過去5
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「……一人では来られなかっただろうから、いい機会だったかもしれないね」
この甘ったるい空間に男一人で来るのはさすがに無謀だろう。
円形の大きなテーブルを間に、ぼくから見て120°向かい側に座る悠子がしみじみ答える。
「ですよね。さすがにこういう店に一人で来るのには勇気が要ります」
ぼくはその台詞が気になって、
「女の子でもそういうものなの?」
「いや、いくらケーキでもバイキングに一人は無理ですよ」
苦笑する悠子からさらに右に120°視線をずらすと、遥子が黙々とフォークでミルフィーユを口に運んでいた。
現在、ぼくたちは駅前のケーキ屋さんに来ていた。持ち帰りより、バイキング形式で地元の女の子たちに人気の店だった。
何気なく通り過ぎていたことが多かったけれど、まさか今日になってこの店に来ることになるとは思わなかった。
「常々挑戦したいと思っていたんですが、中々機会がなくて」
気恥ずかしそうに悠子は言う。
「友達は誘わなかったの?」
「誘っても、『値段分食べられる自信がない』って断られちゃいました。私が友達と一緒にこの店に来るときは、いつもはアラカルトなんです。女の子的にはそれで充分なんですけどね、カロリー的に。でも、普段美味しいと思っているからこそ、値段もカロリーも気にせずに存分に味わってみたいっていう願望がずっとありまして」
ここのケーキバイキングって値段も相応だし、高校生のお小遣いでは躊躇してしまう。
正直、ぼくが悠子に誘われて悩まされたのもそこだった。
今月のお小遣い、月末まで保つかなあ。
と不安だったのだけど、
「あ、先輩、誤解しないでくださいね? 別に奢ってくれなんて言いませんから。付き合ってくれるだけでいいですから」
ぼくが風邪を引いた日にトマトリゾットを作ってくれた悠子に、なにかお礼がしたいと思ったのだけど、そう言うと悠子はケーキバイキングに連れて行ってくれと言った。高くついたなあ、と思っていたら自腹だと言うのでほっとした。
ぼくたちは皆、アルバイトもしてないから月々のお小遣いだけでやり繰りしないといけないのだ。
学校がアルバイトを禁止しているというのが理由だけど、隠れてやっている生徒もいて、彼らの場合はこの辺りではなく電車で数駅離れたところで働いていることが多いみたいだった。
特にアルバイトをする必要も感じていなかったけれど、こういう時、好きな女の子に食べたいものを奢ってあげられるだけの経済力があるというのは羨ましいものだった。
連休中の一日、駅まで待ち合わせてしばらくウィンドウショッピングを楽しんでからその店を訪れ、店員さんにテーブル席まで案内されると、店内の端に並べられたケーキの数々に悠子は目を輝かせていた。
「ショートケーキ、チーズケーキ、モンブラン、ミルフィーユ、ガトーショコラ、桃のタルト……ッ! ああ、目移りしちゃいます! どうしたらいいんでしょう!」
見ているだけもでもう充分に幸せそうだった。
そんな悠子と違って関心が薄そうに遥子は言う。
「全部持って来ればいいんじゃないかしら? 食べ切れなくても残りは柊くんが食べてくれるでしょうし」
「……ぼくにだって限度があるんだけどね」
苦笑するぼくを尻目に、悠子は遥子の言葉を真面目に考えていた。
「そうですよね。今日はせっかく男の子を連れてきたんですから」
「……お手柔らかにね?」
というやり取りがあって、ぼくたちはしばらく多種多様な甘いケーキに舌鼓を打った。
甘いものが特に好きというわけでもなかったけれど、もちろん嫌いというわけでもなくて、悠子が勧めるだけあってかなり美味しかった。
これなら、時々は見せに来て持ち帰りでケーキを買っていくのもありかもしれない。早速、リピーターになってしまいそうだった。
「今日のために貯金を下ろして来ましたからね。値段分は食べますよ!」
テーブルに並べられたケーキの数々。さっき悠子が羅列したものが全部並べられていた。
「カロリーが大変そうね」
溜息混じりの遥子の言葉に、悠子は刃物で刺されたように「うぐっ、」と呻いた。
「冗談よ。でも、むしろあなたは少しくらい体重を増やした方がいいんじゃないかしら?」
「姉さんもそうですね」
