トキジクノカクノコノミ ~白い花~
「こんにちは」
戸を開けると、見知らぬ人がニコニコ微笑みながら立っていた。
私は取り敢えず、ゆっくりと戸を閉めた。
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橘と暮らし始めてから、二年が経った。
冬の寒さも和らぎ、少しずつ春の暖かさを感じるようになった頃。
朝
いつも通り橘は畑へ野菜を採りに行き、私は橘の暮らす家でお粥作りの準備をしていた。
ちょうど其の時、外から戸を叩く音が聞こえて来た。
毎日、穏やかな日々を過ごしていたせいで気を許していたのかもしれない。
私は何も考えずただ『橘が帰って来たのだろう』と思い、戸を開けた。
戸を開けると、見知らぬ人が立っていた。
私は思わず、戸を閉めた。
そして、考えた。
橘は、今まで戸を叩いて帰って来た事など無かった。
抑々、橘が戸を叩く必要など無い。
此処は、橘の家なのだから。
次に考えたのは、『人間が道に迷って、此処に辿り着いたのかもしれない』と言う事だった。
でも大江山にある此の家の周りは橘が結界を張っているから、普通の人間は此処まで来る事は出来ない。
次に考えたのは、『少し力のある陰陽師が、橘を退治しに来たのかもしれない』と言う事だった。
でも、どう見てもあの人は陰陽師には見えなかった。
私が知っている陰陽師とは、違っていたからだ。
あの人は・・・。
何と言うか・・・。
純粋で・・・。
優しそうな人だと思った。
一瞬見ただけだったから本当に『そう』なのかは分からなかったけれど、何となく『大丈夫だ』と思った。
私は意を決して、恐る恐る戸を開けた。
其の人は家から出て来た私の顔を見ると、嬉しそうに笑った。
私は、目の前でニコニコ笑って立っている此の人をじっくりと見てみた。
男性物の衣服を身に付けてはいるけれど、見ただけでは此の人が男性なのか女性なのか判断出来なかった。
私が暫く見ていると、其の人は微笑みを残しながら少し困った顔で言った。
「実は・・・朋友と逸れてしまったのです・・・。
迷惑だと言う事を承知で申し上げますが・・・。
あの・・・。
朋友が見つかるまで・・・此処に居ても宜しいでしょうか・・・?」
其の声を聞いて、私は少し驚いた。
想像していたよりも、此の人の声は低かった。
だからと言って、男性とも限らない。
私は此の人の正体が未だに謎であると言う事と、此の人の突然の申し出に戸惑い悩んだ。
柔和な表情と温かい声色から、此の人の人柄を知る事は出来た。
けれど、未だに胡散臭さは消えなかった。
私は此の人から、何か『違和感』を感じていた。
困っている人を助けない訳にはいかないけれど、此の人が本当に『善い人』かどうかは分からない。
もしかしたら、見た目と違って極悪非道な人なのかもしれない。
簡単に此の人を受け容れて橘に迷惑を掛けてしまったら、私は死んでも死にきれない。
私が答えに窮して考えあぐねていると、此の人の後ろから橘の声が聞こえて来た。
「秋子。
誰だ?」
【鬼】の姿の橘は、少し警戒した表情で此の人を睨んで立っていた。
私は、橘の質問に答えようと口を開いた。
「誰・・・?
・・・誰って・・・」
私は橘から視線を外し、自分の目の前にいる困った顔をした此の人に尋ねた。
「誰ですか?」
すると、少し慌てた様子で此の人は答えてくれた。
「あ・・・。
申し遅れました。
≪私≫は、道仁と申します」
「道仁さん・・・」
男性だった・・・。
私は、再び橘に視線を向けて言った。
「道仁さんです」
すると橘は足早に私に近付き、私を隠す様に前に立って彼を睨み続けながら言った。
「秋子。
彼は、【人】ではない」
「え?」
私は驚き、彼の方を向いた。
確かに彼は、『存在しているようで存在していない』ようだった。
私が『違和感』を感じたのは、其のせいだったのかもしれない。
私は、橘の後ろから彼に聞いた。
「貴方は、もしかして【霊】なのですか?」
「【霊】・・・?
≪私≫は、【鬼】です」
「【ぐぅい】?」
私が不思議そうに聞き返すと、橘が説明してくれた。
「秋子。
宋では、【霊】の事を【鬼】と言う。
【鬼】と書いて、『グゥイ』と読む」
「宋・・・?」
私は、彼が着ている衣服を見た。
確かに初めて彼を見た時、見た事の無い衣服を着ているとは思った・・・。
なるほど・・・。
此の衣服は、宋のものだったのか・・・。
彼は宋から来たから、此の様な衣服を着ていたのか・・・。
ただ何故か、私は其の衣服に其れほど違和感を感じなかった・・・。
寧ろ、懐かしさを感じた・・・。
ああ・・・。
そうか・・・。
似ているのだ・・・。
日本の衣服に・・・。
彼が着ている衣服は、まるで簡略化された束帯(平安時代の貴族男性の装束)のようであった。
昔、日本は『遣唐使』を唐へ送り、唐の文化を持ち帰った。
唐の文化を基に、日本の文化は作られた。
唐の文化が、日本には残っている。
だから、彼が着ている衣服と日本の衣服が似ているのだ。
彼が宋から来たと言う事は、理解した。
けれど、彼が【鬼】とは・・・?
私は、少し混乱していた。
そして混乱している私を見て、彼はクスクス笑いながら説明してくれた。
「橘さんがおっしゃったように、唐・・・。
いえ。
宋では、【霊】の事を【鬼】と言います。
此の世に怨みや未練を残したまま亡くなった人間の『霊魂』は、【鬼】となって人間の前に現れる事があります」
「え!?
つまり道仁さんには、此の世に怨みや未練があると言う事なのですか?」
すると道仁さんは腕を組んで目を瞑り、少し考えた後に小さな声で答えた。
「いえ・・・。
其れが・・・全く思い当たらないのです・・・。
確かに生前、≪私≫は自分の『願い』をほとんど叶える事が出来ませんでした。
でも、其の事に怨みや未練など無いのです。
此の世は、自分の思い通りにいかない事の方が多いです。
『願い』が叶わないなど、其れは仕方の無い事なのです。
『願い』が叶わなかった事を、悲しいとも苦しいとも思っていません。
≪私≫は自分の思う通り生き、死ぬ事が出来ました。
≪私≫は、『善く生き』『善く死ぬ』事が出来ました。
≪私≫の人生に、悔いは無かったのです。
ただ・・・。
ただ・・・≪私≫が【鬼】として秋子さん達の前に現れていると言う事は・・・やはり此の世に未練が・・・あったのかもしれませんね・・・」
そう呟く道仁さんは、少し悲しそうだった。
もしかしたら道仁さんには、死ぬ直前に『何か』が有ったのかもしれないと思った。
思い残した『何か』が・・・。
心に残る『何か』が・・・。
其れにしても、【霊】が・・・【鬼】・・・?
