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短編作品

余命宣告を受けた私は今日も笑う。

作者: 伊勢


サラサラと流れるその髪に目を奪われた。


月明かりに照らされて青白くも美しい陶器のような肌は艶めかしく、夜の闇に溶けて靡く長いその髪は月光を反射し燐光を放つ。きっと陽の下で見れば今とはまた違った濡れ羽根色の輝きを見せることだろう。

背後に佇む満月の黄金を溶かし込んだかのようなその瞳の中心には、血のように赤い瞳孔が縦に割れていた。

整いすぎた顏は、長い髪によって右側が隠れていたがチラチラと髪の隙間から見えるその顔には不釣り合いなほど歪な傷跡があった。それでも彼の魅力を微ちりも損なうことはなく寧ろより一層の魅力を放つのだから、不思議なものだ。


突然、部屋の中に現れたその男に驚くよりも先に完成された1枚の絵画のようなその情景に私は息を飲んだ。

死の間際、現れたその人はきっと死神と呼ばれる存在なのだろう。余命宣告を受けたのはつい3ヶ月前の事。

医師に宣告された日よりも、うんと早い今日この日がどうやら私にとって最後の日だったらしい。


…正直、死ぬのは怖い。


どんなに覚悟を決めていたとしても…やはり、自分が自分でなくなる瞬間というのは酷く恐ろしく感じた。

もうすっかり感覚のない筈の指先が震えた様な気がした。


それは恐れか、

それは悲しみか、

それともは悔しさか…


俯きそうになる視線をそれでも私はしっかりと上向けた。

でも…こんなにも美しい人に連れていかれるのならば死ぬのも案外悪くないかもしれないな。なんて、そう思える自分がいる事に安堵と共に恐怖心は溶けて消えた。肩に入っていたであろう力を抜いて、ゆっくりと一つ深呼吸。


恐怖は、もうない。

緊張も、悲しみもない。

憐れみも、憎しみもない。


負の感情なんて先程の呼吸とともに全て吐き捨てた。

胸に残るのは暖かな記憶と感情。

穏やかな気持ちで、今までの幸福を胸に。


ーー私は笑おう。


今度こそしっかりと顔を上げて、無表情で佇む死神に私は万遍の笑みを贈るのだ。



「今晩わ、死神さん」





医師から余命宣告を受けた。


最近体が妙に重だるく、微かに手足の痺れがあった。

疲労からくる一時的なものかと思っていたが症状は悪化していくばかり。家の者にもついには気付かれてしまい高いお金を払ってまで医師を呼ばれてしまった。

私の家はそれほど裕福な家では無いというのに。

父が呼んだ真っ白な髪と髭を生やした好々爺然とした優しそうなお医者様。その医師は私の病状を確認していく内にその顔を少しずつ陰らせていった。

その顔を見て私は長くないのだなと、嫌でも悟った。

その表情だけで十分だと言うのに、医師は心痛にそれでもハッキリとその言葉を…絶望の縁に突き落とす言葉を紡いだ。


ーー少なくとも半年、長くても1年は持たないだろう…と。


その言葉に泣き崩れる母。

どうにかならないのかと医師に詰寄る父。

そんな両親の姿に不安と混乱に瞳を揺らすまだ幼い弟。

医師は「残念ですが…」と言い、辛そうに瞳を伏せるだけ。

絵に書いた様な悲劇を体現する彼らの姿を私はただボンヤリと、まるで壁1枚挟んだ先の出来事のようにそれを眺める。私は、正直こうなるのではないかと心のどこかで思っていたのだろう。自分でも不思議な程に、その事実を受け入れていた。寧ろ掛けたピースがストンと胸の内にはまるかのように納得してしまっていた。

いつ死ぬのか、明確な時期は分からなかったけれど…。

それでも確実に、近い内にこうなることだけは分かっていた気がするのだ。


私は今…どんな顔をしているのだろう?




