子猫と子犬のひみつの魔法
わたしは、ひとつだけ魔法を使うことができる。
「シャルロッテ、まだ起きているのですか。もうおやすみなさいな」
「はい、シスター・クレーネ。おやすみなさいませ」
修道院の明かりが消えて、わたしを含む見習い達も宿舎で就寝する時間。
見習いを教える立場のシスター・クレーネがわたしにそう言って、釘を刺す。
わたしは笑顔で返して会釈をすると、自分の部屋に入って戸を閉めた。
シスター・クレーネの足音が聞こえる。宿舎の見回りを再開したのだろう。
ここ聖マルティナ修道院は、広い敷地を持ち、多くの修道女が生活をしている。
礼拝堂や食堂がそれぞれ独立しており、修道女用の宿舎もあった。
ただ、さすがに贅沢は禁じられているため、個室とはいえど決して広くはない。
ここは様々な事情で貴族でいられなくなった娘を受け入れる場所らしい。
かくいうわたしもそんな裏事情を持つ一人。
もうすぐ十五歳になり成人するわたしは、元々は王都近くの村で生まれた。
物心ついたときから母一人で、父は死んだと聞かされていた。
でも、そうじゃなかった。
それを知ったのは、母が流行り病に倒れたときのことだ。
母は死ぬ間際、わたしに父のことを教えてくれた。
わたしの父はこの国の偉い貴族で、名をウィンティルト伯爵というらしい。
元々、母はその伯爵の家で働いていた使用人だったという。
そこで伯爵に見初められ、わたしを身ごもったらしい。
父はわたしを身ごもった母に多額のお金を渡して、この村に住むように言った。
母は父を愛していたが、家の事情から二人は一緒になれなかった。
そこまで聞かされて、母は死んだ。
するとほどなく、村に伯爵家からの使いが来て、わたしは修道院に送られた。
伯爵家の事情については、修道院に送られる前に少しだけ聞かされた。
父には奥様とお嬢様がいて、奥様は大変嫉妬深い気性をお持ちなのだとか。
そのため、もしわたしの存在が知られれば、命がなかったかもしれない。
そうさせないための、わたしの聖マルティネシア修道院行きなのだという。
でも、それをわたしに言ったのは父ではなく、白いおひげの執事さんだった。
そもそもわたしは、父に一度も会わせてもらえなかった。
聞きたかったのに。
父に『本当に母を愛していらっしゃったのですか』って。
尋ねるどころか、一度のお目通りも叶わないまま、修道女見習いにさせられた。
それが今から五年前。わたしが十歳のときだ。
以降、わたしはこの退屈な修道院で、日々を暮らしている。
そんなわたしだけど、たった一つだけ楽しみがある。
丁度今日は、その楽しみなことに出会える夜。窓から見える月が、白くて綺麗。
「……そろそろ、いいかしら」
辺りが静まり返った頃を見計らって、わたしはベッドから身を起こした。
ベッドの下に隠してある木箱を引きずり出して、その中の村娘の服に着替える。
そして、窓に近づいて下を見ると、すでにそこに集まっていた。
「にゃあ」
「なぁ~ん」
「にゃ」
猫だ。
白猫、三毛猫、黒猫、他にも何匹か。
小さな体の可愛い猫が、わたしのいる窓の下に集まっている。
みんな、生まれて一年も経っていない、子猫達。
「こんばんは、子猫さん」
そう挨拶をすると、子猫達は一斉に「にゃん」と返してくる。
わたしは、ひとつだけ魔法を使うことができる。
「さぁ、行きましょう。今日も案内よろしくね」
子猫と話ができる魔法だ。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
気づいたのは、まだほんの小さな頃。
猫の言っていることを何となく理解することができた。
でも、それを母に言っても信じてもらえなかった。
それどころか、人に話せば魔女扱いされるから話しちゃダメとも言われた。
それ以来、わたしはそのことをほとんどの人に話していない。
わたしが声を聴けるのは子猫だけ。
おおよそ生後一年以内。大人の猫の声は聞いても全然わからない。
昔からずっとそうだから、わたしにとってはそれが普通。
大人の猫の言っていることがわからないのも、そういうものなのだと思ってた。
でも、わたし以外にこの魔法を使える人はいなかった。
もしかしたらわたしは魔女なのかも。そう思ってドキドキしたこともあった。
「にゃあ」
「うん、今夜はこっちなのね」
子猫達に導かれて、わたしは修道院の敷地の外に出る。
敷地は高い塀で囲まれているけれど、崩れて穴が空いている場所から抜け出た。
修道院での暮らしは退屈で、堅苦しくて、好きじゃない。
だからたびたび、こうして夜になると修道院を抜け出して遊びに出かけていた。
でも、わたしの楽しみはそれじゃない。抜け出したことがきっかけだけれど。
塀の穴をくぐって、ちょっとした森の中を歩いて、やがて視界がひらけてくる。
耳に聞こえる、サラサラと水が流れる音。
鮮やかな月の光を受けて、小川の水面がひそやかに輝いていた。
「お、来たな」
そこに、彼が待ってくれていた。
農夫の服を着た、わたしよりも全然背が高い、灰色の髪と鳶色の瞳をした彼。
「子犬さん、こんばんは」
「ああ、こんばんは。子猫さん」