日本では【霊】は【霊】であり、【鬼】は【鬼】である。
全く別物である。
しかし、宋では【霊】を【鬼】と書いて【鬼】と言う。
宋から色々な事が伝わって来たのに、何故呼び名が異なるのだろう・・・?
何だか良く分からない・・・。
私は、未だに混乱したままだった。
すると道仁さんは、口元に手を当てながら再びクスクス笑って言った。
「まだ混乱していますね」
「え!?」
私は自分が考えていた事を言い当てられて驚き、つい前に乗り出した。
すると橘は其れを制し、私をじっと見つめた。
そして私はまた元の位置に戻り、橘の後ろから少し顔を出しながら道仁さんに聞いた。
「宋の【鬼】は、心を読む事が出来るのですか?」
「いえ。
秋子さんの顔に書いてありました」
「え!?」
私は、両頬に手を当てて確かめてみた。
良く分からなかったけれど、違う意味で混乱している事は確かだった。
そんなに私の表情は、分かり易いものなのだろうか?
実家に居た頃、私は感情を出来るだけ表に出さないようにして生きてきた。
けれど橘と暮らし始めてからは、次第に自分の心に素直に生きる事が出来るようになっていった。
もしかしたら其のせいで、知らぬ間に心の動きが全て表情に表れるようになってしまったのかもしれない。
私は道仁さんに自分の心を言い当てられ、始めて其の事に気付き反省した。
感情が、表に出過ぎるのも良くないな・・・。
場合によっては、相手を心配させる事になる・・・。
気を付けなければならないな・・・。
反省する私を橘は更に自分の身体で隠しながら、道仁さんに強い口調で聞いた。
「何故、此処に来た?」
道仁さんは自分を睨み続ける橘に対して、申し訳なさそうに答えた。
「≪私≫の本体は宋にある白梅の木に在り、今、秋子さん達の目の前に居る≪私≫は其の白梅の花弁の一片・・・つまり、分身です」
すると道仁さんは一瞬だけ花弁の姿になり、再び【鬼】の姿に戻って話を続けた。
「朋友は、分身である花弁の≪私≫を此の国に連れて来てくれました。
しかし京に到着してから直ぐに強い風が吹き、花弁である≪私≫は飛ばされてしまいました。
≪私≫は其のまま風に吹かれて此の山に降り立ち、丁度此の家を見つけたのです」
道仁さんが言い終わると、私は橘の袖を引っ張りながら橘に聞いた。
「結界は、彼には効かないの・・・?」
「恐らく力も弱く花弁と言う自然物であったから、結界も効かなかったのだろう・・・」
「結界が、効かなかった・・・。
其れは、『道仁さんは、害が無い』と言う意味なのではない?
道仁さんが、悪い【鬼】ではないと言う証拠なのではない?
私には、道仁さんが悪い【鬼】には見えない。
道仁さんは、とても困っている。
道仁さんは、朋友が見つかるまでと言っている。
ならば朋友が見つかるまで、一緒に此処に住んでも良いのではない?
私が、道仁さんのお世話をするから・・・。
道仁さんには、私の家に一緒に住んでもらうから・・・」
そう私が提案すると、橘は少し怒った様子で答えた。
「其れは、駄目だ。
住むのであれば、私の家だ」
私は、橘の口調に少し驚いた。
私は、橘が何故不機嫌になったのか分からなかった。
でも取り敢えず、道仁さんが此処に住む事は承知してくれたようだった。
私は一歩前に進み、道仁さんの方を向きながら言った。
「道仁さん。
道仁さんの朋友が見つかるまで、此処で一緒に住みましょう」
道仁さんは少し目を見開き、そして戸惑いながら言った。
「・・・本当に・・・良いのですか・・・?」
「?」
「≪私≫を宋の【鬼】と知っても、此処に泊めて下さるのですか・・・?」
【鬼】
確かに、道仁さんは【鬼】だ。
其れは『普通』であれば、『普通』ではない事なのだ。
其れは『普通』であれば、『不思議』な事なのだ。
でも私は橘と出会ってから、『不思議』な事を『不思議』と思わなくなっていた。
『不思議』な事が、いつの間にか『普通』の事になっていた。
其れに此の【人】・・・。
いや。
此の【霊】・・・。
いや。
此の【鬼】・・・。
いや。
【道仁さん】は、とても『善い方』だと思った。
其れは、道仁さんが自然と醸し出す『優しさ』のせいなのかもしれない。
だから私は、はっきりと答えた。
「はい。
勿論です」
道仁さんは、とても嬉しそうに答えた。
「本当ですか!?
有難うございます!!」
道仁さんが微笑むと同時に、道仁さんから白梅の香りが漂って来た。
其の香りは、私達に温かさをもたらした。
此の日から、日本の【人】と日本の【鬼】と宋の【鬼】が一緒に過ごす事になった。
本当に、とても短い間だったけれど・・・。
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道仁さんは、自分の事を包み隠さず話してくれた。
話したくない事も沢山あるはずなのに、橘の警戒心を解く為に、私の不安を取り除く為に、道仁さんは全てを話そうとしてくれていた。
得体の知れないものは、誰でも恐れる。
道仁さんは、私達を気遣ってくれているのだと思った。
此れは、道仁さんの誠意の表れだと思った。
道仁さんは、自分が亡くなった時の歳を教えてくれた。
私は道仁さんが、私よりもずっと年上だったと知って心底驚いた。
私は道仁さんの其の姿から、絶対に道仁さんは私よりも年下だと思っていた。
やはり見た目は、あまり当てにはならない。
驚き悩む私を見て、道仁さんは嬉しそうに笑った。
道仁さんは私の反応と彼の朋友の反応が同じだと言って、本当に楽しそうに、懐かしそうに笑っていた。
彼の屈託のない表情を見て、私は『道仁さんの事を信用する事が出来る』と確信した。
道仁さんは、自分について語り続けた。
「≪私≫の父は今から三百年以上前、『遣唐使』として唐に渡り、唐の人間である母と一緒になりました。
そして≪私≫は唐で生まれ、唐で育ち、唐で死にました」
「道仁さんのお父様は日本の方で、お母様は唐の方・・・。
では道仁さんは唐の人でもあり、日本の人でもあると言う事ですね・・・」
私が何気なくそう言うと、道仁さんは少し嬉しそうな、そして誇らしげな顔で答えた。
「はい。
そうです」
「道仁さんが日本の言葉を話す事が出来るのは、お父様が道仁さんに日本の言葉を教えて下さったからなのですか?」
「はい。
そうです。
倭・・・。
いえ。
日本の言葉は、父が教えてくれました。
あ・・・。
≪私≫の話す日本の言葉は・・・おかしい・・・ですか・・・?」
道仁さんは、少し心配そうに私に尋ねた。
其れに対し、私は自分の思った事を素直に答えた。
「いいえ。
とても上手だと思います」
そう私が言うと、道仁さんは満面の笑みで答えた。
「有難うございます!
嬉しいです!
安心しました!