医師が来てから数日がたった。


家の中には未だにどんよりと重い空気が漂っている。

その中で私だけはのんびりとベットの上で刺繍を刺していた。何故それほど好きでもない刺繍を刺しているかと言うと、心配する両親が何もしなくていいと私を部屋に閉じ込めたから暇で暇で仕方がなかったからだ。

ついこの前までは、体調が悪いとはいえ家の手伝い等の仕事はしていたのに。お前は病気だから、もう余命幾ばくもないのだから何もせずにいろと…そう言って、何もかも取り上げられていきなり部屋に閉じ込められたのだ。

両親は私のことを思ってしたことなのだと、分かってはいるのだが…寧ろ気が滅入ってしまってダメだった。

何よりも私は…彼らにあんな悲しい顔をされたくなかった。

同情を、哀しみを、憐れみを込めた瞳で見られたくなかった。


お前は死ぬのだとその事実を受け入れろと突き詰められているかのようで…その瞳はグサグサと私の胸を突き刺すのだ。


正直…とても、辛い。


はぁ…と重い溜息がまた1つ零れ落ちた。

何度目の溜息か、もはや数えることすらもしなかったが既に両手足の指では足りない程ついた気がする。

その時チクリと指先に痛みが走った。


ーーそういえば、刺繍をしていたのだった…。


元々器用とは言い難く、オマケに手の痺れが残る私にはまともな刺繍なんて出来る訳が無いのだけど。

それでも他にやることも無く暇だからとしていれば案の定、指を刺してしまった。

じわりと滲んだ赤い血が布に染み込み広がってゆく。

その様子をぼんやりと見詰めながら指先をそっと口に含めば鉄臭い血の甘い味が広がり、ジンジンとした痛みが指先から伝わってくる。いつの間にか視界は滲んで何も見えなくなっていた。どうやら私は泣いているようだ。

けれど、痛みで泣いている訳では無い。ただ…


まだ、私は生きているのだと。

指先から溢れる痛みに、少し嬉しくなっただけ。


…そうだ、私は何をしているのだろう?

まだ、私は生きてるのに。

どうして、こんな無意味な時間を過ごしているのだろう?

ねぇ、まだ身体は動くでしょう?

ねぇ、まだ私は息をしているのでしょう?

胸の鼓動はなんだか少し早いけれど、それでもしっかりと音を刻み血を通わせているでしょう?

こんな、ベットの上で寂しく死を待つだけなんてそんなの嫌だ!グイッと袖で涙を拭い、俯いていた顔を上げる。


窓の外に視線を向ければそこには美しい群青の空が拡がっていた。


憐れみはいらない。同情も、心配も私は要らない。

最後まで、私は私らしく生きていたい!

やりかけの刺繍を放り出し、私はベットから飛び降りた。

部屋の鍵は幸いかかっていない。ドアを開けて、外へと走り出す。途中、誰かの驚いた声や悲鳴を聞いた気がするけれどそんなことどうでもいい。

ただ、只管に私は足を手を動かして駆けてゆく。

陽の光が指す道をただ前へと走り続けた。


ゼェ、ハァ…ゼェ、ハァ…


息が苦しい。


ズキズキ、グサグサ。


足が、全身が痛い。


ドクンッ、ドクンッ!


動悸が激しく脈打ち、気持ち悪さに今にも吐きそうだ。


それでも私は足をとない。

ずっと走り続けた先、木々を抜けたそこに広がるのは一面に広がる草原だった。日が沈み、茜色に染ったその場所で漸く足を止めた私の頬を爽やかな風が励ますように撫でていった。私の髪を揺らすその風が、なんだかとても嬉しかった。