舐めるように頭から下に遥子の身体を見つめる悠子。
二人共すらっとしている体格で、肉感的とは言い難いけれど痩せ過ぎているということもなく、それは健康的な美しさの範疇だった。姉妹だけあって遺伝なのかもしれない。
「ところで悠子、あなたはいつも昼食時に紙パックの牛乳ばかり飲んでいるけど、牛乳で胸が大きくなるなんて俗説よ?」
「わーっ! わーっ! なに言っているんですか姉さん! ていうか気づいていたんですか!? せ、先輩だっているのに変なこと言わないでください!」
声が大きいです、と抗議する悠子を余所にケーキを味わう遥子だった。
……まあ、聞かなかったことにしよう。
女の子も胸の大きさとか気になるものなのだろう。
大きくなったらなったで異性の視線が気になってくるものだろうけど。
「ところで、私ずっと気になっていたことがあったんだけど」
そう言って紅茶のカップを口に運ぶ遥子を、不思議そうに見つめる悠子。
ぼくも「なんだろう?」と思っていると、
「私まで来る必要あったかしら? 柊くんが悠子に付き合ったのは、この前のお礼という意味合いがあってのことでしょ? この店に来たかったなら二人だけで来ればよかったじゃない」
なるほど。
確かに、遥子からすればそれは疑問かもしれない。
でも――。
いやいやいや、と唸りながら悠子は首を横に振った。
「姉さんが来ないとデートみたいになっちゃうじゃないですか」
そう、年頃の男女が食事をともにする(それもデザートであるケーキを)というのは、もはやデートとしか言えようがないだろう。
遥子は何事もないように言い退けた。
「いいじゃない、デートでも。なにか気にすることでもあるの?」
「ええっ! いや、でも、うう……」
顔を真っ赤にしながら、こちらをちらちらと窺う悠子。
デートとなると、ぼくとしても嬉しいような、気まずいような。
ちょっと想像してみると……まあ、遥子がいてくれて良かったかもしれない。たぶん緊張してなにも話せなくなるから。
そういうことを想像しながらも、ぼくは強がってみる。
「ぼくはデートでも良かったけどね。まあ、悠子に嫌がられたならどうしようもないけど」
「ええっ!!」
大声を上げて驚愕する悠子に、周囲のお客さんたちが注目する。
しばし周囲を見渡して注目されていることを自覚し、しゅんと大人しく席に縮こまった。
「べ、別にわたしだって嫌というわけじゃないですけど……だって……」
なにかとぶつぶつ呟いている悠子に、さらに遥子が言う。
「でしょう? それにデートなんて大したことでもないでしょ? 私だってしてるもの」
……うん?
なにかおかしな話を聞いたような気がした。
「え、姉さんにはそんな相手がいたんですか?」
「男女が連れ立って出掛けることをデートと呼ぶのなら、私だって柊くんとデートしていると言えなくもないわ」
なんとなく彼女がなにを言い出すのか予想はできていたのだけど、そういう言い方をするか。
「ひ、柊先輩とそんな関係だったんですか?」
「なにを想像しているのか知らないけど、たぶん違うと思うわ。でもこの前、古本市に一緒に行ったわよね、柊くん?」
遥子の言う通りだった。
ぼくたちは隣駅で開催されていた古本市に行って、掘り出し物がないか古書を漁っていた。
月々のお小遣いにも上限があるし、安価に手に入る古本の存在は有り難かった。時々、ぼくたちは連れ立って古本屋巡りなんかをしている。遥子からしても絶版本など、新書で手に入らない本を物色するする機会となっているみたいで、一緒に出掛けるときはどこか楽しそうな雰囲気を醸し出している。
「ね、姉さんが、先輩と、デート……」
なにがそんなにショックだったのか、悠子はぷるぷるとその身を震わせていた。
遥子が一口ケーキを食べて、続ける。
「まあ、本当のことを言わせてもらうと、デートと呼ぶのはレトリックが効き過ぎよね。別に私たちにそうだという認識はないから」
「姉さんがデートでないと言ったって、それは見解の相違なんじゃ……」
「見解は一致しているけれどね。少なくとも、柊くんと私の間では」
弱々しく悠子は言うけれど、ぼくたちは仲のいい友人だという認識でいる。
遥子もぼくも、お互いにそれ以上の関係を求めていないのは自覚し合っているところだった。
そうは言っても、悠子からして見ればどう見えるのかはわからないけど。