では、続けますね。
父が『遣唐使』として唐で学んでいた頃、『遣唐使』の派遣が中断されると決まりました。
しかし父は日本に帰らず、唐王朝に仕える事を選びました」
「何故、お父様は唐に残られたのですか・・・?
『遣唐使』が中断されると分かった時点で、日本に帰る事は出来たはずですよね・・・?。
唐から日本に帰って来た『遣唐使』は、朝廷で重用されたはず・・・。
日本に帰った方が良いと、普通なら考えるはず・・・」
すると道仁さんは少し目を伏せ、何かを思いながら答えた。
「・・・≪私≫も、何故、父が唐に残ったのかは知らないのです・・・。
父は、≪私≫に何も語りませんでした・・・。
ただ・・・恐らく・・・父は、母の為に唐に残ったのだろうと思います・・・。
しかし父は、≪私≫の前でも其れを言葉にしたくなかったのだと思います・・・。
自分が母の為に犠牲になったと、≪私≫に思われたくなかったのだろうと思います・・・。
たとえ亡くなった後でも、父は母を傷付けたくなかったのだと思います・・・。
父は本当に、母の事を愛していました・・・。
あ・・・。
母は、≪私≫が生まれて直ぐに亡くなりました・・・。
父は母が亡くなった後、一人で≪私≫を育ててくれました・・・」
「・・・」
「・・・父は決して口にはしませんでしたが、父は倭にもう一度帰りたいと・・・願っていたのだと思います・・・。
ああ・・・。
済みません・・・。
【倭】ではなく、【日本】・・・でしたね・・・。
≪私≫が生きていた時代も【日本】と呼ばれていましたが、≪私≫はずっと【日本】の事を【倭】と呼んでいました。
【倭】は、【和】に通じます・・・。
だから≪私≫は、【日本】ではなく・・・【倭】と・・・呼び続けたかったのです・・・。
≪私≫は、【倭】と言う名はとても美しい国の名だと思っています」
「【倭】が、【和】・・・。
確かにそう考えると、とても美しい名ですね・・・。
道仁さん。
【倭】と言う名で、続けてお話しして下さい」
私がそう言うと、道仁さんは嬉しそうに答えてくれた。
「分かりました。
有難うございます。
では、続けます。
父は母の死後も唐王朝に仕えていましたが病で体調を崩し、≪私≫が父の代わりに唐王朝に仕える事になりました。
そして父が病で亡くなって暫く経った後、『黄巣の乱』が起こりました」
「『こうそうのらん』?」
すると、ずっと黙っていた橘が私に説明してくれた。
「『黄巣の乱』とは、塩の密売人であった黄巣が唐王朝の圧政に苦しむ民を率いて起こした乱の事だ。
黄巣達は唐の都である長安を襲い、唐の皇帝であった僖宗を追い出した。
皇帝を追い出した黄巣は皇帝の位に就いたが、其の後、援軍を得た唐の軍に敗北した。
此の乱がきっかけで、唐王朝は衰退し滅亡した。
そして、都であった長安の繁栄も見る影も無くなってしまった」
静かに橘の話を聞いていた道仁さんは、悲しそうな表情をしながら言った。
「黄巣達が長安に差し迫って来た時、≪私≫は皇帝に諫言しました。
〖民を犠牲にし、力で抑えてつけて来たから乱が起きたのです。
此の声は、民達の苦しみの声です。
彼らの声を聞いて下さい。
彼らの苦しみを知って下さい。
彼らの願いに応えて下さい。
其の為には、決して力で以て乱を鎮めてはならないのです〗
と・・・」
すると橘は腕を組み、少し皮肉気に聞いた。
「其れで、皇帝は貴方の諫言を聞いたのか?」
道仁さんは、自嘲的に答えた。
「皇帝に諫言した後・・・≪私≫は・・・誰かに・・・殺されました・・・」
「殺された・・・」
私は、道仁さんが『殺された』と言う事実に驚いた。
こんなに優しそうな人が、殺されたなんて・・・。
いや。
優しい人だからと言って、憎まれない訳では無い。
善い人だからと言って、嫌われない訳では無い。
優しい人だからこそ、善い人だからこそ、怨まれる事もある。
道仁さんは、続けた。
「そして死んだ≪私≫の亡骸を白梅の木の下に埋めてくれたのが、今回≪私≫を倭に連れて来てくれた朋友です」
「?
道仁さんを日本に連れて来てくれた・・・朋友・・・?
では、道仁さんの朋友も【鬼】なのですか?」
「いえ。
≪彼≫は、【人】です」
「でも、道仁さんが亡くなってから三百年以上経っているのですよね?
三百年以上前に道仁さんの亡骸を白梅の木の下に埋めた朋友が、今回、道仁さんを日本に連れて来てくれた朋友であるのならば、【人】である訳がありません・・・よね・・・?」
すると、道仁さんは懐かしそうに微笑みながら答えてくれた。
「朋友・・・≪彼≫と出会ったのは、『黄巣の乱』が起こる数年前でした。
当時、唐王朝に仕えていた≪私≫は、ある時、宮中の庭に美しい白梅が咲いているのを目にしました。
あまりにも美しかったので≪私≫は庭に降り、其の白梅に近付き眺めていました。
其の時、『大夫(貴族)』であった≪彼≫が、≪私≫に声を掛けて来ました。
≪私≫は≪彼≫を見て、『恐らく≪彼≫は、≪私≫を揶揄う為に話し掛けて来たのだ』と思いました。
当時の≪私≫は、自分のもう一つの故郷でもある倭に憧れを抱いていました。
だから≪私≫は、少し倭を漂わせるような唐の衣服を好んで着るようにしていました。
≪私≫は、『奇妙な衣服を着る≪私≫を馬鹿にしに、≪彼≫はわざわざ話し掛けて来たのだ』と思いました。
案の定、≪彼≫の態度はとても無礼でした。
『大夫』であれば、何をしても何を言っても良い訳がありません。
『大夫』であろうとなかろうと、やってはならない事はやってはならないのです。
≪私≫は≪彼≫の無礼な態度に腹を立て、其の場を立ち去りました。
すると、次の日から≪彼≫は≪私≫の家に高価な贈り物を送るようになりました。
≪私≫には、≪彼≫が一体何を考えているのか全く分かりませんでした。
≪彼≫の目的が、≪私≫には一切分かりませんでした。
正直言って、迷惑でした。
だから≪私≫は、≪彼≫が送って来た全てのものを≪彼≫に送り返しました。
〖不要〗と書いた紙を贈り物に添えて。
其れが、暫く続きました。
そしてある日、≪私≫が宮中の蔵書室から書物を持って廊下を歩いていた時、≪私≫は再び≪彼≫に見つかってしまいました。
≪彼≫は≪私≫に気が付くと、走りながら≪私≫に近付いて来ました。
≪私≫は、『きっと贈り物を送り返す≪私≫に、≪彼≫は文句を言いに来たのだ』と思いました。
≪私≫は一方的に贈りものを送って来る≪彼≫に、文句を言われる筋合いはないと思っていました。
≪私≫は、≪彼≫と関わり合いたくありませんでした。
≪私≫は、足早に其の場を立ち去ろうとしました。
しかし思いのほか持っていた書物が重過ぎて速く走る事が出来ず、直ぐに≪彼≫に追い付かれてしまいました。
≪彼≫は、≪私≫の目の前に立ちました。
≪私≫は、≪彼≫を見ました。
≪彼≫は、息を切らしていました。
≪彼≫は、大粒の汗を流していました。
そして≪彼≫は、とても嬉しそうに微笑んでいました。
≪私≫と会えた事が、本当に嬉しいかのように微笑んでいたのです。
≪彼≫の其の姿を見て≪私≫は、
『≪彼≫はもしかしたら、≪私≫の事を探し続けていたのかもしれない』
と考えました。
しかし、其の考えは直ぐに取り消しました。
『そんな事は無い。
≪私≫に会えた事で、何故≪彼≫が喜ぶのか?
