過去1
※
内海悠子は入学以来、男女の区別なく人気のある生徒である、というのが周囲の共通認識になるのにはそう時間は掛からなかった。
初めは教室内での人気者だったけれど、次第に教室の垣根を超えて友人を増やしていき、ついに学年の垣根や教師と生徒の垣根まで超えて、悠子という一人の女の子に好意的にならない人間はもはやいなかった。
そんな話題を悠子に振ってみると、彼女は不敵な笑みを浮かべてこう言った。
「『神聖ユーコ帝国』建国の日も間近ですね?」
なんだそれ。
ぼくも高待遇で招き入れられたい(それにしても自分の名前を国に冠するなんて、自己主張の激しい皇帝だと思った)。
というのは冗談としても、悠子の人気には建国の英雄に匹敵するようなカリスマ性があったのは本当だ。
彼女の人気は、その可愛らしい顔立ちも人気の理由ではあっただろう。
見た目も性格もいい女の子は当然、男子にも好かれる。そういう女の子は決まって同性のやっかみを買うものだけど、悠子は同性からの人気も高かった。屈託のない、清々しいまでの彼女の善意を嫌悪しろという方が無理な話なのだ。
男子からの人気というと、中には悠子に本気になってしまう男子がいたけれど、彼女が誰かと付き合っているという話はついに聞いたことがなかった。
男女交際については、彼女はこんなことを言っていた。
「わたしの家、門限が厳しいんですよ。男の子と付き合ってもたぶん、一緒にいられる時間なんてほとんどないと思います」
「学校内だけでも恋人と過ごすのは楽しいかもよ?」
と、ぼくが言ってみる。その主張には幾分か期待というか、できればその相手に自分を選んで欲しいという願望があった。
でも悠子はぼくの言葉に首を振る。
「学校では、友達と一緒にいることも多いですし、恋人と一緒にいる時間を確保できるとは思えません。休日だってどこに行くか親に逐一確認されるんですから」
なら、登下校のときはどうだろう? それなら恋人を一緒にいれるんじゃないか?
と言い掛けて、ぼくは口を噤んだ。
登下校中の交流だけの恋人関係なんて、本当に恋人と言えるのか?
恋人ならもっと長い時間、一緒にいたいものだろうし、できれば二人きりにもなりたいものだろう。
形ばかりの恋人関係にしかならないか、名称だけを与えられて、中身が伴わない関係になってしまう。
「なので、わたしは今まで男の子と付き合ったこともないんですよ」
悠子の寂しげな微笑。この歳の女の子なら恋への憧れもありそうだけど。
「男親って、娘が大事なものだからね」
「あれはもう、そんなレベルだとは思えませんけどね。お父さん、わたしのことまで檻の中に入れたいんじゃないかなあ」
洒落になってない話である。
悠子のお父さんは検事だから、仕事の結果として犯罪を犯した人を刑務所に送るということは当然のようにあることだろうけれど、悠子の場合は「籠の鳥」のようだ。
親が子供を管理したがるのはどういう心境なのだろう?