私はまだ、死んでいない。


暫くして、私の後を追って来たのだろう。

息を切らした両親が眦を釣りあげて私に近付く。

勝手に家を飛び出したのだ、怒って当然だろう。


しかし、次の瞬間には悲しみの光を湛えた瞳で私を写す彼らにズキリと胸が傷んだ。


「待ちなさいっ!どこへ行くの?あんなに走って、体は大丈夫なの?あなたは、もう…っ、」


怒りは心配に。そして悲しみに歪み瞳を揺らす。

母さん、そんな目で見ないでよ。私は…


「ねぇ母さん、私は死んでないよ。まだ、生きてる」


ポツリと零れ落ちたその言葉に、瞠目する母の姿。


「父さん、私…同情も、憐れみも要らないの。これから死ぬとしても、それでもまだ…私は生きてるから」


グッと何かを耐えるように歯を食いしばった父は堪らずと言ったふうに声を上げた。その声はいつのも自信に満ち溢れた力強い声ではなく、喉から漸く絞り出したかのようなとてもか弱いものだった。


「お、俺たちはただ心配してるだけだろう!お前が大切だから、愛しているからっ…!お、俺たちはお前を憐れんだりしてる訳じゃ、ない…!」


私の言葉に立ち尽くす両親の姿が、草原と同じ茜に染る。

きっと私も、同じように染まっている事だろう。上を見上げれば、夜の訪れを誘うように茜から紺色の空が広がっていた。遠くには、気の早い星がキラキラと輝き始めていた。


キラキラ

キラキラ


あの星のように、私はまだ生きてここにいる。

いつか消えてしまう光だとしても。

それまでは、共に居てあの星のように応援して欲しいんだ。


「私…私ね、死ぬのが怖い。まだ、死にたくなんてないっ!

でも、お医者様が言ったようにきっともう長くないんだと思う。何となく…そんな予感はしてたの。

もう、ずっと前から体が言うこと聞かないの。息が苦しくて、手足が痺れて、最近じゃ目も少し霞んできてるみたい。味も香りもよく分からない。でも、でもね…まだ生きてる。だから、悲しまれながら、同情されながら…悲嘆にくれながらなんて生きたくない。そんな悲しい思いで私は死にたくない!

…ねぇ、父さん。母さん。

私は死ぬために産まれたんじゃないよ、生きるために産まれたの。だから、これからも精一杯生きようと思うの」


笑みを浮かべて語れば、両親はいつの間にか泣いていた。


泣かせているのは自分だと分かっているのに、これ以上語ればもっと泣かせてしまう、悲しませてしまうと分かっているのにどうしても言葉が止まらない。


ねぇ、私を見て。

ねぇ、話を聞いて。

ねぇ、私の想いよ2人に届け。


ーー私はまだ、皆といたい。


「それにほら、私は『お転婆』で『じゃじゃ馬娘』なんでしょう?部屋に閉じ篭ってるだなんて私らしくないもの!

悲しいことがあっても、常に笑顔でいろって言ったのは父さん達だよ!」


「ねぇ、母さん。また一緒にご飯作ろうよ。まだまだ母さんの料理食べたいし、一緒に作りたいな」


「ねぇ、父さん。また一緒に山や川へ行こうよ。今度は弟も連れてさ、沢山の事を教えてよ。それに、父さんの武勇伝もまだ全部聞いてないしさ」


日が沈み、闇が世界を覆う。

闇は怖い。何も見えず、何も感じられない。


でも、大きな月が夜の闇を照らしてゆくから恐れず進もう。


「沢山、話をしよう?楽しい話も悲しい話でもなんでもいいよ。父さんと母さんが私を忘れないように。

私が皆のことを忘れないように沢山話して、美味しい物食べて、沢山出かけよう。きっとその方がうんと楽しいから!」


私らしく、いつもの笑顔で。


伝われ。

伝われ、私の気持ち。

どうか、受け入れて。


死に瀕する私ではなく、今を生きる私を信じてよ。


「っ、そうだな。余命宣告がなんだ!お前はまだ生きてるってのに、先の事ばかり悲観して閉じ込めて…すまなかった」


娘の私に頭を下げて父は笑う。いつもよりも少し涙目だったけれど、それは私の好きな父の顔だった。


「ごめんね、ごめんね…あなたの言う通り沢山、話をしましょう。それにまだ、教えてないレシピもあるのよ?それも全部、一緒に作りましょう。でも、無理はしない事!辛くなったら直ぐに言うこと!あなたは昔から直ぐになんでも隠すんだから!!…これは忘れないで。子供を心配しない親はいないんだから、ちゃんと伝えてちょうだい。分かった?」