理由が、無い。
≪彼≫が喜ぶなど、有り得ない』
≪私≫は、≪彼≫の真意を探ろうと≪彼≫を見続けました。
すると≪彼≫は、初めて会った時と同じように・・・。
いえ。
あの時よりも・・・少し・・・優しく・・・そして・・・心配そうに・・・≪私≫に聞きました。
〖私の事を、覚えているか?〗
と・・・。
≪私≫は≪彼≫の態度と言葉に戸惑うと同時に、毎日送られて来た贈り物を思い出し怒りが込み上げて来て、嫌々ながら答えました。
〖あんなに毎日贈り物を送り届けられては、忘れない方が無理ですよ。
とても迷惑でした〗
と・・・。
すると≪彼≫は、再び嬉しそうに微笑みました。
≪私≫には、≪彼≫が微笑む理由が分かりませんでした。
≪私≫の態度は、『大夫』である≪彼≫に対して非礼であるはず。
其れなのに、何故≪彼≫は≪私≫を罰しようとしないのか?
何故≪彼≫は、嬉しそうに笑うのか?
≪私≫は、混乱しました。
≪私≫はどうして良いのか分からず、其の場を早く立ち去りたいと思いました。
≪彼≫から、離れようと思いました。
しかし≪彼≫は、其の後も≪私≫に話し掛け続けました。
≪私≫に話し続ける≪彼≫は、とても嬉しそうでした。
そして≪彼≫の其の嬉しそうな顔を見ると、≪私≫も何故か嬉しくなっていたのです・・・」
「・・・」
「≪私≫は、自分の心が良く分からなくなっていました。
≪私≫は≪彼≫に、嫌悪感を抱いていたはずなのに・・・。
どうして、『もっと≪彼≫と話がしたい』と思ってしまうのか・・・。
≪私≫は此れ以上≪彼≫の傍に居ると余計混乱すると思い、取り敢えず怒った振りをして何とか≪彼≫に嫌われようと思いました。
すると≪彼≫は突然≪私≫が持っていた書物を奪い、其の書物の代わりに≪私≫に白梅の花が咲いた枝を手渡しました。
訳が、分からなかったです。
当時の≪私≫には、何故≪彼≫が≪私≫に白梅の枝を渡したのかが分からなかったのです・・・。
ただ・・・。
ただ其の白梅は・・・とても美しかった・・・」
「・・・」
「白梅を眺め続ける≪私≫の顔を、≪彼≫は覗き込みました。
≪私≫は、『≪彼≫は、また≪私≫を揶揄っているのだろう』と思いました。
≪私≫は、≪私≫を覗き込む≪彼≫の顔を見ました。
≪彼≫は、嬉しそうに≪私≫を見つめていました。
≪私≫は少し恥ずかしくなり、≪彼≫の視線から逃れようと横を向きました。
そんな≪私≫を見て、≪彼≫は優しい目をしながら≪私≫に聞きました。
〖・・・嬉しいか?〗
と・・・」
「其れに対して・・・道仁さんは・・・何と・・・答えられたのですか・・・?」
すると、道仁さんは優しく微笑みながら言った。
「素直に言いましたよ。
〖・・・嬉しい・・・です・・・〗
と・・・。
正直、悔しかったのですがね・・・。
其の事があってから、≪私≫は≪彼≫に少し興味を持つようになりました。
『≪彼≫は、≪私≫が思っていた人とは少し違うのかもしれない』
『≪私≫は、≪彼≫の事を誤解していたのかもしれない』
『≪私≫は、≪彼≫の事を知らなければならない』
そう思いました。
そんな≪私≫の心に気付いたのか、≪彼≫も≪私≫と話がしたいと言いました。
≪私≫と≪彼≫は、お互いを知らなかった。
だから≪私≫と≪彼≫は、お互いを知る為に話をしなければならないと思ったのです」
「・・・」
「其の後、≪私≫は≪彼≫とよく話をするようになりました。
そして≪彼≫と親しくなるにつれ、≪彼≫が『孤独』である事を知りました。
≪私≫は、其の痛みを知っていました。
≪私≫には、優しい父がいつも傍に居てくれました。
しかし其れでも、寂しさを拭い去る事は出来ませんでした。
母を知らずに育った事が、≪私≫にそう思わせたのでしょう。
そして≪私≫に流れる血の半分が、倭の血であると言う事も関係があるのでしょう」
「・・・」
「≪私≫は、≪彼≫の寂しさを少しでも和らげる事が出来ればと思うようになりました。
少しでも、≪彼≫の傍に居てあげたいと思うようになりました。
そんな時、倭に帰る事が出来るかもしれないと言う噂を聞きました。
≪私≫は、父と・・・そして≪彼≫を・・・倭に連れて行きたいと思いました・・・。
≪彼≫にも、倭を見て貰いたいと思いました・・・。
≪私≫と同じものを、≪彼≫にも見て貰いたいと思いました・・・。
≪私≫と≪彼≫の心を一つに出来るものが欲しいと思いました・・・。
≪彼≫と共有するものさえあれば、≪彼≫は独りで寂しい思いをしなくても良くなると思いました・・・」
「・・・」
「あと少しで父を、≪彼≫を、倭に連れて行く事が出来ると思った矢先、父は亡くなってしまいました・・・。
≪私≫は、父を連れて行く事が出来ませんでした・・・。
あんなに倭を愛していた父を、≪私≫は連れて行く事が出来ませんでした・・・。
≪私≫は、父の『願い』を叶える事が出来ませんでした・・・」
「・・・」
「≪私≫はただ一人の肉親である父を亡くし、『本当の独り』になってしまいました。
≪私≫には、泣く事しか出来ませんでした。
そんな≪私≫の傍に居てくれたのが、≪彼≫でした。
≪彼≫が、≪私≫を支え続けてくれました・・・」
「・・・」
「其の後、暫くしてから『黄巣の乱』が起こりました。
≪私≫は、何としても『黄巣の乱』を止めなければならないと思いました。
其の為にも≪私≫は、自分の命を懸けてでも皇帝に諫言しなければならないと考えました。
≪私≫が皇帝に諫言などしても、無駄だと分かっていました。
無意味な事だと、分かっていました。
でも≪私≫には、見て見ぬ振りなど出来ませんでした。
歴史は、必ず残ります。
唐に、卑怯な生き方をして欲しくなかった・・・。
倭に、卑怯な生き方を見て欲しくなかった・・・。
正しく生きる事の大切さを、知ってもらいたかった・・・。
此の先、どんな事があっても、『正しく生きる道』を選んでもらいたかった・・・。
残したかった・・・」
「・・・」
「生きていれば誤る事も、沢山あるでしょう。
