過去2
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ぼくたちがこの学校に入学したばかりの頃、遥子はかなり苛立っていた。
遥子は思春期を迎えて美しくなった。だというのに、本人はそれが異性を惹きつけるものだという自覚に欠けていたから、なおさら周囲の男子たちの態度が彼女の感情を逆撫でしたのだろう。
思春期を迎えた遥子にとっての男子とは、それまで特に自分に関心を持っていたようでもないのに、突然自分に好意を示し始めた――まるで、地球人に擬態していた異星人が突然、正体を現したようだったのかもしれない。
こればかりは男子の方にも同情を禁じ得ないけれど、遥子が異性としての男子に関心を抱いている様子はなく、ひたすら本の虫となって、恋愛と言えばもっぱら小説の世界の話と見做しているようにしか思えなかった。
高校に入学したばかりの頃、そんな遥子の性質を理解せずに言い寄った男子も多かった。中学の頃はまだ気恥ずかしさがあるものだけれど、高校生になる頃には下心を隠そうともしない男子も増えてくるものだ。
遥子だって最初の頃は我慢していたようだけれど、次第に苦痛を感じ始めたのかあからさまに無視し始めた。
しかし言い寄る側も彼らなりに真剣なもので、ある日、遥子のそんな態度が気に入らず強引に詰め寄った男子がいた。そこで堪忍袋の緒が切れたのは、遥子の方だった。
「猿みたいに本能に忠実で恥ずかしくないの? 私はあなたに興味はないし、そういう可能性もないからもう近寄らないで。――だって、猿と人間では種族が違うでしょ?」
その瞬間の、凍てつくような教室の雰囲気は今でも鮮明に覚えている(言い忘れていたけれど当時、ぼくと遥子は同じクラスだった)。
魚のように口をパクパクさせたその男子は、すぐに顔を真っ赤にさせた。その男子のまだ紳士的な部分としては、女子相手に暴力に訴えることを避けたことだ。
本当はすぐにでも殴りたいくらいの怒りが沸き起こっていたのではないかと見て取れたけれど、その男子はなにも言わずに身体を震わせながら教室を後にした。
そういうことが立て続けに起こって、遥子の今現在の評判が出来上がった。彼女は暴言という茨に覆われた城に住んでいるようだった。
例え異性に対する関心だとか、恋への憧れとかいうものがあったとしても、それらはフィクションの世界で満たされていたのだろう。
クラスの女子たちは女子で、そういう遥子の態度を「気取っている」とか「傲慢」とか陰口を叩く一方、自分たちよりも容貌の優れた遥子が男子に関心を示さないでいるのにはどこか安堵しているようでもあった。
高校の入学式があって三か月も経たないうちに、遥子は完全に孤立していた。
ただ、まったく彼女の表情に悲壮感はなかった。
本人が望むように、用事がなければ他人と関わらず、一人でいることを好み、孤独というものを味わうように楽しみながら、気の赴くまま本を読んでいた。
ぼくたちの教室では、遥子の存在が気に掛けられることもなくなり、遥子は教室の背景の一部として溶け込んでいた。
担任教師も当初こそ遥子の振る舞いに困惑させられていたみたいだけど、次第に彼女がそういう人間だと理解したのか敢えて干渉せずにいた。
遥子の態度に本当に困らされたのは、翌年になって入学してきた悠子だけだった。
遥子とぼくとの関係性について言えば、幼かった頃とは違ってその関係性自体が消えていく最中にあったとは前に述べたと思う。
ぼくたちは思春期を迎えて、もはや子供だと言い切れない年頃になっていたから、仲が良かった昔の頃を懐かしむことはあっても、関係性を継続していこうと努力することもなかった。でも、一人でいることを好む遥子からすれば、家族を除けばぼくはまだ話す機会の多かった人間だったと思う。