ボロボロと泣きながら、いつもと同じ声で私を叱る母。

医師が来てからは見られなかった重苦しい声でも、悲しみにくれた瞳でもない。大好きな、暖かな笑顔を浮かべる母は私をそっと抱きしめてくれた。


「うん、私も…言わなくてごめんなさい」


じわり…涙が滲む。

もう、悲しみの涙ではない。

もう、悔しみの涙ではない。

嬉しいから泣くのだ。

この先がどんなに短い命だとしても、私は私らしく生きよう。両親の暖かな抱擁に包まれて、私は笑う。

空には満天の星空が広がっていた。

まだ、離れるには早い。

だから、ぎゅっと手を繋いで笑顔で私達は足を踏み出した。

絶望への道ではない。まだ見ぬ幸福へと進んで行こう。

私は1歩、暗闇に足を踏みだす。


大丈夫、私はもう一人ではないから。


「さぁ、家に帰ろう」





チクタク

チクタク…


時計の針は進む。

あれから、一月が経った。


「おはよう、体調はどう?」


「母さん、おはよう。大丈夫だよ」


ベットに座る私に、母は心配そうに問う。

ここ最近、私はどうやら眠りが長いらしい。

自分ではよく分からないけれど…今日も2日ぶりの起床との事。いつ、このまま一生起きない眠りに堕ちてしまうのかと自分でも不安だけれど、私は笑顔で答える。

なるべく、心配はさせたくないから。

起きていられる間は出来るだけ家族と共にありたいと思う。


「無理してない?」


「うん」


「なら…これから料理をするのだけど、手伝ってくれる?」


「もちろん!」


「ふふ、ならお父さん呼んでくるから…あぁ、その間に着替えちゃいなさいね」


「はーい」


今の私は、残念な事に1人では歩けなくなっていた。

何とか立つことは出来る。

でも、足の感覚が鈍く上手く動かすことが出来ない。

微な痺れから軽い痙攣に変わった指先はあれから少しずつ感覚がなくなっていった。

少しずつ、少しずつ…こうして、私の体は動かなくなっていくのだろうか?じわじわと死の恐怖に蝕まれてゆく感覚はやはりとても恐ろしい。


ーーそれでも私は笑顔でいよう。


大丈夫、無理はしてない。

大丈夫、今日も目が覚めた。

大丈夫、私はまだ笑えているよ。

大丈夫、もう恐くない。


大丈夫、大丈夫…


「あ!おねーちゃん!」


「おはよう!可愛い我が弟よ!」


駆け寄ってくる幼い弟は、今日も愛らしい笑顔で私に抱きついてきた。ギュッと小さな体いっぱいで抱きしてくる弟を少し前までは、抱き上げてあげられたのに…今はもう出来ない代わりにぐしゃぐしゃと頭を撫でてあげる。


「可愛くないもん!僕はかっこいいが良い!」


「勿論どこの誰よりも勇ましくかっこいいよー!」


「へへっ!お寝坊なおねーちゃんもかっこいいよ!」


弟は…どこまで分かっているのだろう?