わたしをキティと呼び、わたしがドギィと呼ぶ彼は、世界で一人だけのお友達。
彼の周りには、さまざまな種類の犬がいる。全部、生後一年以内の子犬達。
ドギィはわたしと同じ、子犬と言葉が交わせる魔法が使える人なのだ。
彼も、子犬達に案内されて、ここにやってきた。
「ここまで歩いて、疲れたろ。ほら、座れよ。キティ」
そう言って、ドギィは川辺にハンカチを置いて、そこにわたしを促した。
わたしは「うん」とうなずいて、おずおずとその上に腰を下ろす。
そうすると、子猫達も寄ってきて、わたしの周りに座ったり、丸まったりする。
「ドギィも座ったらいかが?」
「ああ、そうさせてもらおうかな」
笑って言って、彼もわたしの隣に座る。
するとやっぱり、子犬達が彼の周りにやってきて、各々休み始めた。
「ふふ……」
「何だよ、キティ。いきなり笑って」
「今日は、子猫さん達が多いわ。わたしの方が人気者ってことね」
「いやいや何匹か『卒業』したから、決して俺が不人気なワケじゃないぞ」
ドギィが言う『卒業』は一歳を迎えて、わたし達とお話ができなくなることをいう。
それを持ち出されたら、わたしも「そうなんだ」と納得するしかない。
「ちょっと、寂しいわね」
「ああ。まぁ、仕方がないよ。けど、新しいヤツもまた来るさ」
苦笑するドギィに、わたしも「そうね」と同意する。
「それよりも、夜は短い。お話しようぜ、キティ」
「うん、そうよね、ドギィ。今日はどんなお話を聞かせてくれるの?」
そうして、わたしの楽しみにしていた時間が始まる。
それは彼とのお話しの時間。月が冴える夜にしか会えない、わたしのお友達。
「そうだなぁ、じゃあ今日は騎士学校で開催されたお祭りの話でもするか」
「お祭り! わたしの村でも年に何回かあったわ。賑やかで楽しかったわ!」
膝の上に子猫を乗せて、わたしは軽く手を叩いた。
ドギィは、この近くにある騎士学校で暮らしている騎士の候補生なのだという。
でも、知っているのはそれだけ。
ドギィという呼び名も、当たり前だけど、彼の本当の名前じゃない。
わたしは、彼の本当の名前を知らない。
そして彼も、わたしの本当の名前を知らない。
お互いにそれで納得できていたし、余計な詮索はしたくはなかった。
もし下手に探ろうとすれば、もう彼とは会えなくなってしまうかもしれない。
それが、怖かった。
きっとあっちも同じなのだろうと思う。
だから、わたしは子猫さんで、彼は子犬さん。
それ以上でもそれ以下でもない。ましてや、それ以外でもない。
「――でさ、先輩が怒っちゃってさ。祭りの最中なのに剣を抜いちゃったんだ」
「まぁ! 怖い! それで、それで? それからどうなったの?」
「いや、さすがに周りの人間もみんな止めに入ったよ。あのときは驚いた……」
「悪乗りし過ぎよ、聞いてるわたしがハラハラするくらいだもの」
「う、面目ない」
きまりが悪そうな顔をしつつ、ドギィが後ろ頭を掻く。
その隣で寝ている子犬が、クァァと大きくあくびをしていた。
その対比に思わず笑ってしまったわたしは、手を伸ばして子犬を撫でる。
子猫より少しだけかたい毛が、手のひらを弱く押し返した。
わたしがドギィと出会ったのは、今から三年くらい前になる。
今日と同じように、修道院を抜け出して外に遊びに行ったある夜のこと。
その日は、ちょっとした失敗をしてシスター・クレーネにこっぴどく叱られた。
原因はわたしにあったけど、でも、そこまで怒ることもないと思っていた。
おかげで気分がささくれ立って、寝るにも寝れず、衝動的に修道院を脱走した。
軽い息抜きのつもりだった。
外の空気をいっぱい吸い込んで、子猫と話して、すぐに戻ろうと思っていた。
でも、そこで出会った。
わたしと同じように、夜に一人で、でも多くの子犬を引き連れていた彼に。
「あ」
「え」
出会いは、小さな橋の上。
お互いに気づいた瞬間、小さく声をあげていた。
そのとき、彼は子犬を率いていて、わたしは子猫と一緒だった。
だから、一目見た瞬間に感じるものがあって、ついつい、話しかけてしまった。
「……もしかして、その子達とお話、できるんですか?」
今から振り返ると、唐突で、しかも随分と礼儀を欠いた問いかけだったと思う。
でも彼はそれを咎めるようなこともなく、屈託なく笑ってくれた。
「そうか、君もか」
母に止められて以降、ずっとずっと誰にも言えなかったわたしのひみつの魔法。
彼もそれも同じだったらしくて、わたし達は出会ってすぐ、意気投合した。
そしてお互いに名前を、というときになって、彼は急に言葉を濁した。
わたしが不思議に思っていると、彼はこんなことを言い出した。
「お互い、この先、また会えるかもわからないだろ? だから俺は、どこかに住んでる子犬さんってことで。どうかな、ダメかな……?」
「ドギィ、ね。随分と可愛らしいお名前ね」
わたしよりずっと背が高くて強そうな彼が子犬なんて名乗るのが面白かった。
何か名乗れない事情があるようだったけど、わたしは気にしなかった。
「なら、さしずめわたしは子猫さんかしら?」
極論、わたしは名乗ってもよかったが、ここは彼に乗ることにした。
お互いに、本当の名前も知らない秘密のお友達。
