いわけではなく、どちらかというと近い位置で日々を過ごしている。動揺することはないと自分自身に言い聞かせても、親しい友人のこととなるとざわついた気持ちは鎮まる気配がない。紀之とは別れて1年が経過している。共通の友人ということで、何か知っていることはないか連絡を取りたい衝動に駆られ、絵里子から来たメールを見終えた後、真っ暗になっていた携帯電話のスリープ機能を解除した。円満な別れとは言えないまでも、人間関係が破綻したほどでもなかったため紀之の電話番号もメールアドレスは登録したまま残している。絵里子のバンドメンバーとは個人的な連絡先を交換するほどの関係ではないため、絵里子に関することは紀之しか話し相手がいない。携帯電話の画面を見つめていると再度、画面が真っ暗になった。そのままカバンに押し込んだが絵里子からのメールの文面がいつまでも頭の中から消えなかった。


 7月下旬、例年より遅い梅雨明け宣言の日、絵里子からメールが届いた。思ったより早く退院できそう。暇で仕方ない。退院したらすぐにライブの予定があるとのこと。顔を見るまでは不安は拭えないが、手帳を開き、ライブ予定日に赤くマルをつけた。

 待ち焦がれたライブの日、3曲目からになってしまったが、入院していたことが嘘のように元気な姿でドラムを叩く絵里子を見ることができた。出番を終えた後、いつもと変わらない笑顔ではしゃぐ絵里子は、容子をやっと安心させた。

「終わっちゃったのかよ」

 聴きなれているが久しぶりの紀之の声が容子の背後から絵里子に向けて発せられた。紀之が来ることは知らなかった。1年ぶりの再会に戸惑ったが、絵里子の明るい声が全て解決してくれた。

「紀之、来られないって言ってたじゃん。容子ちゃんも来てくれてるんだよ」

「おっ、容子、久しぶり。元気そうだな」

「うん、元気だよ、久しぶりだね」

 自分の声とは思えないほど上ずってしまったが、スムーズに返答することができた。絵里子のバンドメンバーたちも交え、以前のように楽しい時間が過ぎた。

「容子、車だよね。乗せてってよ」

 紀之は随分酔っぱらっており、気分が良いのか、まったく何も思っていないのか、容子に帰り道を委ねた。断る理由を考えたが、絵里子は珍しく夫の真二が来店しており、夫の車で帰るとのことで、容子の車に乗る気配はない。他にも断る理由を思いつかず、紀之を送っていくこととなった。幾度も通った紀之の家までの道のり。カーナビは不要だ。

「容子、帰ろうか。じゃ、絵里子、またな」

 気分よく酔っぱらった紀之と、車の鍵をかばんから出して握りしめていた容子に対し、絵里子が姿勢を正し、一気に話した。

「容子ちゃん、紀之、待って。9月にまた入院するんだ。今度は手術になるから本当に長くなりそう。この前の入院は手術前の検査入院だったんだよね。10年前に治療していた癌が再発したんだって。もうライブもできないかもしれないから、今日は二人とも来てくれてうれしかったよ」

 なんと言葉をかけ、どうやって車に乗り込み、紀之の家の前に到着したのかを容子は思い出せなかった。紀之が一言も話さず窓の外を見ていたことは覚えている。車から降りようとしない紀之が静かに泣き出した。

「悔しいよな。なんでだよ……」後は言葉にならず泣いていた。

 まだ死ぬって決まったわけじゃない、絵里ちゃんは大丈夫だよ、言葉は浮かんできたが容子は何も返答しなかった。

「今日はありがとう。送ってくれてありがとな。酔っぱらってごめんよ。どうせ仕事ばっかりしてんだろ、たまにはのんびりしろよ」

「こっちこそありがとう。一人では受け止めきれなかっただろうから、紀之と一緒で心強かった」

「絵里子がどうしても今日は来てくれってメールに書いてたんだよ」

 この日、容子は初めて涙があふれた。容子が一人で受け止めることができないと分かって絵里子は紀之を居合わせるよう計画したのだろう。気丈に振る舞う絵里子の笑顔が容子の胸をしめつけた。


 9月になり、絵里子は入院し、無事に手術を終えた。10月には長いメールが届いた。

「容子ちゃん、元気にしているかな。私は無事に手術も終わって、売店まで一人で行けるくらいになったよ。病院にはWi-Fiがあるからネット環境が快適で困っていることもないんだよね。売店に来年の手帳が売っていたから買ったよ。たくさん予定を書き込みたい。本当は容子ちゃんと買い物に出かけて、いろんな手帳を見てから買いたかったけど、病院の売店で我慢したよ。来週には抗がん剤治療を開始して、来月中に退院して自宅療養に切り替えたら通院で抗がん剤治療を続ける予定。ノーベル賞を受賞した大学の先生の薬剤のこと知ってるかな。私の癌治療に有効なんだって。こんなラッキーなことないと思うんだよね。副作用とか辛いと思うけど頑張りたいよ。1日でも長く生きていたいんだ」

 力強い内容だった。容子は絵里子の言葉にひとつひとつ丁寧に返答した。絵里子とまた映画を観に行くことができる日まで劇場鑑賞をせず願懸けしていることも伝えた。紀之とは会う機会が増え、再度、交際に発展するかもしれないことを打ち明けた。紀之とのことを絵里子は自分のことのように喜び、容子と紀之には幸せになってほしいとメールの返信が届いた。絵里子が元気になったら伝えればよいことなので、真実は伏せていた。紀之とは絵里子のライブ以来会っていない。絵里子が容子と紀之の再会を計画してくれたことを無駄にしたくない思いから嘘をついてしまった。容子と紀之が別れた時、紀之には容子ちゃんみたいな人が似あうのに、と他人事にもかかわらず落ち込み、憔悴していたのだ。


 梅雨明けが遅かったせいか、夏がいつまでも続くような残暑に見舞われた。11月になっても絵里子が退院した報せは届かず、少しづつ朝夕の気温が下がり、空は秋の装いを呈していた。12月になり、職場から見える湾の夕焼けがひと際美しく感じた夜、絵里子が他界した報せを受けた。

 年が明け、観測史上最も暖冬と呼ばれた冬が過ぎ、桜が驚くような早さで咲き誇り、長雨に悩まされる梅雨も早めに訪れた。また最高気温が日々更新される夏を迎えたが容子は映画を劇場で観ることも、紀之と会うこともなかった。

 

 1日でも長く生きていたい。絵里子の希望は叶ったのだろうか。どこを起点とすれば1日でも長く生きた実感を持つことができるのだろうか。病魔に蝕まれる体と向き合いながら、望みであった1日でも長く生きることはできたのだろうか。あの長い夏が永遠に続けば絵里子は1日でも長く生きることができたのだろうか。美しすぎるオレンジ色に焼けた空が今日もただ静かに夜を迎えようとしていた。


読んでいただき、ありがとうございます。

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