ふと、そんな事を思う。

余命宣告を受けた日、弟も傍に居て医師の話を聞いていた。幼い彼にどこまでその話が理解出来たか分からないけれど…きっと理解できない分、何か感じてはいるのだろう。

最近の弟は、私が目覚めると直ぐに部屋へと駆けつけてくれて手を引いて歩いてくれるから。


「お寝坊は余計だよ」


「ほんとだもん」


その言葉に思わず苦笑が漏れた。

いつもの会話、いつもと同じ弟の笑顔。

ゆっくりと私の手を取って、横に並んだ弟はこれまたゆっくりと私に合わせて歩き出す。

もう、私の手から弟の柔らかくて温かい手の温もりを感じることは出来ないのが残念でならない。

きっと、私の手は…


「お姉ちゃんの手はいつもとっても温かいんだ。僕、お姉ちゃんの優しい手がねずっと…ずっとずっと大好きだよ」


じっと私を見詰めて、私の考えてる事をまるで感じ取ったかのように弟は真剣な顔で嬉しそうにそういった。


あぁ、この子は…


「…ありがとう、私も大好きだよ」


「えへへっ」


優しくて可愛い私のまだ幼いはずの弟。

賢い君は全部、分かってるんだね。


ーー優しい君がこのまま真っ直ぐ育ってくれるといいな。





ザアザア…

数日前から降り出した雨は強く窓を叩き揺らしていた。

そんな中、私はベットに寝そべり五月蝿いほどに鳴り響く雨の音に耳を傾けた。


ーー余命宣告を受けた日から2ヶ月が経った。


私は、もう立ち上がることも出来なくなっていた。

下半身の感覚がなく、一月前よりもずっと眠る時間も増えている。お陰ですっかりベットの住人だ。

味覚も鈍くなってきており、何を食べても味を感じることが出来ない。まだ私は、母の料理の味を覚えていたいのに。

あんなにも毎日食べていた味を、もう上手く思い出せない。

それが悔しくて悔しくて仕方がなかった。

でも…まだ私は笑えるはず。

笑え、私らしく生きるってあの時に決めたから。

最後の瞬間まで、私は笑顔でいるんだ。


大丈夫、頬を流れるこの雫は雨のせいだから。

大丈夫、私はまだ笑ってるよ。

大丈夫、悔しくなんてない。

大丈夫、まだ大丈夫。


大丈夫、大丈夫…





コンコン


「あぁ、起きていたのか。調子はどうだ?」


ノックの後に部屋に入ってきたのは私の父だった。

雨のせいで薄暗いとはいえまだ昼間の時間、しかも午前のお茶の時間を少し過ぎた時間に訪れるとは珍しい。

いつもならまだ執務室で仕事をしている筈なのに…さては、また抜け出してきたな?と父を見れば、そっと横に目を逸らされた。見た目通り体育会系の父は書類仕事がとても苦手で、時折こうして逃げ出すのは最早恒例行事だったりする。

因みに、母と仕事の補佐をしてくれている父の友人兼秘書さんに延々と説教されるまでがセットだ。


「平気だよ、少し…暇だけど」


ジトーっとした視線を向ければ、私の視線から逃れるように何とも態とらしく話を逸らしていく。


「あー…奇遇だな。俺も今暇なんだ!よしっ、特別に俺の秘密の部屋を案内してやろう!まだ誰にも教えてないんだぞ?」


そう言うと、上背のある父はもう成人近い私を小さな子供を持ち上げるようにいとも簡単に軽々と抱き上げた。

父の太くがっしりした腕に座らせられた私の上手く動かない腕を父は己の首にそっと回すと、ゆっくりと歩き出した。楽しそうにシーっと唇に指を立てて部屋を後にする。


…どうやら、私は無理やり共犯者にされるらしい。


「…母さんに見つかったら怒られるよ?」


「大丈夫大丈夫!母さんは今部屋で刺繍を刺してる。ちょっとだけだ、ばれなきゃ平気さ!ハッハッハ!」


「父さん、声が大きいよ」


「おっと…シーっ!」


だから、声が大きいって…。


「あれ、お姉ちゃん?」


「お?息子よ、お前も今暇か?」


「お姉ちゃん、おはよう!どこか行くの?」


「おーい、聞いてるかー?」


上背もあれば声も大きい父は、早速弟に見つかってしまったようだ。これは…母にバレるのも時間の問題だろう。

そもそも、全く隠れる気がない父である。

そんなだからいつもすぐに見つかって長い説教を食らうというのに全く、懲りない人だ。

そんな父を尻目に、トテトテ!と可愛らしく走りよってきた弟は私を抱き上げる父を華麗にスルーして私に尋ねてきた。幼いながらもとても賢い弟の事だ、どうしてこの時間に父がいるのか既に検討がついているのだろう。