そんな二人だけの関係性に、ちょっとドキドキしたことを今でも覚えている。
「なるほど、いかにも君に似合ってる名前だな」
「まぁ、失礼ね。これでも修道女なのよ。神に仕える、清らかな乙女なんだから」
怒って頬を膨らませると、ドギィは余計に笑い出した。
何だか、すごく恥ずかしくなって「何よ!」と彼に詰め寄ってしまった。
今から三年前、わたしが十二歳になる直前、彼が十四歳になった頃のことだ。
こうして、子犬さんと子猫さんはお友達になった。
夜のお話しは、一、二週間に一回くらい。夜になると子猫が迎えに来てくれる。
ドギィには、色んなことを話した。
村での思い出、母と行った王都での出来事、農作業のこととか、色々。
ドギィも、わたしに色んな話をしてくれた。
彼は、修道院から少し離れたところにある騎士学校の生徒で、騎士候補生。
だから、彼の話はもっぱらその学園でのこと。とても興味深かった。
「キティはさ、騎士ってどう思う?」
「う~ん、近くで見たことがないからわからないけれど、カッコいいわよね」
「お、そうか。カッコいいか、そっか~」
「でも、ドギィは騎士になれるの? こんな風に、学校を抜け出す悪い人が」
わたしの答えにニヤける彼へ、わたしは冷や水を浴びせた。
途端に、彼は目を丸くしてわたしのことを見つめてくる。驚きすぎよ、ドギィ。
「お、おれはなるぞ。騎士に。昔から、ずっと憧れてたんだ」
「へぇ~、そうなんだぁ。ふ~ん」
「こら、聞き流すなよ、キティ。そういう君だって、修道女になれるのか?」
ドギィにしてみればやり返したつもりなんだろうけど、わたしはフフンと笑う。
「わたしは別に、修道女になんかなりたくないもの」
「あれ、君は神に仕える清らかな乙女なんじゃなかったのか、ん?」
「それを持ち出さないで!」
「ははは、ごめんごめん」
「……実は結構意地悪な人よね、あなたって」
「だからごめん、って。拗ねないでくれよ、キティ……」
わたしがそっぽを向くと、ドギィはすぐに困ってわたしに謝ってくる。
普段は凛々しいお顔をしているのに、そのときだけは何か愛嬌を感じてしまう。
だからわたしは、ことあるごとにこんな風にしてドギィを困らせた。
ごめんね、ドギィ。
でも、カッコいいのに可愛くもあるあなたも悪いのよ。
言ってなかったけど、わたし本当は、少しだけイタズラ好きの性格なんだから。
そんなあなたを見てしまったら、ついついイタズラしたくなってしまうわ。
こんな風にして、わたしと彼の秘密のお話しは始まった。
息苦しい修道院での生活の中で、彼との時間が一番の楽しみになっていった。
そういえば、こんなこともあった――。
「ねぇ、ドギィはどんな騎士になりたいの?」
それは、あるとき何の気もなしにきいた、ちょっとした質問。
するとドギィは「待ってました」と言わんばかりに瞳を輝かせ、語り出した。
「金狼の騎士と謳われたアルヴェルト公だな。俺は、あの方のようになりたい!」
アルヴェルト公の名前は、わたしも知っていた。
この国の成立にも関わった建国王の弟にして、金毛の神狼を従えた最強の騎士。
公を初代とするエンヴァーグ公爵家の当主は代々騎士団長を務めている。
「大陸中で謳われてる『金狼の騎士』のサーガは、それこそ完全に覚えるくらいに聞いたな。そのたびに胸が熱くなって、俺もいつかは――、って思ったモンさ」
「でも、今は子犬さんなのよね、あなた」
右手で拳を握り、でも左手で子犬をあやすドギィに、わたしは言った。
だって、瞳をキラキラさせて熱弁する彼が、すごく可愛かったんですもの。
「むぅ……、いつか。いつかだから……」
「そのいつかが、本当にいつか来るといいわね」
言い訳めいた物言いをする彼を、わたしはクスクス笑いながら励ましてあげた。
落ち込む姿も可愛らしいってことに、自分で気づいてないのよね、この人。
耳をペタンとさせた子犬みたいなんだから。
「そういう君は、将来はどんな人になりたいんだ?」
「……わからないわ」
膝に乗ってきた白い子猫のあごを指で撫でながら、わたしは首をかしげる。
修道院で生活はしているけれど、自分が修道女になる未来はあまり見えない。
かといって、ウィンティルト家がわたしを迎えることもないだろう。
どうやらわたしの存在自体、あの家では禁忌のようだし。
叶うなら、母と一緒に暮らした村に帰りたい。
あそこでの暮らしが、わたしには一番性に合っていた。
何も考えず野原を駆け回ってたり、農作業を手伝ってた子供の頃のわたし。
と、そこまで考えて、ふと思いついた。
「ねぇ、騎士様。わたしのことをさらってくださいませんこと?」
「は……? はっ、はぁ!? き、君は一体、何を言い出すんだ、キティ!」
これ以上なく狼狽し大きくのけぞるドギィに、わたしは堪えきれず笑い出す。
あらら、彼が左手であやしてた子犬がビックリして逃げちゃったわ。
「冗談よ、ドギィ。そんなに顔を真っ赤にすることないでしょ?」
「う、むぅ……。いや、冗談なのはわかってるが、しかし、けどなぁ……」
頬を紅潮させて、ドギィはわたしから視線を逸らす。
照れ過ぎよ、あなた。本当に、ほんの冗談でしかないのに。