ある日、図書室で見掛けた彼女に声を掛けたように、不意に彼女に話し掛けたくなることがあった。今も友人であると主張するには、過去の関係性に寄り掛かり過ぎているようではあったけれど、一応はそう言っても差し支えないと思っていた。
「だからこそ、先輩を頼らせて欲しいんです!」
悠子の勢いのある言葉に、ぼくは押されていた。
彼女はぼくと遥子が話しているところを見ていた。
図書室で遥子の姿を見つけて、話し掛けられないで本棚の影に隠れていたところ、知り合いの先輩が躊躇いもなく話し掛けていた(ように見えたのだろう)。
でも、ぼくだって今の遥子に話し掛けるのには多少の勇気はいる。
これまで遥子に言い寄ってきた男子たちと一緒にされそうなのが嫌だというのが主な理由だったけれど、幼かった頃の性質を煮詰めたように成長した遥子の振る舞いに苦手意識がなかったとも言い切れないでいた。
「お願いですよ、柊先輩〜。先輩しか頼れる人がいないんです」
悠子の潤んだ目で見つめられて、心が動かない人間は酷く冷徹だと思う。
冷徹ではないぼくは、でもしばらくは抵抗しつつも最後には折れてしまった。
「……わかった。でも、期待はしないで欲しい」
結果が伴わずに逆恨みされても敵わない。
なので、それだけは言っておきたい。
「もちろんです、どうなったって柊先輩のことを恨んだりしませんよ。本当ですとも、本当!」
……駄目押しがわざとらしくて信用できなかった。
いや、それはともかく。
まず、言っておかないといけないことがあった。
「確かにぼくたちは幼い頃、親しかったよ。でも、実はぼくにも遥子ちゃん……牧瀬さんについて失敗があってさ」
「失敗、ですか?」
きょとんとする悠子に、躊躇いつつも説明する。
あれは遥子と再会したばかりの頃のことだった。
なにも他の男子みたいに言い寄ったわけではないのだけれど、美しく成長した遥子ちゃんの姿にぼくにだって思うところがあったのだ。
「入学式のときに再会して、少し話をしたんだけれど、変な言い方をしてしまったんだ」
「変な言い方、ですか?」
また不思議そうに首を傾げる悠子だった。
言い難いけど、言ってしまおうか。
「言い訳だけど、長らく会ってなかったんだ。だから成長した遥子ちゃんの変化に驚いて、うっかり『まるで女の子みたいだね』って言っちゃったんだよ」
痛恨の失敗――と気づいたときには、遥子は黙ったまま静かにその場を立ち去っていた。
口は災いの元、とも言うか。
人に掛ける言葉は選ばないといけないものだと理解させられた一件だった。
「うわあ……。先輩、それはないですよ。姉さんだって女の子なのは当然じゃないですか」
悠子もぼくの説明に引いているようだった。
「だって、本当に驚いたんだ」
「それなら『大人になったね』とか『魅力的になったね』とか言ってあげればいいじゃないですか!」
「遅いかもしれないけど、そう言えばよかったとつくづく思うよ」
「本当に遅いです!」
せっかく再会したというのに、しばらくは口を利いてくれなかった。
今も覚えていないといいけれど……。
「まあ、協力するのはやぶさかではないけれど、失敗は挑戦にとって付き物だという認識でいて欲しいかな」
悠子は胡散臭そうな目でぼくを見て、「本当に先輩に頼っていいのかなあ……」などと呟いていた。
……いや、そこまで言うなら別に頼らなくてもいいんだけど。
でも、今まで知らなかった彼女たちの姉妹関係を知らされたというのに、今になって「あなたは無関係です」と言われても、梯子を外されるような気分だった。
「ううう、でも先輩しか頼れる人がいないし……。わかりました、先輩。骨は拾うので、がんばってみてください」
……なんかモチベーションが下がる言い方だなあ、というのは贅沢な悩みだろうか?