しかし『誤ってはならない時』には、誤ってはならないのです。
『誤ってはならない事』は、誤ってはならないのです。
≪私≫は、唐を救いたかった・・・。
≪私≫は、倭を救いたかった・・・
≪私≫は・・≪彼≫を・・・救いたかった・・・」
「・・・」
「あの時の≪私≫は無駄だと分かっていても諫言する事が、≪私≫の『為すべき事』だと思っていました・・・。
たとえ其れにより自分が殺されたとしても、其れが≪私≫の『役割』だと思っていました・・・。
≪私≫は、唐も倭も・・・≪彼≫も・・・救いたかった・・・。
≪私≫は二つの祖国を・・・≪彼≫を・・・守りたかった・・・」
「何故、其処までして・・・。
本当に其れは、道仁さんの命を懸けてまでしなければならなかった事なのですか・・・?」
すると、道仁さんは自分の掌をじっと見つめながら答えた。
「・・・≪彼≫は、≪私≫に梅の枝を贈ってくれました・・・。
梅は約七百年前、宋から倭に送られたものです。
昔、父が住んでいた倭の家には沢山の梅が咲いていたそうです。
≪私≫にとって梅は、≪私≫と倭を繋げるものでした。
≪私≫と故郷を結ぶ、特別なものでした。
≪彼≫から梅の枝を渡された時、≪私≫は『唐の人間である≪彼≫から倭の血を引く≪私≫に唐の『想い』を託されたのだ』と思いました・・・。
其の『想い』を託されたのであれば、≪私≫は其の『想い』に応えなければならないと思いました・・・」
「・・・」
「≪私≫は、≪彼≫から贈られた梅の枝を見る度に思ったのです。
『≪彼≫も、本当は此の白い梅の様に生きたかったのではないのか』
と・・・。
『≪彼≫は≪私≫に、唐の・・・自分の『想い』を託したのではないのか』
と・・・」
「・・・」
「≪私≫が皇帝に諫言しようとした時、≪彼≫は≪私≫を止めようとしました。
普段の≪彼≫ならば≪私≫に対して決して口にしないような酷い言葉を、≪彼≫は≪私≫に叫び続けました。
たとえ≪私≫が其の言葉で傷付いたとしても、≪彼≫は≪私≫を助ける為に叫び続けました。
たとえ≪彼≫の発した言葉で≪彼≫自身が傷付いたとしても、≪彼≫は≪私≫が傷付くであろう言葉を叫び続けました。
≪彼≫は必死になって、≪私≫を救おうとしていました・・・」
「・・・」
「≪私≫は、≪彼≫の言葉に傷付いてなどいませんでした・・・。
≪私≫は、≪彼≫の『想い』を知っていました・・・。
だから、辛くなど無かったのです・・・。
傷付いてなど・・・いなかったのです・・・」
「・・・」
「≪彼≫の言葉は・・・≪私≫ではなく・・・≪彼≫自身を苦しめ、傷付けていました・・・」
「・・・」
「≪私≫は、≪彼≫が自分自身の言葉で傷付く姿を見る事に耐えられなくなりました・・・。
≪私≫は、≪彼≫の目の前か立ち去ろうとしました。
すると、≪彼≫は≪私≫の腕を強く捕まえました。
しかし≪私≫は、≪私≫を引き留める≪彼≫の手を全力で振り解きました」
「・・・」
「≪彼≫と別れた後、≪私≫は皇帝に諫言しました。
皇帝は≪私≫の言葉に一切耳を貸さず、≪私≫は諦め其の場を後にしました。
そして帰る途中、突然何者かに人気のない所に連れ込まれ背中を刺されました。
≪私≫は、其の場に倒れました。
薄れゆく意識の中、≪私≫は懐から≪彼≫から贈られた白梅の枝を取り出しました。
白梅の枝は、≪私≫の血で紅く染まっていました。
其の枝を見て、≪私≫は最期に≪彼≫に会いたいと思いました。
会って、≪彼≫に此の枝を返したいと思いました。
≪私≫の『願い』は、叶いませんでした。
けれど、≪彼≫の『想い』は≪私≫に伝わっていると最期に≪彼≫に伝えたかったのです。
≪私≫は這いずりながら、≪彼≫を探しました。
もう此れ以上動く事が出来ないと思った時、≪彼≫が≪私≫を見つけてくれました。
そして≪私≫を抱き起こし、必死に≪私≫の名を叫びました。
≪彼≫は泣きながら、≪私≫の名を叫び続けました。
此の時初めて、≪私≫は気付いたのです。
唐の為に、倭の為に、≪彼≫の為に≪私≫が行った事は、≪彼≫を傷付けただけだったのだと・・・。
≪私≫は、もう此れ以上、≪彼≫を傷付ける訳にはいかないと思いました。
≪私≫のせいで、≪彼≫が傷付いてはいけないと思いました。
死にゆく≪私≫が最期に出来る事は、≪彼≫が此の先も生き続ける事が出来る言葉を≪彼≫に残す事でした」
「・・・道仁さんが最期に言った言葉は・・・何だったのですか?」
「・・・『ありがとう』・・・です・・・」
「『ありがとう』・・・」
「はい・・・。
≪私≫は、此の言葉に自分の全ての『想い』を託しました・・・。
≪彼≫が≪私≫に梅の枝を贈ってくれたから、≪私≫は【私】として生き、【私】として死ぬ事が出来ました・・・。
≪彼≫ならば≪私≫の言葉の意味を、≪私≫の『想い』を理解してくれると思いました・・・」
道仁さんの『ありがとう』と言う言葉の意味・・・。
きっと其れは、道仁さんの朋友でなければ理解出来ない言葉なのかもしれない・・・。
道仁さんの朋友だからこそ、理解出来る言葉なのかもしれない・・・。
道仁さんは、続けた。
「≪彼≫は其の後、白梅の木の下に≪私≫を埋めました。
そして≪彼≫は、自身が死ぬまで≪私≫の傍に居てくれました。
≪私≫は長安を見つめながら、そして其のずっと先に在る倭を思いながら≪彼≫と共に過ごしました。
≪彼≫は、毎日≪私≫に話し掛けてくれました。
だから≪私≫は、寂しくありませんでした。
≪私≫は、とても幸せでした・・・」
「・・・」
「数十年後、≪私≫が埋まった白梅の木に寄り掛かりながら≪彼≫は息を引き取りました。
≪彼≫は、≪彼≫が≪私≫に贈ってくれた白梅の枝を持ちながら亡くなりました。
≪彼≫が亡くなると同時に、≪彼≫の遺体から突然光が放たれました。
其の光で、≪私≫は一瞬目を瞑りました。
そして再び目を開けると≪彼≫の『魂』は其の場になく、≪私≫に寄り掛かる≪彼≫の肉体には『魄』だけが残っていました」
「『こん』?