「いいか、キティ。みだりにそういうことは言うもんじゃないぞ?」
「あら、さらってくださらないの?」
「俺は騎士だ。騎士は婦女子を守りはしても、そんなことは絶対しない」
――ドキッとした。
決然と言う彼の表情に、その凛々しい顔つきに。
しばし言葉を失って、まっすぐにわたしを見る彼を、見つめ返してしまう。
完全に不意を突かれた。
彼に見惚れている自分にハッとして、それから、何故か無性に悔しくなった。
だから、わたしは彼に言ってしまった。
「わたしのことは守らないでいいわよ? だってあなた、子犬さんだし」
「フンッ、わかってるさ。君は子猫さんだからな。婦女子じゃない」
「まぁ、何てひどいことを。こんな人が騎士候補だなんて、世も末だわ」
「君から言い出したことだろうが!?」
そうして、二人で笑い合ったっけ。
彼と出会ってちょうど一年くらいした頃のことだ。
本当は、ちょっとだけ後悔してる。
彼の誇りを軽んじるような言葉を吐いたこと。強がって、背伸びをしたこと。
それも含めて、わたしは何もかも覚えてる。全部、全部覚えている。
いや、今まで忘れたお話しなんて、一つもない。
ドギィが聞かせてくれたお話しはどれも楽しくて、忘れるのが勿体ないから。
わたしも、彼にいっぱいお話をした。
彼も覚えてるといいなと思ってるのは、さすがに恥ずかしくて言えない。
本当にいっぱい、いっぱいお話をした。
彼と、名前も知らない、わたしの大切なお友達の子犬さんと。
そして、あっという間に三年が過ぎていった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
夜が、終わろうとしている。
月が空の一方に大きく傾いて、反対側の空が白み始めている。
夜が――、終わろうとしている。
「おっと、そろそろ時間がヤバそうだなぁ」
わたしの見ている方に気づいて、ドギィも空を見上げてそんなことを言う。
「もう、終わりかしら?」
「そうだなぁ。俺も君も、そろそろ戻らないと見つかっちゃいそうだし」
そうよね。時間は、有限だものね。
わたしがうなずくと、ドギィは寝ている子犬を起こして、立ち上がりかける。
「それじゃ、キティ。今日も楽しかったよ。またお話しを――」
「待って、ドギィ」
お別れの挨拶をしようとするドギィを、わたしは遮った。
「その前に、一つだけ、お話ししたいことがあるの」
「いや、だが、時間が……」
「すぐに終わるわ。――お願い」
彼を見上げ、わたしは懇願する。
わたしの様子に、彼は表情を引き締めて「わかった」と言ってくれた。
「少しなら、いいよ」
「ありがとう」
「それで、お話しって何だい?」
ホッと胸を撫でおろしたところを促され、身が竦む。
時間はもうないというのに、わたしはなかなか言い出すことができなかった。
「……キティ?」
そんなわたしを、彼は心配げな顔をして眺めている。
これ以上は、遅らせることはできない。
早すぎる時間の流れを激しく恨みながら、わたしは彼に切り出した。
「あのね、こっちにも『卒業』する子がいるの」
「そうなのか……」
ドギィは、少し寂しげな調子で呟き、わたしの周りにいる子猫達を見る。
「せっかく出会えた友達なのに、残念だな」
「……うん」
「『卒業』するのは、膝の上に乗せてる白い子かい?」
わたしは首を横に振る。
「じゃあ、君の隣に寝てる、その三毛猫の?」
わたしは首を横に振る。
「え、それじゃあ、今、後ろ足で耳を掻こうとして失敗して転がった黒い子か?」
わたしは、首を横に振る。
「それじゃあ、他の……、えッ」
ドギィの視線がわたしと合って、気づいた彼は顔に大きな驚きを浮かべる。
「まさか……」
「うん、わたし」
そんな彼を見ていられなくて、わたしはそっと目を伏せて答えた。
「え……、キティが? ……『卒業』?」
「本当よ。今日でわたしは『卒業』。もう、子猫さんでいられなくなったの」
言いたくなかった。こんなこと。
わたしとの『次』を楽しみにしてくれているドギィには、言いたくなかった。
でも、言わなきゃいけないことだった。
大切なお友達の彼には、訪れた夢の終わりを告げないわけにはいかなかった。
「……何で」
口を空けたまま立ち尽くすドギィが、それだけをわたしに問う。
その問いかけに、わたしが沈黙しようとする。――だけど、無理だった。
「あなたは子犬さんで、わたしは子猫さんなんでしょ?」
だから、のどの奥まで出かかった言葉を飲み込んで、それだけを答えた。
もともと『次』があるかどうかもわからない出会いだった。
最初は、もう会えない可能性の方が断然高かった。
だから二人はキティであり、ドギィだった。結局、三年も続いてしまったけど。
彼には彼の事情があり、わたしにはわたしの事情がある。
それだけの話で、それ以上でもそれ以下でもない。ましてやそれ以外でもない。
「もう、会えないのかい?」
わたしはうなずいた。
「もう、ここには来ないのかい?」
わたしはうなずいた。
「もう、君はキティじゃないのかい?」
わたしは、うなずいた。……うなずきたくなかったけれど。
「そうか……」
吐息と共にこぼれる、ドギィのかすれた声。