悠子はじっとぼくを睨んで、
「先輩のスケコマシ……」
……なんか、物凄い罵倒をされた気がした。
でも一転してにこっと笑って、
「今度はわたしも連れて行ってくださいね? 古本市なんて行ったことないんで興味があります」
「……楽しいかわからないけど、悠子の都合が良ければぜひ」
悠子も昔は本をよく読んだという。
「お父さんがよく買ってきてくれたんです。と言っても、幼い頃の話ですから児童文学ばかりですけどね」
「今は買ってくれないの?」
と聞くと少し考え込んでいるようで、
「お父さんって、教育的な理由で本を買ってくれたんだと思うんですけど、児童文学以外で子供の教育に適した本って、あまりないですよね?」
「……それもそうだね」
文学は毒だから。
どこの国にも文学作品が検閲されていた時代があったけれど、それは文学の方にも道徳的な隙があったというのも大きな要因だろう。
でも、道徳に忠実に従った文学作品なんて、児童文学であってもぼくは読みたいとは思わない。
「では、悠子には今度、『チャタレイ夫人の恋人』を貸してあげましょう」
と、遥子が言う。なぜ、わざわざその本を……。
「え、なんですか、それ?」
悠子は知らなかったみたいで、「面白いんですか?」とぼくの方を振り向いて聞いてきた。
「きみのお父さんは絶対に知っていると思うよ」とだけ答えておいた。
遥子が不敵な笑みを浮かべて、
「お父さんの顔が目に浮かぶようだわ」
なんて宣っていた。
家族で遊ぶなよ……。
遥子ちゃんの性格は本当に悪いなと、改めて思わされたのだった。
連れて来られたときはそれほど気乗りしなかったのは否めないけれど、流行りの店のケーキバイキングでの食事は当初思っていたよりずっと楽しめた。
ぼくたちを連れてきた悠子だけでなく、遥子もぼくもなんだかんだ何度も行き来してケーキを食べた。
遥子は食が細いタイプなのは昔からで、それほど食べていないようにも見えたけれど、変化の乏しい表情もほんの少し柔らかに見えた。
歓談を続けながらケーキを楽しんでいると、食べかけのケーキを残したまま遥子が立ち上がった。
「ちょっと失礼するわ」
どうしたのだろうと思って、
「どこに行くの?」
と聞くと、遥子だけでなく悠子にも呆れられた。
二人の態度を訝しんでいると、遥子が溜息をついて言った。
「お花を摘みに行くのよ」
それだけ言われて、失礼なことをしでかしたと自覚した。
「……ごめん。遥子ちゃんも行くものなんだね」
そんなの当たり前のことなのに、なぜか失念していた。
「柊くんは私のことをなんだと思っているのかしら? 昔のアイドルではないのだから当然でしょ?」
「先輩は紳士ではないんですね?」
悠子にまで笑われてしまっては、立つ瀬がない。
遥子が姿を消して、ぼくたちは二人きりになった。
なにか会話を持とうと考えるけれど、遥子がいたときと比べるとなぜか落ち着かないというか、考えがまとまらない。
前に遥子にこっ酷く袖にされた友人がぼくにいたことは述べたと思うけど、そいつはそれでも懲りず、今は他の女子生徒たちにちょっかいを出している。
そいつが女の子との会話術についてのハウツー本を買ったとか言っていて、その話を聞いたときは大層馬鹿にしたものだけど、今になってみるとぼくも貸して貰えばよかったかもしれないと後悔してしまった。
そんな小手先が通じるかどうかは、どうも経験の乏しいぼくには釈然としないけど。
そんなことを考えながらケーキを口に運んでいると、常々気になっていたことをふと思い出した。
「悠子はさ、家族に遥子のことをどう説明しているの?」
「姉さんのことですか?」
「うん」
腹違いの姉妹というのは、やはり複雑な家庭環境ではないかと。
遥子と関わることを反対されていないのかとも想像したのだけど。
「そのことなら、大丈夫ですよ。ちゃんと家族にも伝えてあります。心配には及びません」
「本当に?」
「今日だって姉さんと遊びに行くといったら、お父さんは普通に許してくれましたよ?」
「そうか。それは良かったね」
ぼく自身、遥子と悠子が仲を深める一助になっていたから、反対されていないか気がかりになっていたのだ。
「まあ、お母さんは微妙な顔をしていましたけどね……。でも、一応は反対はされていません」
悠子は母親のその様子を思い出したのか、苦笑していた。