『はく』?」
「『魂』とは、精神を司る『陽の気』の事です。
『魄』とは、肉体を司る『陰の気』の事です。
『魂』と『魄』が一つである時、人は【人】であるのです。
【人】は死後、『魂』は 天に昇り、『魄』は此の世に残ります。
だから『魂』と言う字の中には『雲』を意味する字の一部が、『魄』と言う字の中には『白骨』を意味する字の一部があるのです」
「【人】は死後、『魂』は天に昇り『魄』が此の世に残るのであれば、何故、道仁さんの『魂』は此の世に残り白梅の木に宿ったのでしょうか?」
「其れが・・・≪私≫にも分からないのです・・・。
何故、≪私≫の『魂』が天に昇らず白梅の木に宿り、『魄』が≪私≫の肉体に留まったのか・・・。
ただ・・・。
ただ・・・此の世に≪私≫の『魂』が留まったからこそ、≪私≫はいつまでも祖国を見続ける事も、≪彼≫と共に居る事も出来ました・・・」
「・・・」
「≪私≫の肉体に留まっていた『魄』は≪私≫の肉体が朽ちた後、≪私≫の『魂』が宿る白梅の木に移りました。
つまり≪私≫の『魂』も『魄』も、白梅の木に宿ったままの状態であると言う事です」
「『魂』と『魄』が一つである時、人が【人】であるのならば、何故、道仁さんは【人】ではないのでしょうか?」
「其れも、≪私≫には分からないのです。
本来であれば『魂』も『魄』も同じ白梅の木に宿っているのですから≪私≫は【人】であるはずなのですが、何故か≪私≫は完全なる【人】ではないのです。
ただ、完全なる【人】ではないからなのか、『魂』の一部だけを移動する事が出来るのです。
其れが今、秋子さん達の目の前にいる≪私≫なのです」
「道仁さんの『魂』は、何故か天に昇らず白梅の木に宿った・・・。
『魄』も留まるべき肉体が無くなった後、『魂』の宿る白梅の木に移った・・・。
そして道仁さんの『魂』と『魄』は同じ白梅の木に宿っているけれど、道仁さんは完全なる【人】として存在していない・・・。
道仁さんは完全なる【人】ではないから、道仁さんは自分の『魂』の一部を移動する事が出来る・・・と言う事なのでしょうか・・・?」
「はい・・・。
恐らく・・・」
「では道仁さんは特殊だとして、本来であれば道仁さんの朋友の『魂』は天に昇ったと言う事ですよね?」
「はい・・・。
≪私≫も、そう考えていました・・・。
≪彼≫の肉体には『魄』しか残っていなかったので、『魂』は天に昇ったものだと思っていました。
≪彼≫の『魄』が宿った肉体は≪彼≫が亡くなってから数年後、土に返りました。
≪彼≫が一生放さなかった白梅の枝は≪彼≫と共に土に埋まり、成長し、≪私≫の隣で大きく育ちました。
白梅の枝は、≪私≫よりも大きな白梅の木となりました。
其の白梅の木に、≪彼≫の『魄』は宿りました。
≪彼≫の『魂』は無かったけれど、≪彼≫の『魄』は白梅の木と共に≪私≫の傍にずっと居てくれました。
≪彼≫は亡くなってからも、≪私≫の傍を離れないで居てくれました。
≪私≫は・・・独りではありませんでした・・・」
「・・・」
「そして数か月前、白梅の木の中で眠っていた≪私≫を呼ぶ声が聞こえて来たのです。
〖道仁・・・〗
と・・・。
≪私≫は目を見開き、声のする方を見ました。
其処には、≪私≫に手を添えながら立つ一人の人間が居ました。
其の人は≪私≫を見上げ、優しい声で続けました。
〖長い間、待たせて済まなかった・・・。
さあ・・・。
行こう・・・〗
と・・・。
すると≪彼≫は地面に落ちた花弁を一片取り、少し恥ずかしそうに≪私≫に言いました。
〖以前・・・君は私が枝を手折った事を、とても怒ったね・・・。
だから今回は・・・此の花弁を・・・君を・・・倭に連れて行く・・・〗
と・・・。
≪彼≫は、≪私≫と朋友しか知らない事を知っていたのです・・・」
「つまり・・・道仁さんを今回日本に連れて来た人は、嘗ての道仁さんの朋友の『魂』が宿った人と言う事ですか・・・?
道仁さんの朋友の『魂』は天に昇らず、異なる人に宿ったと言う事ですか・・・?
