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午睡の日々  作者: 永山真魚
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    ◇


 ぽつ、ぽつ、と空から落ちてきた水滴が、やがて土砂降りの雨に変わっていく間、急いでどこか雨宿りができるところを探していたら、今はもう使われていない屋根のある古いバス停が目についた。


 二人して慌ててそのバス停まで向かったのだけれど、そのときにはもうぼくたちの衣服はびしょ濡れになっていて、肌を濡らす冷たい雨水に体温が奪われていくのをじっと感じていた。


 雨の日の午後、街はすでに眠りに就くような静寂に包まれていた。

 人の姿はいつのまにか消えていて、時々車が思い出したように道路を通り過ぎた。


 降り続ける雨のせいで街の風景が不鮮明になって、それがぼくたち自身の自意識の境まで曖昧なものにしているみたいで、夢の中にいるような心地にも感じられた。

 ぼくたちしかいないような、孤独な世界――。

 けれど、肌に張り付いた衣服や、濡れた髪の不快感のせいで、辛うじて起きている実感があった。


 濡れた衣服を少しでも乾かそうと上着の裾を絞って、水滴を落とす。

 遥子もぼくに倣って、長い髪とスカートを絞っていた。

 彼女の上着は当然濡れていて、上の下着が透けていた。


 何気なく遥子の方を見ていたぼくはそのことに気づくなり、慌てて目を逸らした。彼女からしてもそんな目でぼくに見られたくないだろうし、ぼくも彼女をそんな目で見ることには抵抗があった。


 しばらくして、ぼくたちはベンチに並んで座って、お互いに会話を持とうとする努力をすることもなく、雨が止むのをじっと待っていた。


 雨の向こうを見るような目で眺めていた遥子が、静かな声音で言った。


「世の中には『天気予報』っていう便利なものがあるというのに、揃って確認する習慣がないのは困ったものね」


 他人事のように言う遥子にぼくも苦笑がちに頷く。


「まったくもって同意だけれど、きみもその一員だということを忘れずにね?」

「それもそうね」


 と、やはり彼女は他人事のようだった。

 またしばらく雨を眺めていたぼくたちだったけれど、遥子は少しだけ躊躇いがちに口を開いた。


「今日は、ありがとう。お父さんに会うのは、ちょっとだけ抵抗があったから柊くんがいてくれてよかった。悠子もあなたがいてくれた方が嬉しいでしょう」

「お礼を言われることじゃないよ。ぼくも悠子に会いたかった、きみのお父さんのことは、まあ、次いでだから」


 遥子と――そして悠子の父親は、検事だった。

 難しい試験を通って法律家になっただけあって、厳格な人だという印象を与える人だった。


 悠子も「門限が厳しい」と愚痴を言っていたことがあった。もっとも、遥子の方からすればそういう愚痴を言う機会はなかったのだろうけれど。


「お父さんもわかりやすいわね。悠子がいなくなったからって、私のことを引き取りたいだなんて。今更、今の奥さんが許さないでしょうに」


 遥子と悠子は、姉妹だった。それも腹違いの姉妹だ。

 歳も一つしか違わない二人が腹違いの姉妹だというからには、一種の過ちがあったからだ。


 二人の父親は、初めは遥子の母親と結婚していた。

 けれど、資産家の遥子の家とは政略結婚じみたお見合いでの縁組みで、彼としても不本意な婚姻だったそうだ。本当は、悠子の母親のことを愛していた。

 それを知ってしまった遥子の母親から別れを切り出され、夫婦の関係はあっさり消滅した。生まれたばかりの遥子は母親に育てられたが、その母親も若くして亡くなり、遥子は祖父母に育てられた。

 父親のことはほとんと知らずに育ち、たまに会いに来るスーツ姿のおじさんが自分の父親だということを知ったのは、中学校に入る頃になってからだそうだ。


 今日は、ぼくたちは悠子に会いに行った。


 あの日、前触れもなく死んでしまった彼女の家族に迎え入れられて、焼香させてもらった。

 二人の父親は、ぼくたちの帰り際に、遥子に言った。


「悠子も私の娘だが、遥子――お前も私の娘だ。それを忘れないでいて欲しい」


 遥子はこう答えた。


「一応、覚えておくわ。でも、きっと意味のないことでしょうけれど」


 それは遥子なりの柔らかな拒絶だったのだろう。冷たいようにも聞こえるけれど、遥子にとっては特段変わったことではなかった。

 彼女はいつも、ほとんど誰に対してもそうだから。


 ぽつりとぼくにだけ、本音を呟く。


「……お父さんも悠子が死んで寂しかったんでしょうけれど、私は今の生活を続けるつもりよ」


 例え遥子が父親のところに行くと言ったって、彼女の祖父母は反対するだろう。放任主義的な癖に、それは遥子が側にいるという絶対の条件があってのことだから。一人娘が生んだ孫を、彼らなりに溺愛しているのかもしれない。