ぼくの家はわりと放任的だからか、悠子の親の心境が全然想像できなかった。
「なんか不安になってきました。わたし、将来結婚できるんでしょうか?」
悠子の父親も、適齢期になってまで「結婚するな」とまでは言わないだろうけど。
でも、大学に進学しても一人暮らしを認めなかったり、社会人になって働き始めても実家暮らしを強要したりというのは想像できる範疇だった。
悠子が半ば異性関係を諦めているのは、ぼくにとって都合が良くもあり悪くもあった。
なにせ、自分が立候補できないのは不都合以外のなにものでもない。
でも、他に有力候補がいた場合、せめて誰のものにもならないでいて欲しいという身勝手な願望が叶ってしまって、そんなご都合主義的な自分の考えに自己嫌悪を覚えてしまう。
「まあ、これから出会いはいくらでもあるだろうし、誠実なお付き合いをしている相手なら、お父さんも認めてくれるんじゃないかな?」
悠子は溜息をついて、
「だったらいいんですけどね。あの父親に男の子を紹介する度胸はわたしにはなさそうですよ……」
……どんな父親なのか却って気になってしまう。
会ったことはないけれど、厳格ながらも娘を溺愛する父親という想像が合っていそうだ。
「でも、本当に好きになった相手がわたしにできたら、どうしたらいんでしょう? お父さんに紹介するとかそういう話の前に、その人がわたしと付き合ってくれるかどうかもわからないですし……」
頬を微かに赤らめる悠子に、ぼくは特に考えることもなく答える。
「まあ、なんとかなるんじゃない?」
「軽いです!」
むう、と頬を膨らませる悠子。
本当になんとかなると思ったんだけどなあ。悠子から交際を申し込まれて嫌がる男なんているとはぼくには思えなかった。少なくともこの学校には。
……でも、そうか。
悠子にだって好きな人ができる可能性はあるんだ。
当たり前なことなのに、なぜか失念していた。
「がんばれ、内海さん」
と、強がりつつもエールを贈る。
「ううう、はい、頑張ります……」
なぜか恥ずかしそうに俯く悠子。
がんばれ、自分。
取り敢えず、恋人候補として見做されるように努力しようと誓ったぼくなのだった。
悠子と出会ったのは、彼女がぼくたちの学校に入学してからそれほど間を置かなかった頃の話だった。
彼女は新入生で、ぼくは二年生に進級したばかりだった。
当時から噂では人気者の新入生のことを知っていたけれど、本人との面識はなかった。
父親の仕事の都合で地元を離れていたぼくは、高校生になってこの土地に戻ってきたので、地元の中学校に見知った後輩なんていなかった。
だから、新入生が入学してくると言っても特に関心がなかった。
その人気者の新入生のことも興味はなかった。
だって、顔を合わせたところで誰が誰なのか区別がつかないし。
それなのにその一人が初恋の相手になったのだから、人生というのは予想できないものらしい。
ところで、ぼくは幼い頃からあまり活発な子供ではなかった。健康的でもなかったので、同級生たちが学校のグラウンドで走り回っているときも一人で本を読んで過ごしていることが多かった。
大体、大人というものは外で遊び回っている活発な子供たちに好意的なもので、一人で本を読んでいる陰気な子供には好意的とはとても言い難い。
社会性云々などと言われのはまだしも、酷い場合には精神に問題があるのではないかとまで疑われるのには、子供心ながら閉口させられたものだ。
そういう傾向は思春期を迎えても変わらなかった。三つ子の魂百まで、とでも言ったらいいのだろうか、多少なり変動はあったけれど、本質はずっと変わらなかった。
高校生になって少しだけ増額されたお小遣いも頼りないので、図書室を利用することも多い。
中学校までは公立校で、高校に進学するに当たって地元の私立校に進学したのだけれど、図書室の蔵書量が全然違ったのには驚いた。
放課後、本を返しに図書室に寄って、新しい本を選ぼうと思っていると、見知った生徒に出会った。
絹のような長い髪が腰まで伸びている。
白磁の肌が、病的な印象を与えるほどだった。
危ういバランスの上にあるような、儚げな雰囲気だった。
彼女は図書室の隅の方で本を読んでいた。
本に落とされた彼女の視線が、不意に上がってこちらを見つめる。
ぼくが見つめ過ぎてしまったせいで、視線が気になったのだろう。
「遥子ちゃん――」
