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午睡の日々  作者: 永山真魚
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    ◇


 ……残酷な夢を見ていた気がした。

 悠子は死んでもうこの世にはいないのに、昔日の思い出の中に迷い込んだような錯覚の中にいた。


 その夢も、覚めてしまえば空虚でしかなくて、彼女が今でも生きているという事実はない。


 頬が濡れていると思って指先で辿ると、目元まで辿り着いた。涙を流していたようだ。

 眠っていながら悠子を想っていた。

 悠子の夢を見て彼女の幻影をただ追っていた。


「柊くん、泣いているの?」


 側にいた遥子が心配そうに声を掛けてくる。

 今日も雨が降っていて、窓から外を覗くと雨雲が空一面を被っていた。絶え間ない雨音が聞こえてくる。


 遥子の私室の同じベッドで、すぐ側でお互いの肌の温もりを感じながら、そうやって時々眠る習慣がぼくたちにはあった。

 そういう習慣も、悠子がいなくなってからできたものだ。


 傷の舐め合いだと自覚しているけれど、遥子が側にいてくれるだけでほんの少しだけ救われる気になった。


「なんでもないよ」


 袖で目元を拭う。

 遥子は気づかないふりをしてくれて、また瞼を閉じた。


 ……あの日を最後に、ぼくが悠子の姿を見ることはなかった。

 悠子は翌日、外出時に交通事故に巻き込まれて死んだ。

 事故とは言え、その事故を起こしたドライバーである高齢者の過失が大きかったせいで、裁判で執行猶予は得られず実刑判決を受けたそうだ。


 昨今、高齢者の運転する乗用車が事故を起こすというのはよく報道されるようになった。悠子の事故もその流れにあるものとして受け止められて、今はもう多くの交通事故の一つとしてしか見られていない。

 当時こそ高名な検事の娘が巻き込まれた事故として大きく報道されたけれど、世間の関心は移ろいやすくて、今となっては悠子の死が再び報道されることはなくなっていた。


 悠子はどうして死ななければならなかったのか――。

 彼女が死んだばかりの頃こそ、ぼくにだって事故を起こしたその加害者への憎しみは確かにあった。老い先短いあなたが起こした事故のせいで、未来があった悠子が亡くなった――。その理不尽さに憤っていた。


 でも、ぼくは彼女の肉親ですらなくて、例え酷い事故を起こした相手とは言え、そんなぼくが人を憎んでもいいのか次第にわからなくなってしまった。

 この気持ちの行き場所を失って、憎しみとも怒りだとも言い切れなくなった感情の灯火をずっと抱いていた。今となっては、それは胸に大きな穴が開いてじわじわと侵食していくような空虚な喪失感でしかなかった。


 遥子も悠子の死を悲しんでいた。

 彼女は決して泣かなかったけれど、深い諦念の中にいるようで、悠子が生きていた頃に時折見せていた微笑みを見せることもなくなっていた。

 ……それが、遥子から悠子への手向けと言わんばかりで、酷く痛ましかった。


「ねえ、柊くん」


 遥子がこちらを見ずに、穏やかに声を掛ける。


「あの子は、あなたのことが好きだったのよ」

「……知っているよ」

「でしょうね。あの子、隠し事が苦手だったから」


 遥子は遠くを見るような表情で続ける。


「今になって思うの。悠子が私たちの高校に入学してから、私に接触するために柊くんを頼ったというのは、本当は柊くんに関わりたかったからではないのかって。出しに使われたのよ、私」