うつむくわたしは、今の彼を見ることができない。今の自分を見せたくない。
さっきまで楽しくお話をしていた川辺に、重い沈黙が立ちこめる。
わたしは、小さく震えていた。
それは悲しみからではなく、必死に耐え忍んでいるがゆえに起きるものだった。
叫びたかった。
彼に、心から、おなかの底から叫びたかった。
わたしをさらって、って。
この三年間、ずっと目を逸らし続けてきたことがある。
それはきっと、ドギィも同じ。何度もお話をして、何度も一緒に笑って。
だから感じた。そして目を逸らし続けてきた。
わたしが彼に感じているあたたかいもの。胸を満たす甘い感情の正体から。
ドギィはわたしと同じひみつの魔法が使える、世界でただ一人のわたしの仲間。
ううん、違うよ。
そうでもあるけど、それはただのきっかけでしょ。
ドギィはわたしと同じ宿舎を抜け出す悪い人。わたしの大切なお友達。
ううん、違うよ。
そうでもあるけど、もうそれだけじゃ済まないでしょ。
いつから、この想いを抱いていたのかはわからない。
でも、気づいたのはつい最近。
ウィンティルト家から来た使いの人から家に戻るよう伝えられた、その日。
今日、これから夜が明けてお昼になったら、わたしは修道院を出る。
あまりにも急な話だった。シスター・クレーネも非常識だと怒ったくらいだ。
でも、すでに父が決めたことだとして、話は覆らなかった。
ドギィともう会えないと知ったわたしは、そこでやっと彼への想いを自覚した。
「ドギィ、これまで本当にありがとう。突然の話で、ごめんなさい」
必死に涙をこらえながら、わたしは何とか、顔をあげた。
全身に力を込めて、漏れ出そうになる嗚咽をギリギリのところで我慢する。
「キティ……」
「いつかこうなることは、わかってたでしょう」
「そう、だが……。そうだけど!」
彼が叫ぶと、子犬達が悲しそうにキャンキャンと鳴きはじめた。
ごめんね、本当にごめんなさい。
もう、あなた達と遊んであげることもできないの。
「本当に、終わりなのか……」
そんなに悲しそうな顔をしないで、ドギィ。
お願いだから、せめて最後は、笑ってお別れをしましょう?
「俺は……、イヤだ」
「ドギィ。そんなこと言わないで、わたし、困ってしまうわ」
「君だってイヤなはずだ! 急すぎるよ。こんないきなり、お別れだなんて!」
ええ、そうよ。わたしだってイヤ。
もっともっとあなたとお話ししたい。子犬達とも遊んでいたかったわ。
でも――、
「わたしは、行かなきゃいけないの」
使いの人から聞かされた。
奥様とお嬢様が、お亡くなりになったって。
旅行先での事故だったらしい。
それで、父は独りになってしまった。
もう、わたし以外にあの人に家族は残っていない。だから呼び戻された。
わたしの父――、ウィンティルト伯爵。
まだ会ったことがない父だけど、わたしはあの人のことを母から託されてる。
死に際、わたしの出自について話してくれた母は、わたしに頼んできた。
あの人は弱い人だから、誰かがそばについていないといけない、って。
もし、あの人が独りになるようなことがあったら、支えてあげて、って。
勝手な話だと思った。何て虫のいい話。
わたしのことを会いもしないまま修道院に送るような人。父だなんて思えない。
でも、母から託されてしまった。
わたしにたくさんの愛情を与えて育ててくれた、たった一人の母に。
「ごめんね。ごめんなさい、ドギィ。本当に、ごめんなさい」
謝り続けていると、どうしても感情が高ぶって、涙が溢れそうになってしまう。
ダメ、最後なんだから笑わなきゃ。湿っぽいお別れは好きじゃないの。
「キティ」
ドギィが、わたしに手を差し伸べる。
「この手を取ってくれ、キティ。俺は君をさらう。君を、行かせない!」
「ドギィ……」
嬉しくて、悲しくて、溢れる涙を止められなかった。
わたしは立ち上がって、彼を見つめた。彼も、わたしを見つめてくれた。
「キティ、頼むよ。どうか、この手を取ってくれ!」
必死の彼のお願いが、これまで見たどんな姿よりもいとおしく感じられた。
そんな彼に、ついつい笑みがこぼれてしまう。真剣なのは、わかっているのに。
嬉しかった。
どうしようもなく嬉しくて、彼の手を取りたかった。抱きしめたかった。
「……でも、ダメ」
わたしは首を横に振る。
今のわたしは、何も考えず野原を駆ける無邪気な子猫さんじゃいられない。
「ごめんなさい、ドギィ。そろそろ本当に夜が明けるわ。だから、戻らないと」
わたしは、ドギィに背を向ける。
もうこれ以上、辛そうな彼の顔を見ていることはできそうになかった。
「さようなら、ドギ――」
彼の大きな手が、わたしの右腕をガシと掴んだ。
「キティ」
熱のこもった声がわたしを呼ぶ。わたしへの想いが、響きの中に表れていた。
「ドギィ、お願い。行かせて」
「ダメだよ、行かせない。行かせたくない」
わたしが声を硬くすると、彼も声を硬くする。
力で勝てるはずもない。でも彼も、わたしを強引に押し留めようとはしない。
ドギィ、優しい人。そんなあなただから、わたしは――、
「キティ、俺は君を行かせたくない。だって、俺は誰よりも君がす……」
ダメ!