「それで、肝心の遥子ちゃん……牧瀬さんはどこにいるのだろう?」
今現在、学校の昼休憩の時間で、生徒たちはこの時間帯に食事を取ることになっている。
「先輩、もう『遥子ちゃん』でいいですよ」
と呆れがちに言われてしまったけれど、そういうわけにもいかない。
「姉さんはこの時間帯、屋上へと続く階段で昼食を取ってるはずです」
「なんで知ってるの?」
「調べたからです」
「ストーカー……」
「人聞きが悪いですよ」
と窘められてしまった。
悠子の頼みというのは結局のところ、遥子との仲立ちをして欲しいということに尽きる。
腹違いの姉妹として生を受けた二人だけれど、別々の家庭で育ったせいで交流はほとんどなかったそうだ。
幼い頃に、数えられる程度だけど一緒に遊んだ記憶はあるとしても、今や高校生だ。遠い昔のようにはいかない。
それに、遥子は変わった。変わったと言うより、煮詰めたという方が正しいけれど、意図して他人を遠ざけるようなところが目立つようになっていた。
悠子はわざわざ遥子が通うこの学校を進学先に選んで、姉妹の仲を改めて深めたいと思っていたようだけれど、いざ遥子と顔を合わせてみても一言挨拶するくらいしかできなかったのだとか。
悠子としてもずっと仲良くしたいと思っていながらも、近づきたくとも近づけない、一歩踏み出せないというところがあったのだろう。
そんな遥子のことを考えながら、ぼくたちは屋上の階段までやって来た。屋上は閉鎖されていて生徒にも周知されているので、人通りがまったくない。
そこには一人静かに大きなメロンパンを少しずつ千切りながら食べている遥子がいた。
顔を上げた遥子の視線とぼくの視線が交わる。
その一瞬で、悠子は物影に隠れた。
「なんで隠れるの?」
「……取り敢えず、柊先輩だけでがんばってみてください」
「……まあ、やってみるけどさ」
悠子のこと察せられないように、幾分かわざとらしく遥子に向かって手を振った。
「やあ、奇遇だね」
「そうね、こんなところで会うなんて奇遇ね」
……疑われてはないだろうか?
偶然ではないこととか、もしかしたらぼくの背後で糸を引く悠子の存在とか。
「せっかくだから、一緒に食事を取ってもいいかな?」
「……珍しいのね。でも、好きにしたらいいと思うけど」
そう言われたので、遠慮なく隣に座る。
購買で買ってきたパンをビニール袋から取り出す。
その様子を遥子が見つめていた。
「ビニール袋、面倒になったわね」
「うん?」
「ビニール袋が有料になって、今まで言わなくとも店員さんはくれたのに、そうでなくなったから」
そういう話か。
確かに、今でも面倒にだと思うことがある。未だに慣れない習慣だった。新しい習慣として根付くのか、批判が大きくて元に戻るのか、どうなるんだろう。
「微妙に政治批判じみているね」
「批判ではないわ。苦情を言っているだけよ」
同じことだよ。
などと言いながらも、遥子の持っているのは紙袋だった。
新しくできた地元で評判のパン屋のものだ。
「これ、あそこのパン屋のだよね。ぼくも気になっていたんだけど、美味しい?」
「ええ、美味しいわ。アフリカの子供たちが飢えに苦しんでいても許せてしまうくらいには」
「……いや、それは許さなくていいから」
なんか性格の悪い発言に思えた。
なぜか、「パンがないならケーキを食べなさい!」と言ったどこかの王妃のことを思い出した。
パンを千切りながら食べる遥子は草食動物のようだった。
小学校の頃に学校で飼っていたウサギが食事をしている様子を連想させた。
昔、ぼくたちは地元の小学校で出会って、友達が少ない同士で友達になって、しばらく離れていて今に至るけれど、出会ったのももうずっと前のことだったんだ。
「……高校生活はまだ二年あるけど、卒業したらどうなるんだろうね」