あの頃のままの呼び名でうっかり呼んでしまった。
もうぼくたちは思春期の男女で、女の子をちゃん付けで呼ぶなんてことはしないのに。
幼かった頃、いつも学校の図書室で会っていた彼女は、今となってはあの頃の幼さを消していく最中にあった。
花が開くその瞬間――そういう美しさがあった。
「なに読んでいるの?」
尋ねると、遥子は黙ったままハードカバーの背表紙をこちらに向けた。
「笠井潔の『テロルの現象学』?」
なんだか物騒なタイトルの本だなと思った。
「こういう本も、図書室にあるんだね」
「いいえ、これは文芸部の蔵書よ。この手の本は学校の図書室にはおいてくれないでしょう」
遥子は形ばかりの文芸部員だった。
幽霊部員と違うのは、部活動に顔を出しているところだ。でも、その活動自体に参加するわけではなく、あくまで顔を出すだけ。文芸部が所有している本を目当てに部員になって、たまに文芸部員たちの書いた小説なり詩なりの文学作品に辛辣なコメントを残すという行為を繰り返している。
「小説以外の本も読むんだね」
「ええ、最近は見識を広めようと思って、評論とか小説以外のものも読むようにしているの」
子供の頃から本ばかり読んでいたぼくたちだけれど、最近は読書傾向に違いが出てきている。
ほとんど小説しか読まないぼくだけど、遥子はなんでも読んだ。
遥子が読まない分野は、自己啓発書くらいだった。
「内容がスカスカでつまらない」
といって、それだけは読みたがらなかった。
「面白い?」
「この本が?」
彼女は少しだけ目を見開いて聞き返す。
うん、とぼくは頷く。
少し悩んだ素振りを見せた遥子は、
「面白いかはともかく――そうね、考えさせられるわ」
とだけ言った。
なるほど。それなら読書体験としては成功だろう。
それ以上話すことがなくて、ぼくたちはお互いに気まずさを感じていた。
読書に戻った遥子から離れて、棚から一冊文庫本を取り出してカウンターに向かった。
なにが切っ掛けになるかなんてわからない。
けれど、悠子のことに関して言えば、遥子と話したこのときのことが切っ掛けだったと言える。
なぜなら、悠子本人がそう言っていたからだ。
「先輩、ちょっといいですか?」
美化委員の会合の後、躊躇いがちに話しかけてきたのは、人気者の新入生だった。
ぼくと悠子が知り合ったのはこの美化委員会だった。なにもぼくは美しい心を持とうと心掛けて美化委員になったわけではない。
大人しく目立たないようにしていても、誰かと摩擦が生じることはどうしてもある。悠子のように誰にでも好かれるような人間ではないぼくにだってそういうことはあって、以前揉め事を起こしかけたときに助けてくれた同級生がいた。彼の頼みを断りきれなくて、借りを返すような形で美化委員にされてしまった。
「柊先輩、あの、少しお時間がいただけたらと思うんです」
悠子は懇願するように言う。
この頃はまだ悠子への好意を自覚していなかったから、この子が噂に聞く新入生なのか、くらいの気持ちしかなかった。
「どうしたの?」
ぼくが尋ねると、悠子は本題に入ろうとする。
「あの、柊先輩は牧瀬先輩と親しんですか? 昨日、お二人が図書室で話しているところを見たんです」
牧瀬、というのは遥子の名字だ。この学校でその名字を持っているのは彼女の他にいないから、誰のことを言っているのかすぐわかった。
「遥子ちゃんのこと……?」
なんでそんなことを聞くのだろう、と思っていると、悠子はぱあっと表情を明るくした。
「やっぱり、親しんですね! そんな下の名前でちゃん付けするくらいですもんね!」
「う……」
またうっかり、名前にちゃん付けにしてしまった。
昔の癖が抜けていない。
前ほど親しくはないのに、どうしてもそう呼ぶのがしっくり来るのだ。
人知れず後悔してしまい、これからは気をつけようと反省していた。
「ねえ、先輩。どうしても力を貸して欲しいんです」
「えっと……なんのこと?」
両手で包み込むように手を握られて、悠子の冷たい肌の温もりを知る。
気恥ずかしくなって目を逸らそうとしたとき、悠子が本心を明らかにした。
「わたしと遥子姉さんの、仲を取り持ってください」
「え……」
……姉さん、と言ったのか?
なんのことかわからず、悠子の詳しい説明を待った。
その直後の悠子の説明にぼくは驚愕した。
だって、あの遥子ちゃんに妹がいたなんて、全然知らなかったから――。