「…………ッ!?」
言いかけたドギィの唇を、わたしは自分の唇で塞いだ。
咄嗟のことで、利き腕が使えなかったから、この方法しか思い浮かばなかった。
ドギィの唇は思ったよりも柔らかかった。
密着させた体に、彼の心臓の高鳴りが伝わってくる気がした。
わたしのも、伝わってしまったかもしれない。早鐘のような今の鼓動が。
「……ダメよ、ドギィ」
唇を離し、わたしは彼に告げる。
ダメ、それだけは、言ってはダメ。あなたもわたしも、止まれなくなるから。
「ドギィ、あなたは騎士になるんでしょ。アルヴェルト公のような立派な騎士に」
「ああ、なりたいよ。でも、今の俺はそれ以上に、君が……」
もう一度、キスで彼を黙らせた。
本当に、困った人。本物の子犬みたいに聞き分けがないんだから。
「お願い。そんなに苦しそうな顔をしないで。あなたは、騎士になるんだから」
「キティ……」
ドギィは、泣かなかった。
その瞳にいっぱいに涙を溜めながらも、それを零すことはしなかった。
そう、あなたは強い人。
泣き虫のわたしなんかと違って、これから多くの民を支えていく人。
そんな彼が、今、わたしの視界を占めている。
その顔を、その吐息の熱さを、その心臓の高鳴りを、わたしは決して忘れない。
「さようなら、ドギィ。わたしの一番大切なお友達」
「ああ、さよなら、キティ。俺の一番最高の友達」
そして、わたしは子猫を連れて背を向けた。彼は子犬を連れて背を向けた。
もう、どちらも振り返ることはなかった。
こうして、わたし達は一番大切なお友達とお別れをした。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
十五歳になったその日、わたしはウィンティルト伯爵家の令嬢に迎えられた。
今まで着たことがない豪華なドレスを着せられ、初めて父と顔を合わせた。
「今日から、よろしく頼む」
そう言った父――、ウィンティルト伯爵はびっくりするくらい貧相だった。
体は痩せていて、髭も細くて、見た目に威厳は感じられない。
背も、ドギィに比べれば全然低くて、男らしさなんてかけらもない。
それは単に比較対象が悪いだけかもしれないけれど。
「おまえに会うのは、これが初めてになる。そうだな、シャルロッテ?」
「はい、そうです。お父様」
貴族の礼儀なんてまだ知らないから、わたしは立ち方だけそれっぽくして返す。
「突然のことで混乱しているかもしれないが、今日からおまえはこの家の令嬢だ」
「わかっています。……でも、本当にわたし以外に御家族は?」
わたしが尋ねると、父は眉を下げてかぶりを振った。
「元々、先代からして子が少なくてね。僕も見ての通り、体が強いワケじゃない。おかげで子も死んだ娘とおまえだけだ。貴族としては、落第なのだろうね」
ふぅ、と息をつく父の姿に、やはり力強さは微塵もなく。
だけど、態度から人の良さが感じとれる。優しい性根の持ち主のように思えた。
「ねぇ、お父様。ひとつだけ聞かせてほしいことがあるんです」
「何だね、僕に答えられることならいいんだが」
ここで、わたしはずっと聞きたかったことを父に尋ねた。
「――あなたは、わたしの母を愛していらっしゃいましたか?」
愛していたとも、という答えが返ってくると思った。
母が死に際にわたしに託すくらいに愛し、想い続けた人なのだから。
きっと父も同じに違いないと、心のどこかで決めつけていた。期待していた。
でも――、
「ああ、うん。……まぁ、それは、その。まぁ、うん。あ~、まぁ、な」
返されたのは、否定でもなく、肯定でもなかった。
え、何それ。と思った。
何なの、その『都合が悪いことをきかれてしまった』みたいな、歯切れの悪さ。
「いや、うん。愛していたさ。ああ、愛していたとも!」
わたしのまなざしに気づいたか、父は今さら誤魔化すように声を張り上げた。
だが、次の言葉が、わたしの中の幻想を一層強く打ち砕くことになる。
「ところで、おまえの母の名は、何といっただろうか?」
「お父様……」
この人にとって母はただの遊び相手でしかなかったのだと、このとき確信した。
わたしの中にあった『遺された唯一の父娘』という幻は、儚くも崩れ去った。
ああ、そうだった。
この人は、奥様に知られたくないという理由で、わたしを修道院送りにした人。
今こうしてわたしを迎え入れたのも、伯爵として体裁を保つため。それだけ。
わたしの母は、よりによってこんな男を愛しただなんて――、
「……あは」
自然と、笑いが漏れた。
「あははは、あはは。あは、ははは……」
「な、おい……、何だ、一体どうしたのだ?」
力なく笑うわたしに、父は驚きながらも恐る恐る声をかけるだけ。
何て人。心配するでも、叱り飛ばすでもなく、ただオロオロするだけなんて。
わたしは見誤っていた。
この人は優しいんじゃない。ただ弱くて、苦しみたくないだけの卑怯者だ……。
「わたし、わたしは……ッ」
わたしの中にあった決心が、絶望の帳に覆われていく。
視界が歪む。頬に熱いものが伝い落ちていく。
わたしは、こんな男のために、こんな薄情な男の体裁のために、あの人を……!