「何処だろう?父さんの秘密の部屋だって」


「なぁなぁ」


「秘密の部屋?僕もついて行っていい?」


「あれ?俺声出てるよな?」


「勿論!よーし。なら、皆で探検しようか!」


「うん!」


瞳をキラキラと好奇心でいっぱいに輝かせて、私へ手を伸ばす。残念ながら、父に抱き上げられた私の手には少し届かなかったけれどそんな弟を直ぐに父が抱き上げた。


「息子よ、何故に父には聞かないのか…?というか無視するなよ、父泣くぞ?」


「さぁ、しゅっぱーつ!」


「おー!」


右腕に私を、左腕には弟を抱き上げて父は渋々歩き出した。秘密の部屋を探しに、父さん号に乗って探検だ!

腕は上手く動かないし、もう下半身の感覚はないけれど。

父の肩越しに弟の手がしっかりと私の手を握りしめていることだけ分かった。

それがとても嬉しくて、楽しくて…。

たまには仕事を抜け出してきた父と、雨の日の探検も悪くないと思った。まぁ、父に関しては母と秘書さんから後ほどこっぴどく怒られるのだろうけど。


ーー今日も私は笑う。


体は動かないし、味を感じることは出来なくなったけれど。大丈夫、私は今日も楽しく生きている。



「…子供達が俺に冷たい、シクシク」





ポカポカとした陽気が体を包む。

弟と2人、窓辺に置いたソファーの上で日を浴びながら窓の外を眺めていた。外では、屋敷を囲む木々がゆっくりと秋支度を初めていた。ハラハラと舞い落ちる木の葉は緑から黄色や紅色に茶色へと色を変えて地面に絨毯を敷く。


今日は少し肌寒いね、と弟が言う。


そうだねと、返すが私にはもう陽の暖かさも肌を撫でる風の擽ったさも何もわからなかった。

最近では口を動かすのも億劫で、もっぱら弟とは目で会話をする。弟は不思議と私の心が読めるようで、的確に声を返す。両親はそんな弟を羨ましげに見ていて、弟はこれみよがしに胸を逸らして自慢げに笑っていた。


