過去4
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この頃になると遥子と悠子は以前と違って実の姉妹であることに疑いを挟む余地はなくて、それまでの微妙な距離感のあった関係性を彷彿させることもなくなっていた。
当初こそ悠子が遥子に関わろうとする様子を見た周囲は戸惑いがちに止めたこともあったそうだけれど、今に至っては二人の仲の良さを不思議に思いつつも羨望の目で見ていた。
遥子の方もまた、悠子との関係の発展があったお陰で時折見せるようになった微笑みが周囲を驚かせていた(もっとも、ぼくや悠子以外に対する態度はまったく変わっていないけれど)。
悠子の家が離れていることもあって、二人の交流はほとんど学校に限られていた。けれど、昼食を一緒に取ったり、機会を見つけてはお互いに交流を持とうと努めていた。
「これも先輩のお陰です。ありがとうございます。いやあ、どうなるかと思いましたけど、結果的に上手く行って実に良かったです」
いえいえ。こちらとしても、手伝えて良かったです。
「これからもよろしくお願いしますね、先輩?」
二人が親しくなっていく中、なぜかぼくまで二人と一緒にいることが多かった。学校での昼食にはいつもぼくまで誘われた。
邪魔じゃないかな、と懸念することもあったけれど、二人は気にしているようでもなかったし、なにより僕自身にとってそういう状況は都合が良かった。
その頃、ぼくは悠子への恋心を自覚し始めていたのだ。
単純に接触する機会が多いと親しくなるというだけではなくて、その胸中には確かな感情が芽生えていた。
悠子と一緒にいると胸が変に高揚する。
他の女の子を相手にしているときとは、なにかが違う。
ぼくや遥子と違った、善性の象徴のような彼女に自分にはないなにかを見出して、それを羨ましく思っていただけでなく、好意の対象としていた。
誰にも分け隔てなく接し、誰を傷つけることもなく、優しい彼女のことを好ましく思うようになっていた。
「――きみが好きだ」
と、よほど好意を告げたかった。
でも、遥子を介在しているとは言え、この関係性に水を指したくなくて、その気持ちがずっと悠子への感情の発露を抑え込んでいた。
振られるのも辛いだろうし、振る方だって気まずいものだ。
余計なことをして関係をおかしくすることを恐れていた。
恋というのものが、ぼくの場合一進一退する機会もなく、ただ滞っているような状態のまま、ぼくたちが三人でいる関係を続けていった。
ぼくは悠子と毎日学校で会えるのを楽しみにしていた。悠子に会えるなら退屈な授業だって、好きな音楽を聞いているような気分で過ごせる(ついでに聞こえるかもしれないけど、遥子と交友を持てるのも良かった。以前より心持ち雰囲気が柔らかくなった彼女のことも、悠子へのものと違った意味で好意を抱いていた)。
だって言うのに、その日に限ってはそう言えなかった。
朝起きたとき、身体が大変怠かった。
体温計で熱を計ってみれば、38℃近くあった。
それでも学校に行こうとしたけれど、朝食として用意されたトーストの無味乾燥な食感を味わってから、さすがに今日は休もうと決心した。
最近はそうでもなかったけれど、ぼくは幼い頃から健康に優れている方ではなかった。怪我をして放っておくと、傷口から黴菌が入ったのか翌日には熱が出ていることも少なくなかった。
ちょっと走っただけで息切れがするということも多くて、当時から運動には苦手意識があって、今でも体育の授業には苦痛を感じている。体育が好きな生徒なんて、ぼくから見ればもはや生まれた星が違うような感覚でいた。
「……会いたいな」
今生の別れというわけでもあるまい。なのに、もう会えないかのような錯覚を抱いてしまった。明日学校に行けば、悠子はもうぼくのことなんて忘れてしまっているかもしれない。そんなことないのに、熱に浮かされているぼくはとことん悲観的に考えてしまっていた。
「会いたい」
――そういう気持ちが、なぜかあっさり叶ってしまった。
自宅の呼び鈴が鳴って、少しだけ不機嫌になってしまった。
新聞も宗教も求めていないので、勧誘に来ないで欲しかった。
しかし宗教はともかく、新聞は仕事だろうし、一概に拒絶するのも悪い気がした。
いや、ここは頑として居留守を使おうと思ってしばらく無視していると、突然スマートフォンが鳴った。
こんなときに誰だろうと思って出てみると、
「先輩、出てくださいよ。居留守なのはわかっているんですからね?」
「――え?」
それは確かに悠子の声だった
でも、彼女はなにを言っているのだろう?