その頃には本当に、遥子との関係も消えているのかもしれない。たまたま高校は同じになったけれど、その先はどうなるかわからないだろう。
そう考えると、どうしても寂しかった。
遥子はつまらなそうに答える。
「この学校の教師たちは、大学に行けと言っているけれど」
「まあ、大学には行くと思うよ。遥子ちゃんもそうでしょ?」
「たぶん、そうなるのでしょうね。だって、やりたいこととか特にないもの」
「やりたいことね、大学だっていつかは卒業するんだから、やりたいことって見つけておかないといけないよね」
やりたいこと、というと大体は職業という形に結びつくものだけれど。
ぼくたちは、将来はどうなっているのだろう。
遠い未来のことのようで、もう目の前に迫っていることのようにも思える。
「私、全然将来のこととか想像もできないわ」
「そうなの?」
「だって、私に向いている職業とかあると思う?」
「な、なるほど……」
その台詞に、うっかり納得させられてしまった。
確かに、遥子ちゃんが働く様子は想像もできなかった。失礼極まりないけど、営業職は絶対に無理だろう。接客業関連もやめておいたほうがいいと思う。経理とか黙々と作業する仕事がいいかもしれないけど、まったく人間関係に悩まなくて済む職場はないからなあ。
あ、でも、あれなら大丈夫ではないだろうか――。
「――なら、『お嫁さん』とかどうかな?」
……ぼくが提案するなり、遥子ちゃんは盛大に噎せ始めた。
「ごほ、ごほっ……うう」
手で喉元を抑えたり、しばらく気持ちを落ち着かせようとしていた。
「……あのね、柊くん」
恨めしそうにじっと睨まれる。美人が怒ると怖いというけど、睨まれただけで結構な迫力があった。
「永久就職なんて言われるけど、『お嫁さん』は職業ではないし、なにより私を娶りたいという奇特な男がこの世にいると思うの?」
「そりゃあ、いるんじゃないかな。容姿以外のほぼすべてが欠点だとしても、男ってその一つの美点だけで許せちゃうものだから」
本当のことを言うと、遥子ちゃんは容姿だけでなくハイスペックなのだけど。学校の成績だって試験毎に首位争いをしているレベルだし、家柄だっていい。本当に唯一欠点なのは、性格だけだ。得意な科目は数学と国語だと言っていたっけ? これも性格の悪さに貢献しているかもしれない。
「……失礼な話ね」
そっぽを向く遥子ちゃん。
……また余計なことを言ってしまった気がした。
だけど、遥子は気にしていないようで、再びこちらを振り返った。
「ねえ、柊くん」
「なに?」
「悠子……内海さんと知り合いだったの?」
「え?」
「だって、さっき二人で話をしていたでしょ? なぜか私があなたたちの方を見ると内海さんは隠れたけれど」
……見られていたんだ。
まあ、そうだよね。
目の前で自分のことを話されたら、誰だって気づくだろう。
「今もほら、こちらを伺っているわ」
指差された方を見てみると、悠子が物影からちらちらとこちらを伺っていた。
なぜか羨ましそうに、「ううう、二人でなに話しているんですか〜」と唸っていた。
「……腹違いの姉妹なんだって?」
もう取り繕っても意味はないと思って、明かしてしまう。どうせ本題には入らないといけなかったのだから、構わないだろう。
「……ええ、柊くんには言ってなかったわね」
遥子はなんの躊躇いもなく認めた。
その表情を見て、まあ嫌ってはいないのだろうと安堵して、黙って立ち上がった。
ぼくは階段を降りて、悠子が隠れている方まで行った。
「ちょ、先輩、どうしたんですかっ――!」
慌てる悠子の手を引いて、遥子の前まで連れてきた。
「……」
「……」
姉妹は黙って向き合って、お互いの顔を見つめ合っていた。
そして、最初に口を開いたのは――。