 ……例えば代表的なのは結婚だろうけれど、人間なにかしらの精神的な欠落があるもので、その欠落を埋めるために相手を求めるのだろうと思う。

 結婚に限った話ではなく、友人、兄弟、親戚、子供もそう言えるはずだ。


 遥子の父親は、悠子が死んだせいで埋まっていたはずの欠落が顕になっていしまったのだろう。

 だから代わりに遥子を引き取りたがっている。

 そう、ぼくには思えた。


 身勝手だとは思うけれど、欠落を埋めたがるのは人間の本能的なものなのかもしれない。


 悠子が死んで、欠落が生じたのは二人の父親だけではない。

 ぼくたちだって、そうだった。

 悠子はぼくと遥子にとって特別な存在だった。


 家族や友人が死んだとしても、その生じた欠落は決して大きなものとは成り得ないぼくたちにとって、悠子はほとんど唯一の存在だった。


 ぼくたちは孤児のように元々与えられたものが少なくて、欠落の生じようのないはずだったのに、悠子という欠落に耐え難い苦しみを感じていた。


 遥子にとっての悠子は姉妹だった。

 ぼくにとっては、初めて恋した相手だった。


 高校生にもなって遅いと自覚しているけれど、家族にも感じられなかった愛情を抱いていた。


 彼女は高校の後輩だったけれど、それ以外に、付き合っていたとかそういう明確に定義づけられた関係性があったわけではなかった。

 彼女がぼくのことをどう思っていたのかは知らないけれど、ぼくは彼女とともに過ごす学校生活を好ましく思っていた。

 初めて抱いた感情の意味に戸惑ったこともあったけれど、悠子への好意を自覚して、月並みな言い方だけれど世界が変わったようでさえあった。


 ぼくにとって悠子という存在の意味は、でもそれだけではなかった。

 悠子は、遥子とぼくの関係を仲立ちしてくれていた。


 遥子はぼくの幼馴染で、小学校の頃から親しくしていた女の子だった。

 でも、親の仕事の都合で一時期地元を離れていたぼくは、遥子との関係性もまた断絶していた。その間、手紙のやり取りくらいはしていたけれど、当時のぼくにとっての遥子の存在は、関係性の実態のない相手になっていた。

 雲を掴むような感触で、その向こうに彼女がいるという実感がなかった。手紙という限られたやり取りでは限界だったのだ。


 親の仕事の都合で再びぼくがこの地に戻ってきた頃、遥子との関係性を失いそうになっていた。


 そうでなくとも思春期を迎えて、男女の垣根というものが生じていたぼくたちの間柄にとって、そのほんの数年の隔たりは想像以上に大きかった。

 話すことも少なくなり、共通の話題だって探さないと見つからなくなっていた。


 遥子の妹で、ぼくの後輩だった悠子はぼくたちの間を取り持ってくれた。


 悠子にとって遥子もまた、ぼくにとっての遥子のように隔たりを感じつつある存在だった。腹違いの姉妹は別々の場所に住んでいて、幼い頃でこそあった無邪気な関係性を続けられないでいた。

 遥子の方はともかく、悠子はそんな状況を望んではおらず、幼かった頃のような関係性に――いや、今度はちゃんとした姉妹としての関係性を築きたいと願っていた。


 ぼくと遥子、悠子と遥子の関係性の復元のような作業の末、消えかけていたそれらの関係性は紆余曲折あって元に戻っただけでなく、ぼくにとっては悠子を加えた三人の新しい関係性を築きつつあった。


 三人もいれば、いくつかの関係性が生じることになる。でも、そこから一人が抜けて残るのはたった一つだけの関係性。


 悠子は死んで、ぼくたちの関係性の枠組みから一人抜け出してしまった。

 誰にでも愛される、太陽みたいな女の子――。


 ぼくや遥子のような陰性の人間にとって、眩しいくらいの存在だった。

 いつのまに掛け替えのない存在になっていた彼女が――。


 そう、まさにするりと抜け出してしまったような呆気なさで、いなくなってしまったのだ。

 遠くを見るように、遥子は問う。


「悠子はどうして死ななければならなかったのかしら?」

「……交通事故だから、どうしようもなかったんだ」


 そんな本音でもないことを言っていた。錯覚なのはわかっているけれど、口の中に苦味を感じた。


「人の死って、意味のあるものにならないのね」

「意味のある死ってあるのかな。戦場で死にたい、舞台の上で死にたい――なんて映画なんかの登場人物なんかは言うけれど」

「でも、死んでしまうならなにか意味があって欲しいというのは当然の願望じゃないかしら?」

「……そうだね。そうでないと、誰も報われない」


 でも、悠子の死に意味があるとしたら、どういうことだろう?

 突然の交通事故で死んだ彼女には、奪われた命の意味を与えられることもなく、ただ無情に一生を終えさせられただけだ。


 意味があって欲しいというのは、あくまで生きている人間の願望でしかない。戦場で死にたい兵士、舞台の上で死にたい役者。彼らも生きているからこその願望だ。


 死んだ人間にとって死の意味なんてない。

 唯物論的な発想かもしれないけれど、そこにはただ静寂があるだけだろう。死後の世界なんてものが空想の産物で、悠子に安らぎがあることは幸いだった。


 死の意味を付与するのは生きている人間の役割だ――そうは言っても、ぼくは悠子の死に意味なんて見出したくもなかった。

 この欠落が産む苦痛になにか意味があるなんて、とても思えない。


「――それでも悠子が自分の死に意味を見出すとしたら、どういうことだと思う?」


 遥子のその残酷な問いに、「わからない」とぼくは首を振った。


「私にもわからないわ」


 彼女もまた小さく首を振った。


 ――その雨は、終わりのないもののように振り続いた。

 冷たい雨に濡れたこの瞬間の連続で、いつのまにか繋いでいた遥子の手の温もりだけがわずかな安らぎだった。

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