道仁さんの現世の朋友は・・・嘗ての道仁さんの朋友の・・・『生まれ変わり』・・・と言う事なのですか・・・?」
「『生まれ変わり』・・・。
実は・・・≪私≫も・・・良く分からないのです・・・。
人は、死生について色々と考えてきました。
儒教では、『招魂再生』。
道教では、『不老不死』。
仏教では、『輪廻転生』。
『招魂再生』では『魂』は天に昇り、再び元の身体に戻って来ると言われています。
だからいつ戻って来ても良いようにと、遺体を土に埋めます。
そして『魂』を元の身体に戻す為には、お香を焚く必要があると言われています。
お香により呼び寄せられた『魂』が『魄』の宿った身体に戻り蘇った時、前世の記憶は残ったままであると言われています。
『不老不死』では『錬丹術』を極めた者が精製した仙丹を服用すると、不老不死の『神仙』になる事が出来ると言われています。
『輪廻転生』では、生前での善悪に応じて『魂』が『六道』を転生すると言われています。
天人が住む世界である『天道』。
人間が住む世界である『人間道』。
阿修羅が住む世界である『修羅道』。
牛馬などの畜生が住む世界である『畜生道』。
お腹の膨れた餓鬼と言う名の【鬼】が住む世界である『餓鬼道』。
生前の罪を償う為に堕とされる『地獄道』。
『地獄道』は八つに分けられており、其れを『八大地獄』と言います。
罪の重さによって堕とされる地獄は異なり、最下層が一番過酷だと言われています。
そして『天道』『人間道』『修羅道』を『三善趣』、『畜生道』『餓鬼道』『地獄道』を『三悪趣』と言います。
仏教では『六道』の内『人間道』に蘇った人は、新しい生命に『生まれ変わる』と言われています。
だから、前世の記憶は無いのです。
つまり、全く別の人間として蘇るのです」
「それぞれの思想によって、死生観が異なりますね・・・。
道仁さんの現世での朋友が、嘗ての道仁さんの朋友の『生まれ変わり』であると断言する事は少し難しいですね・・・」
「はい。
≪彼≫の『魂』は、お香に呼び寄せられて来たのではありません・・・。
≪彼≫の『魂』は、≪彼≫の身体に戻ったのではありません・・・。
≪彼≫は、『不老不死』ではありませんでした・・・。
≪彼≫の『魂』は、≪彼≫とは異なる人に宿りました・・・。
ただ・・・≪彼≫には≪彼≫の生前の記憶が残っていました・・・。
≪彼≫は、どの死生観にも当てはまらないのです・・・。
そして≪私≫自身、実際死にましたが、どれが正しいのか分からないのです・・・。
ただ≪彼≫は、≪私≫と≪彼≫にしか知らない事を知っていました・・・。
そして、≪彼≫は・・・何となく・・・嘗ての≪彼≫に・・・似ていました・・・。
だから≪彼≫は・・・≪彼≫は・・・≪彼≫の『生まれ変わり』なのではないのかと・・・≪私≫は思います・・・」
『生まれ変わり』・・・。
もし道仁さんの現世での朋友が、嘗ての道仁さんの朋友の『生まれ変わり』であるのなら・・・。
『生まれ変わり』で・・・あるのなら・・・。
私は・・・。
私は・・・。
そう思いながら、≪私≫は自分の拳を握り締めた。
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翌日
日が昇ると直ぐに道仁さんは、人間の姿に化けた橘と共に道仁さんの朋友を探しに出掛けた。
そして夕方頃、「朋友を、見つける事が出来ませんでした」と言って帰って来た。
道仁さんはとても悲しそうであったけれど、私達に心配を掛けまいと直ぐに笑顔になって言った。
「何か、お手伝いする事はありますか?」
私は、道仁さんを元気づけたいと思った。
道仁さんの気持ちを少しでも明るく出来るのであれば、私は自分の出来得る限りの事をしたいと思った。
道仁さんは、自分の故郷でもある日本に憧れてやって来た。
ならば、少しでも日本の事を知りたいと思っているはずだ。
私が道仁さんに伝えられる事は、日本の普通の生活だけ。
私は、ありのままの日本を見て貰う事が道仁さんにとって嬉しい事なのではないかと思った。
私は、道仁さんに言った。
「では、一緒に川へお水を汲みに行きませんか?」
「はい!
行きます!!」
道仁さんは、嬉しそうに答えた。
そして道仁さんと一緒に出掛けようと思った其の時、私は橘に声を掛けられた。
「秋子」
橘は、少し不機嫌そうだった。
私はそんな橘に近付き、彼を見上げながら聞いた。
「何?
あ。
お魚も捕って来た方が良い?」
すると橘は私の目をじっと見つめ、暫くすると目を逸らして何も言わずに外へ出て行ってしまった。
「どうしたのですか?」
道仁さんは私に近付き、私の隣に立って心配そうに聞いた。
私は、橘が出て行った方を見つめながら答えた。
「分かりません・・・」
どうしたのだろう・・・?
橘が不機嫌だなんて、珍しい・・・。
私は橘の態度を少し不思議に思いながらも、取り敢えず水桶を持って川へ行く事にした。
私が外にある水桶を持とうとした時、道仁さんが言った。
「≪私≫が、持ちますよ」
そう言って、道仁さんは水桶を持ち上げた。
私は、宋の【鬼】は物を持つ事が出来るのだと初めて知った。
やはり、日本の【霊】とは少し違うのだ。
物を持つ事が出来ると言う事は、私は道仁さんの身体にも触る事が出来るのだろうか?
でも、いきなり身体を触っては失礼だろうなと思い、触る事はやめた。
すると道仁さんは自分の左の掌を上にし、私に差し出しながら言った。
「どうぞ」
「え?」
「確かめたいのでしょう?」
「・・・はい・・・」
また、心を読まれてしまった・・・。
私は『申し訳ないな・・・』と思いつつも好奇心に抗う事が出来ず、ゆっくりと道仁さんの掌の上に自分の右手を重ねた。
柔らかい手の感触があった。
紛れもない【人】の手であった。
でも其の手は、とても冷たかった。
やはり道仁さんは、【鬼】なのだと思った。
私は、道仁さんの顔を見た。
道仁さんは、少し悲しそうな表情で微笑んでいた。
「実は、実体化出来たのは此処に来てからなのです」
「此処に来てから・・・?」
「はい。
恐らく、橘さんの力の影響なのでしょう・・・」
「橘の力の影響・・・」
私がそう呟くと同時に、道仁さんは自分の掌に重なっていた私の手を握り突然歩き出した。
そして私の方を振り向き、楽しそうに言った。
「さあ!
行きましょう!」
道仁さんは私を引っ張りながら、どんどん先に進もうとした。
私は堪らず、道仁さんに聞いた。
「何処に川があるのか、知っているのですか?」
すると道仁さんは足を止め私の方を振り向き、恥ずかしそうに答えた。
「そう言えば、知りませんでした・・・」
そう言った道仁さんの顔は年よりも幼く見え、とても【人】らしかった。
今度は私が道仁さんの手を引きながら、川へ向かった。
家を出て少し歩くと、裏の川の上流に到着した。
其の川を見て、道仁さんは驚きながら言った。
「とても綺麗な水ですね・・・。
此れ程まで透明で綺麗な水を、見た事がありません・・・。
宋の川は、もっと濁っています」
「宋の川と日本の川の色は、そんなにも異なるのですか?」
「はい。
異なります。
宋には、江(長江)と河(黄河)と言う二つの大きな河川があります。
此の二つの河川は隋の時代に結ばれ、大運河となりました。
其れにより人や物の行き来が活発になり、江と河の流域は発展しました。
そして此の経済の発展が、争いを生みました。
人は豊かになろうと、醜い争いを続けました。
人を蔑ろにし、人を裏切り、人を騙し、人を傷付け、人を殺し、土地を奪い、自然を壊し、全てを汚しました。
江も河も、人によって濁ってしまったのです」
「・・・」
「≪私≫が生まれるずっと以前から、宋では争いが絶えませんでした。
争いを終える為には、国を統一する必要がありました。
そして宋を始めて統一した人物が、秦の始皇帝でした。
今から・・・千年以上も前の事です」
「千年・・・」
「はい。
宋の歴史は、とても古いです。
そして長い歴史があるにも拘らず、宋は千年以上前から一つに纏まりませんでした。
人々は、殺し合いを続けていました。
親も、子も、朋も裏切り、誰も信用出来ない・・・。
いえ。
信用してはならない時代でした。
『殺さなければ、殺される』
『殺される前に、殺す』
・・・そんな時代でした。
そして其れは、今も変わらないのです・・・」
「・・・」
「人も、国も、時代も異なるのに、何故人は同じ事を繰り返すのでしょうか・・・。
何故、教訓としないのでしょうか・・・。
何故、学ぼうとしないのでしょうか・・・。
何故、止めようとしないのでしょうか・・・。
何故、善くしようと考えないのでしょうか・・・」
道仁さんは悲しそうに、そして苦しそうに呟いた。
道仁さんは、続けた。
「始皇帝が国を統一する以前、乱れた世を平穏な世にする為に、国を治める為に、国を安定化させる為に、多くの思想が生まれました。
其れらを、『諸子百家』と言います。
百家とは、数多と言う意味です。
当時、本当に様々な思想がありました。
『徳』や『礼』により国を治めようとする『儒家』。
『慈愛』により国を治めようとする『墨家』。
『法』により国を治めようとする『法家』。
彼らは自分達の思想を唱える事により人を育て、人が始めた戦を、人の手で早期に終結させようとしました」
「思想を唱えた・・・。
では、初めて国を統一した始皇帝は『諸子百家』の思想を取り入れたと言う事でしょうか?