「……それは、違うんじゃないかな?」


 悠子は遥子と仲良くなりたいと言っていた。

 その言葉に偽りはなかったと思おう。

 そう告げると、遥子は静かに頷いた。


「そうね。それも本当なのでしょう。あの子は欲張りだから、きっと私も柊くんも、どっちも手に入れようとしたのよ」


 悠子がいてくれたお陰で、ぼくと遥子も以前のように仲良くなれた。

 彼女の存在がなければ、ぼくたちの関係も消えていたかもしれない。

 一人になろうとしていた関係性から、二人に戻るだけでなくて、もう一人加えて、そうしてぼくたちはあの日々を過ごしていた。


 けれど一人が消えて、残ったのは一つの関係性だけ。

 遥子と悠子、遥子とぼく、悠子とぼく。

 単純な論理の話で、一人が消えれば二つの関係性が消えて、残るのは一つだけでしかない。


 遥子とぼくの関係性だけが、消えてしまった彼女との関係性を埋めるように強まった。

 けれど、最後に残った欠片だけを嵌めることのできないジグソーパズルの欠落を、残された欠片だけでどうにかして埋めようとするその作用は歪でしかなかった。


「ねえ、柊くん」


 遥子の声音が変わった。


「今から言うことを、怒らないで聞いてほしいの」

「うん、なに?」


 遥子の言葉を少し待つ。


「私はあなたのことが嫌いじゃない。きっと、そういう関係になれば上手くやっていけると思う」


 それは、ぼくも以前考えたことがある。

 ぼくと遥子が趣味も近いし、性格だって相性は悪くないだろう。ぼくだけでなく、遥子にとっても理解者であり得るだろう。


 例えばぼくたちが婚姻関係に至ったとしても、上手くやっていけるというのは本音だと思っている。そういう未来は容易に想像できる。

 遥子は一瞬、表情に陰りを見せて続けた。


「けれど、悠子があなたを愛したようには、私はあなたを愛せない。あなたとそういう関係になるのは、近親愛のような違和感がある。――私では悠子の代わりにはなれないわ」


 近いからこそ、ぼくたちは恋人関係になろうとしなかった。

 ぼくたちはあくまで仲のいい、幼い頃からの友人。そういうことでお互いに納得していた。


 悠子は唯一だった。ぼくにとっても、遥子にとっても。

 遥子は更に続ける。


「それでも、もしあなたが望んでくれるというのなら、私は努力するつもりでいるの。あなたのことを愛せるように、あなたに愛されるように――」

「――っ」


 それは本来なら、魅力的な提案なのだろう。

 遥子は美しい少女だ。

 大人びているがどことなく幼さの残こした相半ばする雰囲気と、早熟な精神を併せ持っている。遥子のその言葉には、彼女は本気でいるという実感があった。


 ぼくたちは、性格も趣味も合う。

 それに、その気高く美しい彼女に求められるなんて、名誉なことであることに疑いはないだろう。


 ……けれど、ぼくの気持ちは決まっていた。

 きっと彼女だって知っている。


「……ぼくたちが幼馴染でなかったら、もしくは一度きみのことを全部忘れられたら、きみのことを好きになれたと思う」


 遥子は黙って聞いている。

 ぼくは酷く悲しくなった気がして、首を振る。


「そんなの無意味な仮定だね。ぼくには遥子ちゃんのことを忘れることはできない」


 ぼくたちが出会わなかった過去なんて有り得ない。

 あの頃、ぼくはきみに救われていた。

 病弱で他の子供たちと外で遊ぶことも少なかったぼくにとって、気高く孤高であったきみの存在のことが羨ましかった。きみと仲良くなりたいと最初に思ったのはぼくの方だった。


 悠子は遥子のことを「憧れ」と言っていた。 

 その気持ちは、ぼくの胸にも確かにあった。今もきっと、どこかに。


「遥子がそう言ってくれるのは嬉しいよ。きみにそんなこと言わせるなんて、男として名誉なことだと思っている」

「それなら――」

「でも、それは友情でもあるし愛情でもあるだろうけれど、恋ではないんだ。ぼくが本当に欲しい感情ではないよ」


 恋情は、関係が深まればいつか愛情に収束されるものだろうけれど、ぼくはその理屈を理解していながら悠子のことが恋しかった。

 遥子に言ったその台詞を口にする瞬間、蝋燭に灯った小さな明かりをふっと息を吹いて消すような――そんな光景を幻想していた。


「……ごめん、そんな理屈なんて無駄だね。ぼくは悠子のことが今も女の子として好きだから、きみを代わりとしては受け入れられない。ただそれだけなんだよ」


 遥子は再び瞼を瞑って、「……そう」とだけ呟いた。


「あなたがそう言うなら、私もそれでもいいわ。きっと、それが正解なのでしょう」


 それっきり遥子は黙ってしまって、浅い眠りに就いたようだった。

 静かな寝息立てる彼女の側で、ぼくも瞼を瞑る。

 知らずに、悠子のことを想っていた。

 どうしても彼女のことが忘れられない。

 きっと、この先もずっとこの喪失感を抱いて過ごすことになる。


 ……世の中の悲劇というのは、小説なんかの物語とそう変わりはない。

 そして報道やSNSでその情報を受け取る側は、物語における読者だと言ってもいいだろう。

 第三者たる読者は、物語を消費する。その消費には悲喜交交が伴っても、どうしたって彼らはそういった感情を娯楽としてしか見られない。読者は人の死からすらも自らが生きている事実を見出してしまうからだ。


 悲劇の住人たちは、決してその物語における読者では有り得ない。ぼくたちは読者たちに共感なんて求めていない。

 ただ、巨大ななにかに押し付けられた苦痛に耐え忍ぶだけだ。

 救いのない暗闇の中で、じっと磨り潰されていくような時間を過ごしながら――。


「……せめて、ずっと眠っていたい」


 現実から解き放れて、ただ夢を見ていたい。

 夢の中で訪れる彼女の面影を追っていたい。

 それだけが、ぼくの願いだった。


 ――一度瞼をそっと開いて側で眠る遥子の姿を確認して、ぼくもまた眠りに就いた。


 ……眠りに入るそのときには確かに感じていた、遥子の温もりがどこかへ遠退いていくのを感じながら。


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