その声は、スマートフォンの音源からだけでなく、同時に玄関の扉の向こうからも聞こえてきた。
「ゆ、悠子?」
うっかりファーストネームで呼んでしまった。
「はい、悠子ですよ。もう、こんなかわいい後輩を待たせるなんて、酷い先輩ですね」
自分で言うな、と内心思っていた。
かわいい後輩――いや、確かにかわいいんだけど。
「なんで、来たの?」
「お見舞いですよ。先輩、ご両親は共働きだって言っていたじゃないですか。風邪引いたなら一人で寂しいだろうと思って、来てあげたんですよ」
……なぜ?
いまいち状況が飲み込めていないのだけど、そんなぼくに悠子は続ける。
「もしかして、ご迷惑でしたか? ――姉さん、今日は帰りましょうか?」
なんだか体温が沸点に達しそうなくらい混乱していたけれど、頑張って脳味噌を働かせて言葉を探す。
「い、いや、迷惑ってことはないから。今、扉を開けるから待っていて」
慌てて玄関まで歩いて、鍵を外して扉を開ける。
そこには制服姿の悠子と遥子が立っていた。
「――あ、」
外の明るさが眩しくて、しばし目が眩んだ。
「先輩、ご加減はどうですか。色々買ってきましたから、これ使ってください」
手渡されたコンビニのビニール袋は重く感じた。
ぼうっとしていると、遥子が言う。
「悠子、帰りましょう。柊くんも横になっていたいだろうし」
「いや、あのさ――」
ぼくが口籠っている様子に、遥子は不思議そうに首を傾げた。
「良かったら、上がっていかない?」
少しだけ目を見開いて、落ち着いた様子で遥子が言う。
「そうね、手伝えることがなにかあれば手伝うわ。悠子が」
「え、わたしですか?」
きょとんとする悠子だったけれど、
「あ、でも、柊先輩がどんなところに住んでいるのか気になりますね。このマンションに住んでいるのは知っていましたけど、姉さんに連れてきてもらうまで部屋番号までは知らなかったんです。あ、もちろん、お手伝いできることがあればしますとも」
「うん、遠慮せずに上がって欲しい」
二人は靴を揃えてぼくの自宅の上り框を踏んだ。
リビングのソファに二人を座らせて、ぼくは悠子から受け取ったビニール袋の中を覗いた。スポーツドリンクに果汁ゼリーなど、風邪のときに欲しい食品類が入っていた。
「姉さんはここに来たことがあるんですよね?」
「ええ、前に本を借りに来たことがあるわ」
「ちょうど、うちの両親が揃っていたときだったね。小学校からの同級生だって言うと驚いていた」
主に、遥子が昔よりずっと綺麗になっていたことに驚いていたみたいだ。ぼくとよく一緒にいた女の子のことは微かに覚えていたらしい。
「ということは、姉さんは柊先輩のご両親に挨拶を済ませたと?」
「……変な言い方だね」
悠子は難しそうに唸っていた。
「ううう、そっか……そうなのかあ。いや、でも、わたしだって……」
悠子の様子が時々変なのは、出会ってからよくあることだ。
「ところで、先輩の部屋ってどこですか?」
「廊下の突き当りだよ」
「見てきていいですか? ――あ、でもエッチな本とかあったら気まずいですよね……」
「……ないから、そんなの」
なんだか不名誉なイメージを抱かれてしまっているみたいだった。
頬を赤らめる悠子を見て、部屋を実際に確認してもらって誤解を解きたい思いに駆られた。
仕方ないので悠子に部屋を見せると、
「男の子の部屋って感じですね。本棚に並んだ文庫本が知的な感じがしていいですね。――なにか柑橘系のいい匂いがしませんか?」
という感想をもらった。
匂いに関しては消臭剤の香りだろう。
なんとなく、好きな子に自分の部屋を見せるのが気恥ずかしかった。
どんな感想を抱かれるのかと。でも、悪い印象はなかったみたいで安心した。
リビングに戻った悠子は、遥子の前に出てビシッと敬礼した。
「姉さん、先輩の部屋にエッチな本はありませんでした!」
「もっとよく調べてみたら?」
遥子が関心なさそうに言った。
