現在2
◇
結局、雨が止むのを待つのは諦めて、ぼくたちは濡れながら帰路に着いた。
一度ぼくたちは別れて、ぼくは自宅のあるマンションに戻って、温かいシャワーを浴びて着替えた。
すぐに、誰もいない自宅の寂しさが身に沁みた。
こんな日だというのに、この部屋に一人でいるのが嫌だった。
悠子に会った、こんな寂しい日に一人でいるのが息苦しかった。
さっき別れたばかりだけれど、そうするのが当たり前のように、今度は傘を持って遥子の家に向かっていた。
遥子の家は丘の上にある洋館だった。
資産家の家庭で、少なくとも経済的には不自由のない生活を送っていることくらいは知っている。
ぼくを屋敷に招き入れてくれたのは、牧瀬家の通いのお手伝いさんだった。ついこの前、三十になったばかりと言っていた既婚の女性だった。
ぼくたちから見て学校の若い先生くらいの歳の深山さんは、ぼくが遥子を訪ねて来ることをあまり快く思っていないようだった。
実の娘のよう、と言うと歳が近すぎるから適切ではないにせよ、牧瀬の家に仕え、本来の保護者である祖父母の代わりに遥子の面倒を見ている彼女には相応の矜持があった。
その彼女が奉仕する美しい遥子の側にいる、唯一の年頃の異性であるぼくの存在を疎んじているようだった。
そういう感情の機微には、何度もこの家に通っていれば気づいてしまうけれど、ぼくは彼女のその細やかな不快感に気づかないでいる振りをしていた。
深山さんの方もまた、ぼくの表情の変化からそういう内心に気づいていながら、知らない振りをしていた。
ぼくが知っているのは、いつもなにか言いたげな彼女の表情だけだった。そういうことにしている。
いつものように広い屋敷の中を案内されて、遥子の私室まで辿り着く。
「遥子さん、柊さんが来られましたよ」
コン、コンと軽いノックの音とともに深山さんが言う。
扉の向こうから、遥子の心持ちいつもより大きな声が答える。
「入って、柊くん。深山さんは仕事に戻ってくれていいから」
言われると扉を開けて、遥子の部屋に入る。室内は明かりが点いていなくて薄暗かった。遥子は明かりが嫌いなのだと言っていた。
目障りだと言って、本を読むときか、夜にならない限り電灯を灯さないことが多いらしい。
ふと振り返ると、深山さんが立ち去るところで、その表情には拒絶の色合いが浮かんでいた。
……度々訪れて二人きりになっているぼくたちだから、きっと誤解されていることだろう。
遥子はベッドに仰向けになっていた。
ただ夢を見るように、ぼくの方を見ることもなく、瞼を閉じている。
帰宅してからぼくと同じようにシャワーを浴びたのだろう、すでに別の服に着替えていた。
セミダブルのベッドの上に広がる長い髪が少し濡れていた。その、まだ乾き切っていない髪が艶やかに見えた。
机の上には写真立てが置いてあって、遥子を成長させたような儚げな女性が写っている。遥子の母親だった。
遥子の母親は昔から病弱だったそうだ。それも、生きていけるかどうか危ぶまれていたというレベルで、幼い頃から家族から憂慮されてきた。
その彼女が成人に達し、お見合いを経て結婚相手を得て、娘を身籠ったことには彼女の両親も驚いたことだろう。それは喜びによるものだけではなく、成人までは生きられないと言われた彼女に与えられた祝福の結果を目の当たりにしたようでもあった。
医者の世話になることは多々あり、健康的とはお世辞にも言い難かったとは言え、子供を出産することになるまでに至った娘の成長に彼女の両親は幸福を感じていた。
だけど、幼い頃からの箱入り娘として育てられ、世間知らずな遥子の母親にとって、婚姻関係というのは童話の話のようなものでもあった。つまり、どこか現実離れしていたのである。
そんな夢見がちな彼女を、最後まで愛することができなかった遥子の父親が彼女の許を離れて、本来彼が愛するべき女性の許に行くことを決心したのは、必然だったのかもしれない。
こう言うと遥子の父親が冷徹に見えるかもしれないけれど、彼らの婚姻関係を終わらせたのは遥子の母親の方だった。
彼女は自分を愛していない夫の本心に薄々気づいていた。
うら若い乙女のような未熟な結婚観を抱き続けていた彼女にとって、夫が自分を愛していないという事実には耐えられなかった。
「あなたが私のこと愛してないを知っています。本当はあの人のことが好きなのでしょう。身を引きますから、もう私たちの関係は終わりにしましょう」
未熟でいながらも女の直感で夫の本心を見抜いていた彼女はあっさり別れを切り出した。
世の中には愛のない夫婦なんて山程いるだろう。そもそも、愛情だって長い関係の果てには冷めることもある。
愛というものに理想的でいた遥子の母親の申し出に、夫の方も最初は反論した。
だが、本心を見抜かれていることへの後ろめたさと、彼女の申し出を受け入れてしまえば、本来自分が愛する女性と結ばれることになるという魅力には抗えなかった。
地位ある男性の矜持として、まだ正式には別れていない夫は、娘の養育費は支払うと言明したが、それも遥子の母親は拒絶した。資産家である彼女の実家からすれば、検事とは言え一介の役人でしかない男の給料など端金に過ぎなかった。
遥子の父親は、彼女の母親が生きているうちには娘と会うこともできなかった。