一瞬、姉妹の複雑な関係性が覗いた気がした。
悠子の母親からすれば心境は複雑ではあるだろうな。
自分の娘が夫のもう一人の娘と仲を深めるのは、まだ感情の折り合いがついていないのかもしれない。
「でも、実はお父さんにも不義理をしてしまいまして」
「それはよくないね」
なんだろうと思っていると、
「先輩のことですよ。今日は、男の子が一緒だとは言っていません」
悠子の家は厳しい家庭で、それだけが理由というわけでもないだろうけど、彼女は男の子とも付き合ったことはないという。
例え好きな人がいたとしても、父親には伝えられないとも悠子は言っていた。
「伝えておかなくていいの?」
「いいんですよ。今日は姉さんとケーキバイキングに来た――別に嘘ではないですから」
嘘ではないかもしれないけど、隠し事ではあるだろう。
「そうですね。姉さんが今日いなかったら――今日がいわゆる『デート』だったら、言い訳ができません」
悠子が口にしたデートという言葉に、胸が高鳴る。
遥子がいなくなって、今まさにそういう状況ではあるのだ。
「先輩は――姉さんのこと、好きなんですか?」
一瞬、その言葉の意味を考えさせられた。
悠子が意味しているのは、そういうことなのだけれど。
「……好きだよ。でも、そういう意味じゃない。仲良くしていたいし、これからもそうでありたい。そう思っている」
「あんなに綺麗な人なのに、女の子として好きにならないんですか?」
「遥子はそういう対象ではないよ。幼い頃からの友達だから、今更そういう気持ちになれないんだ」
それにお互いの存在の在り方が近すぎて、肉体的ではなく精神的な意味での兄弟のように思えてしまう。
「試しに姉さんに告白してみてみませんか? どういう反応をするか興味深いです」
「……そんな試すようなことはしないよ。誠実で在りたいという意味では、恋人関係にも負けないよ」
遥子の方も悠子を試してみたらというようなことを言っていた。二人とも、どういうつもりなのか。
「冗談ですよ。言ってみただけです」
悠子はくすくす笑う。
「姉さんの方も、柊先輩のことをそんな風に思っているみたいですね。恋人同士ではなくとも、そういう関係は羨ましいです」
一度切れてしまったような遥子との関係性は、また繋がった今は昔以上に大事にしていたかった。
「悠子にだって友達はいっぱいいるだろう?」
「そうですね。私には友達がいます、親友もいます。でも、姉さんと先輩のような深い信用関係があるわけじゃないです」
悠子は首を微かに振って、続けた。
「私、けっこう猫かぶって生きていますよ? 友達が多いのだって、その結果に過ぎないんです。わたしはそれは、社会で生きていくためには仕方がないことだと思っています。一人でいれば寂しいと思います。嫌われれば辛いと思います。だから、わたしは姉さんみたいに強くないんです」
ぼくだって、遥子ほどは強くない。彼女と違って折り合いを付けて学校生活を送っている。その結果、それなりに上手く学校や教室に溶け込めている。
「人間関係にストレスだって感じることがあります。いっそ人間関係なんてすべて投げ出せたらなんて考えることだってあります」
これまで、悠子の表向きの姿を信じ込んでいたぼくにとって、彼女のその言葉には一抹の失望を感じていた。
彼女は彼女の理想的な自分を演じていた。それは社会で生きる人間としての処世術だった。
ぼくはこれまで、理想で形作られた彼女ばかりを見ていた。
背中を襲われるような衝撃であったことに違いはない。
けれど、ぼくは同時に嬉しくもあった。
そういうことを教えてくれる彼女のことが、もうそれくらいじゃ揺るがないくらい好きになっていたんだ。
「どうして、ぼくにそんなことを教えてくれたの?」
悠子はその問いには答えず、代わりに微笑して、
「姉さんはわたしの憧れなんです。綺麗な容貌だってそうですし、頭もいいし、振る舞いだって私にないものを持っている。なれない自分を見せられているようで妬ましく思うときもありますが、その気持ちの本質は『憧れ』と言ってたいいと思います」
遥子は綺麗だ。なにより、その美しさを際立たせているのは彼女の気高さだった。
「ねえ、先輩? わたしからも一つ聞かせてください。――先輩は、本当に姉さんと付き合いたいと思ったことはないんですか」