「……だから、そんなのないってば」
「そうね。今はスマートフォンかパソコンに保存してあるものよね」
「ええっ! 先輩そうなんですかっ!?」
……もうなに言っても無駄みたいだった。
「画像フォルダとブックマークの確認をしないと……」
「悠子、何事も慈悲というのは大切よ?」
「そ、そうですよね……」
戸惑いがちに悠子は頷いた。
……もう好きに言ってください。そんな心境だった。
「それはそうと、柊くん?」
「なに?」
なんか無駄に体力を消費した気がしていた。どっと気疲れしていた。病人なんだけどな、ぼく……。
「ご飯はちゃんと食べたの?」
「いや、食欲はあるけれど作る気になれなくてさ」
家族が仕事に出る前に言っておけば、なにか作ってもらえたかもしれないけど。店屋物を取ろうにも、この辺りにはピザ屋くらいしかなくて、さすがにそんな脂っこいものをこの体調で食する気にはなれなかった。それに、宅配ピザって高校生のお小遣いから見るとかなり割高だし。
「だったら、先輩。わたしがなにか作りますよ?」
「え、本当に?」
悠子の台詞に驚かされたけれど、その申し出は有り難かった。
「冗談じゃないですよ。わたし、簡単なものくらいなら作れますよ? 日頃、お母さんの手伝いとかしていますし。わたしの女子力を舐めないで欲しいですね」
胸を張って「女子力」という部分を強調する悠子に、ぼくはちょっとした戸惑いと呼ぶべきか、降って湧いたような幸運に驚いていた。
成り行きとは言え、好きな子の手料理が食べられるのだから。
「じゃあ、お願いしてもいいかな?」
「任されましょう」
悠子が飛び上がるようにソファから立ち上がった。
「なにか食べたいものとかありますか? まあ、作れるかどうかは柊家の冷蔵庫の状況に左右されますけど」
食べたいもの、か。
正直、こんな体調ではあまり脂っこいものは食べたくない。
でも、悠子が作ってくれるならなんでも食べられる気がする。
「なんでもいい……というのが本音だけど、食べやすいものがいいかな」
「そうですね、病人が食べるものだということは考慮に入れておかないといけませんよね」
なに作ろうかな、と鼻歌を歌いながら台所に向かう悠子。
「冷蔵庫の中にあるものならなんでも使っていいから。もちろん、食器とかも」
「わかりました」
と、にっこり笑みを見せた。
料理の準備をする悠子の後ろ姿を見つめていると、遥子がなんでもない風に言った。
「良かったわね。好きな子の手料理が食べられて」
「え……なんの話かな?」
突然、言葉の刃を突きつけられたかのようだった。
驚いていた。
遥子が、ぼくの悠子への気持ちに気づいていたなんて。
「気づかないわけないでしょ。あなたたちとずっと一緒にいるんだもの。それに悠子は柊くんの好みな気がするし」
「……いや、好みってわけじゃないんだけど」
正直なところ、好みの問題で言えば遥子の方がそうだと思っている。でも、遥子はそういう対象じゃない。変な言い方だけど、戦友かなにかのような気がしていた。……平成生まれのぼくに従軍経験はないけれど。
「好みというわけではない、と思う。でも、自分にはないものを彼女は持っていて、それがぼくにはほとんど絶対に手に入らないもので、最初は憧れだったんだ」
――ああいう子もいるんだ。
最初はそんな感慨だった。
それが恋情にまで育ってしまうとは思わなかった。
「ねえ、柊くん。悠子ってモテるのよ」
「う、うん? それくらい知っているよ?」
「でも、悠子は男友達もいるとは言え、学校の外で会うのは女友達ばかりなのよ」
「そうなの?」
遥子の説明に驚いていた。
確かに悠子は男子にも人気だけど、一線を引いているようではあった。
「男女混合でどこかに遊びに出掛けるというのはあるみたいだけどね。お見舞いとは言え、今日みたいに男の子の家まで来るのは聞いたことはないわ」
「それは、遥子ちゃんがいるからじゃないかな」