妻に対する愛情には偽りもあったとは言え、生まれた自分の子供は可愛いもので愛情も執着もあったというのに、遥子の母親は元の夫が自宅の敷居を跨ぐことすら拒絶して、最低限の交流として手紙のやり取りだけをしていた。
やがて、遥子が充分に育つ間もなく、身体の弱かった彼女は病で死んだ。
しかし残された娘は引き続き祖父母の許で面倒を見ることになり、実の父親に遥子を渡すことを彼らは頑なに拒絶した。
ただ不幸中の幸いというか、父親は一月に一度程度は激務の合間を縫って、娘の顔を見ることを許されるようになった。
「きみのお母さん――」
写真の彼女の微笑みを見て、言葉を探す。
「綺麗な人だよね。きみに似ているし」
結局、軽薄な表現に落ち着いてしまった。
「ありがとう。ついでに私まで褒められていると思ってもいいのかしら?」
「そのつもりでいるよ」
あまり容姿に触れることはないのだけど、流れでそう言ってしまった。
大体、褒め言葉とは言え安易に他人の容姿に言及するべきではないのだろうけど。
「その写真、私が生まれたばかりの頃だったかしら」
遥子をそのまま大人にしたような彼女の母親は、子供を産んだにもかかわらず少女のような可憐さを失っていなかった。
「母親のことでなにか覚えていることってある?」
遥子が幼い頃に死んでしまった母親――。
なにか思い出があるのだろうか。
「お母さんのことはほとんど覚えてないの。でも、不思議ね。容貌が似ているせいか、家族の誰よりも親近感があるわ」
「写真は、お祖父さんかお祖父さんが用意したの?」
「撮ったのはお父さんだけど、保管していたのはお祖母さんね。まだその頃は普通に夫婦をやっていたのでしょうね」
ぼくが遥子の家族のことを知っているのは遥子自身から聞いたからだけれど、家族のことを話すことに躊躇いはないようでいで、遥子はでも家族そのものへの関心が強いようではなかった。
家族の話題に触れる様子はどこか他人事のようだった。
遥子はそれ以上、話したいという風でもなかったので、これくらいで彼女の母親の話は切り上げることにした。
机の上の写真立てを元の場所に戻した。
――雨が、降り続けている。
雨に濡れたばかりのことを思い出していた。
そのせいか今日はもう、少しだけ疲労を感じていた。
広いベッドに腰掛けて、遥子の方を振り返りながら再び話し掛ける。
「今日は、いつものように本を読まないの?」
遥子もぼくも読書を愛していた。
彼女は見識を広げるためと言って小説以外も読んでいたけれど、一番好きなのは小説だった。
ぼくにとっても読書と言えば小説で、普段その世界に浸っている時間は、なにか恐ろしいものから救われるようでさえあった。
「そんな気分じゃないのよ。あなたは知っていて、そんなことを聞くのね」
遥子の言うことは正しかった。
それもそうだろう。
ぼくたちは読書に救いを見出していたのだから、救われたがらない今のぼくたちにとって、読書は却って邪魔なことだった。
悠子に会いに行った今日、この日――。
彼女がいた時間を思い出して、あの日々に戻ったような一瞬の錯覚が、ぼくたちを感傷的にさせていた。
もしかしたら、ぼくたちは絶望したかったのかもしれない。
残されたぼくたちは、悠子がいなくなった世界で生きることへの罪悪感があった。
本当に生きている権利があったのは彼女だったのに――。
誰にだって望まれていた彼女が、望まれないぼくたちを差し置いて死んでしまった――その事実から逃れたかった。
絶望はもっとも死に近い感情だ。
死に触れることによって、だからこそぼくたちは慰められていた。苦しんでまで生きている必要はないのだと教えられているようでさえあった。
本は生き甲斐になり得る。特に小説は人の生に満ちている。どんなに悲劇的な物語にも、読者はそこに自らが生きていく希望を見出すことになる。
だからこんなとき、本を読む気にはなれなかった
ぼくたちには絶望に染まりたいという願望がありながら、生きていくことを望む浅ましい願望があった。
その二つの間に挟まれた矛盾するような感情――しかしそれは絶望そのものではなく、生きていきたいという欲求そのものでもなく、その場しのぎの傷の舐め合いでしかなかった。
「柊くん、」
躊躇いなくぼくの手を引く遥子の手に誘われるまま、ぼくもまたそのベッドに横になった。
……言い訳をすると、それは決してやましい動機があってのものではなかった。
実際、ぼくは遥子に触れていながら、それ以上のことは求めなかった。
ぼくにとって遥子の存在は性の対象ではなく、幼かったあの頃への憧憬そのものだった。
二人してベッドの上に横になって、どちらからともなく手を繋ぎ合い、すぐ側にいるお互いの温もりを確かめ合う。
切り傷に軟膏を塗るような一時的な処置でいて、お互いの腕に手錠でも掛けられたような離れ難さがあった。
静寂の中にあるのは、降り続ける雨の音と呼吸音だけだった。その場には確かにぼくたちがいる。
相手の存在を感じながら、失われた欠落を埋め合う。
悠子はいなくとも、遥子はここにいる。
自分の大切な人がまだいる。
そこに確かに、温もりを抱いて眠るように横になっている。
その温もりに安堵があった。
けれど、こうしていないとぼくたちの関係性まで消えてしまいそうで、それがとても怖かった。
……悠子が死んで、ぼくたちの側から消えてしまったように。
求めているのは、この温もりを逃さないこと。
――そうしてぼくたちは、今日も少しだけ一緒に眠りに就いた。