「な、何だおまえは、いきなり泣き出して! 父である僕の前で、無礼な!」
言葉ではそう罵りながら、父はわたしに近づこうとはしなかった。
そして早々に「僕は執務に戻る」と言って、足早に部屋を出て行ってしまった。
その場に崩れ落ち、わたしは両手で顔を覆ってすすり泣いた。
ごめんね、ドギィ。
わたし、間違っちゃったみたい……。
遅すぎるわたしの後悔を慰めてくれる人は、この家にはいなかった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
ガラガラと、車輪の回る音だけがわたしの耳に届いている。
馬車から見る外の景色は、何も変わり映えしない。
伯爵家の馬車に乗せられたわたしは、今、自分の嫁ぎ先へと向かっている。
ウィンティルト家の令嬢になってから一年。わたしの婚姻が決まった。
奇しくも、嫁ぎ先はあのエンヴァーグ公爵家だった。
聞きたくなかったな、その家名。
だって、どうしても彼のことを思い出してしまうから。
この一年は、何の楽しみもない灰色の日々だった。
元は農民でしかないわたしは、来る日も来る日も礼儀作法を叩き込まれた。
これが楽しくないのなんの。
息苦しいし、堅苦しいし、覚えることでいっぱいで、全然ついていけないしで。
でも、さすがに一年も続けると多少は覚えてきた。
父とは、あの日以来、一度も顔を合わせていない。
あの邂逅の時点で、父にとってのわたしは『無礼な小娘』でしかなくなった。
わたしとしても似たようなものなので、顔を見ないで済むならそれでいい。
それと、父は父で、後妻をとらないのかと周囲から言われ続けているらしい。
でも、父はそれらの誘い全てを断っていた。
「僕は妻を愛しています。僕の生涯で妻と呼べる女性は、あの人だけなのです」
とか、そんな理由らしいけど、嘘ばっかり。取り繕ってるだけじゃない。
また尻に敷かれるのが怖いだけのクセに。
結局、父は飼い犬にはなれても狼や猟犬にはなれない人なんだと思い知った。
わたしみたいな小娘一匹、叱れないような人なんだかた当然か。
ああ、本当に、貴族なんて何も楽しくない。
これなら、修道院の方がまだ夜に子猫とお話しできるだけ、マシだったわ。
伯爵家ではずっと外に出してもらえず、子猫一匹見ることもできなかった。
今のわたしは子猫とお話しできるのかしら。それもちょっとした不安の種だ。
「あ……」
ひたすら同じだった景色に、人の姿が混じり始める。
エンヴァーグ公爵家が近づいている。そう思うと、心が少しだけザワついた。
遠くに、教練中の兵士さん達が見えた。
みんな武器を手にして、傍らに大きな犬を従えている。
伝説の『金狼の騎士』を祖とするエンヴァーグ公爵家には、一つの特徴がある。
それは、兵士も騎士もパートナーとなる狼犬を連れていること。
狼の血が混じった犬を従え、共に過ごし、共に戦う。
それができる者こそ、公爵家に仕える資格を持つ者である、らしい。
そういえば、ドギィはちゃんと騎士になれたのかしら。
彼なら、公爵家でも立派にやっていけると思うのだけれど……。
って、あ~ん、ダメ。どうしても彼のことを考えてしまう。止められない。
これから嫁ぐ身でありながら、それを考えるのはいけないこと。
頭ではわかっていても、心がどうしても抑えきれない。
この一年、ずっとこんな感じで、わたしは悶々と日々を過ごし続けてきた。
つくづく自分の心は彼に鷲掴みにされていたのだと確信する。
まぁ、だからって今さら過ぎるんだけどね、そんなこと思い返したって。
本当に、未練よね。情けないったらないわ。
自分から捨てたのに。自分からお別れを告げたのに。……あー、泣きそう。
「お嬢様、屋敷が見えて参りましたよ」
御者をしている執事さんが、わたしにそう教えてくれた。
窓から外を眺めると、確かに見えた。
とても大きくて立派なお屋敷。ウィンティルト家のそれよりもずっと、ずっと。
あそこに、わたしの夫になる方がいらっしゃる。
エンヴァーグ公爵家の御当主様、アルヴェルト・フォン・エンヴァーグ公爵。
長らく続く公爵家で唯一、初代当主と同じ名が許された、若き俊英。
つい先年、家を継いだばかりなのにすでに大きな騎士団を任されている、とか。
文武両道を地で行くような人で、国の内外に多くのファンがいるらしい。
そんな御方の妻が務まるのかしら、わたしなんかに。
もう、不安しかない。っていうか、俊英と聞いてもわたしはピンと来ない。
だって、世界で一番の男性をわたしはとっくに知ってるから。
彼以上の男の人なんて、いるワケが――、って、だから考えちゃダメだってば!