確かにぼくたちは仲がいいとは自認するところだけれど、
「遥子ちゃんには失礼だけど、想像してみたことはあるよ」
「どうでした?」
「たぶん、関係は上手くいくと思う。でも、そこには決定的になにかが足りていない。そんな気がした」
それは恋人関係ではない気がした。
ぼくたちが恋人になるには、致命的になにかが欠けているようだった。
悠子はぼくの話を聞いて苦笑していた。
「それは、贅沢な悩みのような気がしますけどね」
「それは認めるよ」
遥子には幸せになって欲しいと思う。
それがぼくの手によるものではなくとも、そうなって欲しい。
もっとも、彼女は自分自身の手で幸福とやらを掴むことになるかもしれない。相手がいてもいなくとも、彼女の幸福について言えば、伝統的な幸福観というものなんて当てにすらならないのだ。
「先輩の気持ちは、なんとなくわかりました。やっぱり羨ましいですね、そういう関係は」
悠子は微笑んで紅茶を一口飲むと、顔を少し顰めた。
「……温いです」
言われてぼくも紅茶を一口飲んでみると、確かに温くなっていた。
食事もせずに話し込んでいたせいか、いつの間にか温くなっていたことに気づかなかったみたいだ。
店員さんに新しいものを貰おうかと思っていると、遥子が帰ってきた。
「申し訳ないのだけど、今日はもう帰るわね」
「え、まだ時間はあるよ?」
二時間の時間制限はまだ三十分以上残っている。
「夕食時だもの。深山さんに早く帰って来いって叱られたわ」
彼女はお腹に手を当て、「……夕食、まだお腹に入るかしら?」と悩ましそうに呟いていた。
「遥子ちゃんの家にも門限とかあったんだね」
「そんなものはないはずだけど、実質的には夕食の時間がそうなのかもしれないわ」
「なんか、帰りが遅いと思っていたら電話していたんだね」
「……お花を摘みに行ったというのに、『遅い』なん言わないで欲しいのだけど?」
不機嫌そうに言われたので素直に謝ることにした。
「あ、ごめんね?」
また余計なことを言ってしまったみたいだ。
「先輩はやっぱり紳士じゃないですね?」
と悠子にまた笑われてしまった。
「じゃあ、今日はこれでお開きにしますか」
悠子が言うと、遥子は少し驚いた様子で、
「あなたたちはまだ残っていてもいいのよ?」
「いや、もうお腹いっぱいだよ」
ぼくがそう答えた。悠子も苦笑がちに頷いていた。
会計を済ませて、店を出る。……財布の中が随分寂しくなってしまった。
すでに空がオレンジ色に燃えていた。
いい店を教えてもらったので、また機会があれば来たいと思った。今度は持ち帰りか、店内で過ごすとしてもアラカルトで。
もっとも、こんなにたらふくケーキを食べた後では、次がいつになることか決められないけれど。
「私はもう帰るけど、柊くんは悠子を送ってあげたら?」
「先輩お願いできますか? と言っても、電車で帰るのでそこの駅までですけどね」
「わかった、いいよ」
遥子と別れて、ぼくたちは駅に向かって歩いた。
悠子はなにも話そうとしなかった。
ぼくも、なにも話すことはなかった。
黙っていても、側にいるだけで幸福だったと思う。
黙々と歩いていると、すぐに駅の改札口まで来てしまった。
「じゃあ、また学校で」
「はい、先輩も元気でいてくださいね?」
すぐにまた会えるというのに、離れ難かった。
「もう当分は風邪も引かないんじゃないかな?」
「そうなっても、またお見舞いに行きますよ?」
また来てもらえるなら、風邪を引くのも悪くないとも思ってしまう。
「ねえ、先輩」
「なに?」
「私、先輩に伝えたいことがあるんです」
「……諸々の苦情なら受け付けないよ?」
「そんなんじゃないですよ、もう」
悠子は照れくさそうに少し笑って、その綺麗な目でぼくを見つめた。
「少しだけ待っていてください。きっと、いつか伝えますから」
いつか――。
悠子はそう言った。
手を小さく振る彼女が改札の向こう側に行ってしまって、今日はもう反すこともできなくなってしまった。
悠子の姿が消えて、名残惜しかったけど、ぼくは帰路に着いた。
いつか――。
悠子の言葉を反芻した。
……そんな「いつか」は、もう来ない。
そのときはそんなことも知らないでいた。
――次の学校の登校日、悠子は姿を現さなかった。
交通事故に巻き込まれて死んだということを、後に人づてに知ることになった。