ーー余命宣告から、3ヶ月。


私は、少しも動けなくなっていた。


瞬き一つ、上手く出来ない。

痛みも、苦しさも何も無いけれどそれが余計に恐ろしい。


じわりじわりと、真っ黒なインクが真っ白な紙を汚すように

じわりじわりと、私を蝕むこの病は

じわりじわりと、私の心すらも冒そうとしてくる。


次に目を閉じたら今度は開けることは出来ないのかもしれないと、常に恐ろしさが寄り添う。


…怖い。


ううん、弱気になってはダメだ。

私はまだ、生きているじゃないか。

隣に居るのは恐ろしさではない。

隣に居るのは死ではない。

大丈夫、怖くないよ。

君がいてくれるから、私はまだ大丈夫。


いつからか、弟はずっと私のそばにいる様になった。

ずっと、手を繋いで隣で笑ってくれているようだった。


…ごめんね、もう君の顔もよく見えない。


「お姉ちゃん」


でも…私はまだ大丈夫だよ。

まだ、大丈夫なの。

だって、まだ生きてる。

きっとまだ私は笑えるはず。

きっとまだ私は笑ってるはず。


大丈夫、大丈夫…


「僕がそばに居るよ」


大丈夫、そうだね。私の隣には君がいる。

両親も最近ではそばに居てくれることが増えた。


大丈夫、私は1人じゃない。

大丈夫、大丈夫…


「そう、大丈夫だよ」


うん、私は大丈夫。


「お姉ちゃんはまだ笑えてるよ」


うん、私はまだ笑えてる。


「とっても綺麗な笑顔だね」


うん、君もとっても可愛いくてかっこいい笑顔だよ。


「僕の大好きなお姉ちゃんの手はまだ暖かいんだ」


うん、君の手もとっても柔らくて暖かい事を私は覚えてるよ


「大丈夫、お姉ちゃんを1人になんてしないよ」


うん、ありがとう… そうだね、私には君がいる。


「大丈夫、安心してね」


うん、君がいてくれてよかった。


「大丈夫、お姉ちゃんが眠っていても僕が手を繋いでてあげるから」


うん、離さないで繋いでいてね。


「大丈夫、だから…泣かないで」


うん…もう、泣いてないよ。


「大丈夫、大丈夫だよ。お姉ちゃん」


うん…うん…


「お姉ちゃん、寝るの?」


うん、少し。少しだけ眠い、かな。

大丈夫、また目を覚ますから。


その時はまた、おはようって抱きしめてね。


「うん…おやすみ、お姉ちゃん」


おやすみ…。



目を閉じた私の姿を、弟だけが静かに見詰めていた。

君は今、どうな顔をしているのだろう?




月光の優しげな光が瞼を覆う。


頬を擽る微かな風の冷たさに

鼻をかすめる優しげな香りに

体を覆う布の温かさに

誰かが私の手を握る重みに


ーー目が覚めた。


あんなにも重かった瞼が自然に開く。

感覚のなかった体はいとも簡単に、思うように動かすことが出来た。驚きつつも、ゆっくりとベットから体を起こす。

手を引かれる感覚に目を向ければ、そこには私の手をしっかりと握りしめながら眠る私の可愛いまだ幼い弟の姿。

弟は、どうやらずっと私の手を繋いでいてくれたらしい。

よく見ればそのふくふくとした頬にはいく筋もの涙の跡がある。


あの時。目を閉じる少し前、私に泣かないでとこの子は言ったけれど… もう泣けない私の為に君が泣いていたんだね。


ありがとう、代わりに泣いてくれて。

ありがとう、ずっと手を握ってくれて。

ありがとう、隣にいてくれて。

ありがとう、私の弟になってくれて。


ーー君が弟で、私は幸せ者だね。


こんな私に寄り添い続けてくれた君がこれから先ずっとずっと幸せでありますように。


ありがとう、私はお陰で幸せだったよ。

君のお陰で、私は今笑えているよ。


ありがとう。

大好きだよ。


「さよなら、私の大切な家族」


起こさないように弟の体をギュッと抱きしめる。

長いくも短い時間抱きしめていれば、ふわりと弟は嬉しそうに微笑んだ。つられて私もふわっと笑みが落ちる。

ゆっくりと体を離して、いつの間にか部屋の中に佇むその人に目を向ければ彼は何も言わずにただ私へ手を差し伸べる。


私は一瞬躊躇うも…笑顔でその手を握った。

月明かりに照らされて、美しいその人は微かに微笑んだ気がした。


「今晩わ、死神さん」


『…お疲れ様、よく頑張ったね』


そう、声が聞こえた気がした。

目の前の彼は未だに無表情で、そんな優しい言葉を吐くようには思えなかったけれど…その瞳だけはとても優しく輝いていた。


先程まで、微かに残っていた恐ろしさはない。

死ぬのが怖かった。

私が私でなくなるから。

大切な人たちを残して行くのが恐ろしかった。


ーー3ヶ月前、私は余命宣告を受けた。


もうすぐ死ぬのだと、絶望した。

己の不幸に悲観した。


悲しかった。

辛かった。

悔しかった。

苦しかった。


でも、私には家族がいたから。

私は、最後まで自分らしく楽しく生きられたと思う。


死ぬのは怖い。

それでも私は笑う。

私を愛した彼らの為に。

私の愛する彼らの為に。

私は笑顔でいよう。


ーーさよなら、今までとても幸せでした。


どうか、あなたもいつまでも笑っていて。

君の記憶の中で、私は生きるから。




笑顔の私を覚えていて。









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