「はぁ……」
ため息が漏れる。
やっぱり無理だよ、婚姻なんて。今のままじゃアルヴェルト様にも失礼だ。
そもそも、この婚姻自体がすでに無礼千万なのよね。
だって元々、アルヴェルト様のお相手は亡くなられたお嬢様なんだから。
わたしは所詮代役。
父にとって、わたしはいなくなったお嬢様の身代わりでしかなかったわけだ。
という事情を聞かされて、わたしはますます父が嫌いになった。
この婚姻、断っちゃおうかな。
アリヴェルト様だって、妻の代役なんて欲しくないと思うんだよね……。
わたしがこの婚姻を断れば、父の面子も丸潰れよね。
それもいいなぁ。そうしようかなぁ。
もちろんわたしも無事じゃ済まないだろうけど、そんなの今さらよ。今さら。
「こちらでございます」
屋敷に着いて年配の侍女に案内されて、アルヴェルト様のお部屋に向かう。
この侍女さんは、何だか雰囲気がシスター・クレーネに似てるなぁ。
元気にしてるかな、シスター・クレーネ。
いや~、あの人はあと百年でも生きそうだし、元気にしてないはずがないかぁ。
侍女のあとをついていきながら、わたしはそんなことを考える。
途中、通路の端にある小さな影が目に入った。
「あれ、子猫……」
「お気づきになられました? 実は屋敷で最近、猫を何匹か飼いはじめまして」
「え、そうなんですか」
驚いた。
ここは『金狼の騎士』を祖とする騎士の家柄。
犬はいても、猫なんて縁がないと思ってた。なのに、飼ってるんだ。何匹も。
「御当主様たってのご希望で、どうしても飼いたいとおっしゃられたんです」
「アルヴェルト様が……」
侍女さんの話を聞きながら、わたしの目は見つけた子猫の方に注がれていた。
口元に黒い模様がちょこんとある、三毛の子猫。
「にゃあん」
その子はわたしに一声鳴いた。
何と言ったか、わたしにはわかった。あの子は『ここにいるよ』と言った。
……ここに、いるよ?
「シャルロッテ様、こちらが御当主様のお部屋となります」
「えっ、あ、は、はい!」
その言葉の意味を探る前に、アルヴェルト様の部屋の前に到着してしまった。
着いちゃった。もう、後戻りできない。緊張で心臓が高く鳴り始める。
侍女さんが、ドアをノックする。
すると向こうからすぐに応答があって、侍女さんがドアを開けようとする。
開いた瞬間が勝負。
手の汗がすごいけど、もう決心は固めた。やっぱりわたしは妻にはなれない。
「御当主様、シャルロッテ様にございます」
と、ドアを開けた侍女さんが、そう言った。今が、勝負。
「ごめんなさい、わたし、あなたと結婚できません!」
わたしはいっぱいに頭を下げて、謝った。
そばに立つ侍女さんが驚く気配が伝わってくる。巻き込んでごめんなさい。
「本当にごめんなさい、アルヴェルト様! わたし、好きな人がいるんです!」
言ってしまった。言ってしまった。
これでわたしは最悪の花嫁。ウィンティルト伯爵家の面子も丸つぶれ。
ざまぁ見なさい、お父様。
言いつけを守れない悪い子でごめんね、お母さん。
だけど、このときわたしに押し寄せたのは、激しい後悔だった。
やっぱり、言っておけばよかったなぁ、ちゃんと『好きです』って……。
こんな無礼を働いて、わたしはきっと生きていられない。
だからせめて一言、この胸から消えてくれない想いを、あの人に――、
「おいおい、待ってくれ。俺より好きな人ができたのか!?」
…………え?
「嘘だろ、マジか。……ええ、本当に? ええええええええええ?」
…………え、あれ? この声、ぁ、あれ?
「え、そんな……」
とても信じられない思いで、わたしは下げていた頭をゆっくり上げた。
そこには、とても立派な衣装に身を包んだ、見慣れた灰色の髪の彼がいた。
「……子犬さん?」
「やぁ、子猫さん」
きょとんとするわたしに、彼は苦み走った表情をして軽く手を挙げた。
「とりあえずまず確認したいんだが、俺より好きな男っていうのは、誰なん……」
わたしは、たまらず駆け出した。
そして一心不乱に、ドギィの胸の中へと飛び込んでいった。
「ドギィ、ドギィ、ドギィ……。会いたかったよ、ドギィッ!」
何で? とか、どうして? とか、そんなことどうでもよかった。
ただ彼に会えたのが嬉しくて、彼が目の前にいるのが信じられなくて……。
「あ~……、そっか。そうだよな」
震えるわたしの背中を、彼の大きな手が包むようにして触れてくる。
「ずっと隠してたのは、俺の方だったな。ごめんなキティ。俺も、会いたかった」
「わたしも、わたしもずっと会いたかった。あなたに、ドギィに……!」
もうイヤだ、離れたくない。ドギィとずっと一緒にいたい。
わたしの心はその一念に支配されて、強く強く、彼のことを抱きしめ続けた。
「あの、これは一体……。あら?」
侍女さんの戸惑う声が聞こえて、それから小さな足音が幾つか。
気がつけば、抱き合うわたし達の周りに、子猫と子犬が集まってきていた。
「にゃあ」
「わぅんっ」
途端に始まる、子猫と子犬の大合唱。
もちろん、侍女さんには何が起きているのかわからないだろう。
でも、わたしにはわかる、彼にもわかるはずだ。
だって二人は、ひみつの魔法が使えるから。子犬と子猫とお話しができるから。
この大合唱は、祝福の言葉。
再び出会えたわたし達を、子犬と子猫が一緒にお祝いしてくれてる。
「ドギィ――、アルヴェルト様。わたし、あなたが好き。世界で一番、大好き!」
「キティ――、シャルロッテ。俺だってそうだよ。好きだ。愛してる。誰よりも」
灰色だった世界に、鮮やかに色が戻る。あたたかな幸福が心を満たす。
もうお互いに何も隠さず、全てを明らかにして、わたしと彼は唇を重ねた。
――もう絶対、離さない。