「もちろん、それもあるでしょう。いくら柊くんとは言え、男の子の家で二人っきりにはならないでしょ。――でも、信用されているか試しに言ってみたらどう答えるかしら?」
「……いや、信用されていたとしても、試すようなことをするつもりはないよ」
「冗談よ。でも、柊くんにはチャンスがあるんじゃないかしら?」
「チャンス?」
「恋人になれる可能性、と言った方が直接的ね」
「――っ」
付き合う、という言葉がやけに生々しいように感じたせいで頭がくらっとした。
「ところで、さ」
「なに?」
「ぼくが悠子のことを好みだと判断したのは、どういう理由なの?」
「柊くんはああいう家庭的な子が好みだと思っていたの。悠子は毎朝、お弁当を自分で作っていると言っていたでしょ?」
「別に家庭的な子が好みというわけじゃないよ」
「そう。なら、私の勘違いだったみたいね」
遥子は退屈そうに料理をする悠子の方を見た。
彼女の視線に釣られるようにぼくも悠子の後ろ姿を一瞥した。
「……まあ、一般論で言えば家庭的な女の子はモテるだろうけどね」
「男の子の身勝手な理想よね。ところでそれって、一種のジェンダーロールが理由なのかしら?」
「それはあるでしょう。人間が抱く理想って、他の誰かから引き継いだものがほとんどだろうし」
そもそも理想なんてものは、社会や他人から押し付けられて芽生えるものばかりだ。その性質上、身勝手で無責任なのは当然だろう。望ましいかどうかはともかくとして。
「それもそうね。女性の側も男性に逞しさや甲斐性を求めているのだから、他人のことを言えた義理ではないわね」
そういう遥子ちゃんの理想の男性像とはどういうなのものだろう?
やっぱり、他の女の子たちと同じく頼りになる男が好みなのだろうか?
彼女は同年代より精神年齢が高めだから、年上の男性の方が好みにあっているのではないかと勝手に想像している。学校なら同年代の男子は論外で、若手の男性教師とかが考えられそうだ。
想像してみると、段々気になってくる。
「ちなみに、遥子ちゃんはどんな男が好みなの?」
「私?」
予想していなかったのか、ぼくの問いに驚いている様子だった。
少し考え込んでいるようで、結論が出たのか口を開いた。
「――そうね、静かでいてくれる人かしら?」
なるほど、静かに読書しているようなタイプか。
彼女の性格や趣味を考えると、合っている気がする。
遥子はさらに続けた。
「もっとも男性である必要はないし、人である必要もないけれど」
「……猫でも飼ったらいいよ」
続けられた彼女の言葉に、思わず溜息が出てしまった。
犬よりは猫の方が良さそうだった。
犬は吠えるから煩いだろうし、躾けるのも手間だろう。
「でも、お祖父さんもお祖母さんも動物が好きじゃないのよ。私もだけどね」
なら、どうしようもないじゃないか。
猫よりもずっと人が嫌いな遥子ちゃんが、男の子と親しくなるのは難しそうだ。
「先輩、できましたよ! 今、食器に移して持って来ますね?」
と悠子が台所からやってくる。
ぼくたちの顔を交互に眺めて、不思議そうな顔をした。
「なに話していたんですか?」
そう問う悠子に、遥子が微かに笑って答える。
「お互いの好みの異性について、かしら?」
「――え?」
一瞬、呆然とする様子を見せて慌てる悠子。
「ね、姉さん! 好きな人とかいたんですか!?」
「いないわよ。そういう話をしていただけ」
好みの対象は「男性である必要も、人である必要もない」と言っていたくせに、悠子を揶揄っているつもりなのか。
「遥子は猫が飼いたいらしいよ」
「え、なんで突然、猫?」
きょとんとする悠子に説明してあげると、くすくす笑い始めて、
「でも、姉さんらしいですね」
と答えた。
笑われたせいで少しだけ拗ねた遥子。
揶揄われた仕返しに笑う悠子。
悠子が作ったトマトリゾットを食べながら二人とともに過ごした、そんな晴れの日のことだった。