もしそうであるのなら、始皇帝はどの思想を取り入れたのですか?」
すると、道仁さんはにっこりと笑いながら言った。
「秋子さんは、始皇帝はどの思想を取り入れて国を統一したと思いますか?
そして、どの思想を取り入れれば国は安定すると思いますか?」
私は自分の質問を二つの質問で返され少々戸惑ったけれど、道仁さんの話を聞いて、今の日本は昔の宋に少し似ていると思った。
親兄弟が、自分の利益の為に憎み殺し合う・・・。
他人を踏み台にして伸し上がる・・・。
他国を侵略し、多くの人を殺す・・・。
そんな世の中、早く終われば良いのにと何度も思った。
もっとお互いを思いやり、助け合う事の出来る世になれば良いと思っていた。
ただ、其の為にどうすれば良いのかなんて考えた事など無かった。
考えた事など無かったけれど、互いを思いやり慈しむ、つまり『慈愛』を以てすれば国を統一させ、安定化させる事が出来るのではないかと思った事はあった。
今までの私の人生は、辛い事ばかりだった。
今までの私の人生は、悲しい事ばかりだった。
でも橘に出会って、私はお互いを思いやる事を、慈しみ合う事を知った。
『慈しみ』は、『慈しみ』を生む。
人の『慈しみ』は、国も性別も人種も宗教も関係ないはずだ。
『慈しみ』は、全ての人間に共通するものだ。
『慈しみ』は、直ぐに世に広まるはずだ。
『慈しみ』が世に広まれば国は統一され、安定するはずだ。
『徳』や『礼』を重んじる『儒家』の訓えは素晴らしいものだと思うけれど、其の訓えを国中の人皆が平等に守る事が出来るだろうか?
『徳』や『礼』は人が伝え、教え、広めなければならない。
国中に伝え広める為には、多くの時間を要する。
況してや、『徳』や『礼』が国中に必ず行き渡ると言う保証はない。
一部の人にしか其の訓えが伝わらなければ、たとえ其の訓えが素晴らしいものであっても意味が無い。
また『法』により人を縛り付けては、人は反発する。
人には、『心』がある。
『心』を『法』により縛り付ける事など、不可能だ。
私は道仁さんの質問に答えるべく、口を開こうとした。
しかし、いざ言葉にしようと思ったら自信が無くなった。
私は少し弱々しい声で、下を向きながら答えた。
「私は・・・『慈愛』によって国を統一する事が出来れば・・・世の中は安定すると・・・思います・・・。
だから・・・始皇帝が取り入れたのは・・・『墨家』の訓えではないか・・・と・・・」
私の答えを聞いて、道仁さんは嬉しそうに答えた。
「≪私≫も、『墨家』の思想は好きですよ。
互いを思いやり、慈しみ合うと言う気持ちを持つ事は、素晴らしい事だと思います。
しかし、本当に人は互いを思いやり、慈しみ合う事が出来るのでしょうか?
例えば自分の愛した人を殺した人に対して、人は愛を以て接する事が出来るのでしょうか?
自分の大切な人と悪人を、同じように愛する事が出来るのでしょうか?」
「・・・」
「『慈愛』にも、『差』が在ります。
そして其の『差』は、争いを生みます」
「確かに『慈愛』に『差』が在れば人は『慈愛』を受ける人に対して嫉妬し、其れは争うきっかけとなるかもしれません。
では、『差』を設けないようにすれば良いのではないでしょうか?
受ける『慈愛』が、平等であれば良いのです。
例えば、衣服や食べる物を平等に国から与えられれば争いなど生まれない。
皆が平等だから、嫉妬する事も無い。
そうすれば、争いなど生まれない。
互いを慈しみ合う事が出来る」
「人には、生まれた時から『差』が在ります。
生まれる環境も、生まれる時代も、生まれる人自身も、それぞれ異なります。
此れが、『差』なのです。
此の元々ある『差』を無くそうとする事自体が、不自然なのです」
「『差』を無くす事が、不自然・・・」
「はい。
勿論、『差』が無いと言う事は理想的です。
しかし、其れは理想に過ぎないのです。
『差』は、必ず在るのです。
現実的に『差』が在る以上、『差』を無くす事など不可能な事なのです。
そして『差』は、時には無くてはならないものなのです」
「『差』は、時には無くてはならないもの・・・?」
「はい。
例えば、自分の能力を最大限使って一生懸命働いている人と全てを諦め働こうともしない人に平等に衣服や食べ物が与えられれば、一生懸命働いている人はどう思うでしょうか?
何故自分は真面目に働いているのに、働かない人と同じものしか与えられないのだと憤るでしょう。
行った行為に『差』があるにも拘らず其の対価に対して『差』を設けなければ、争いが生じる原因となり、更には努力していた人の生きる気力さえも失わせる事にもなり兼ねないのです」
「・・・」
「『差』を設けるべき所に『差』を設けないと、争いが生まれます。
また『差』を設けてはならない所に『差』を設けても、争いは生まれます。
結局、『差』は在っても無くても、争いは無くならないのです
『差』を無くそうとしても、争いは無くならないのです。
『差』によって人に嫉妬し人が争い合う以上、全ての人が互いを慈しみ合う事など出来ないのです。
『慈愛』だけで国を統一する事も、安定化させる事も出来ないのです」
「『差』が在る所に『差』を設けないから、争いが生まれる・・・。
『差』が無い所に『差』を設けるから、争いが生まれる・・・。
『差』は在っても無くても、争いは生まれる・・・。
全ての人を慈しむ事は出来ない・・・。
『慈愛』だけで国を統一する事も、安定化させる事も出来ない・・・」
「『慈しみ』の心を以て人に接する事はとても大切な事ではあるのですが、皆を平等に愛する事など、『差』を無くす事など、現実的には難しい事なのです。
互いを信用出来ない乱れた世で、『慈愛』を以て国を統一し安定化させようと言う『墨家』の思想は受け容れられる事はありませんでした」
「『慈愛』は、受け容れられなかった・・・」
「一方『儒家』の訓えは、道徳や礼節を重んじるものでした。
『徳』や『礼』により人を正しく導く事は、人が【人】である為に必要なものです。
『儒家』の訓えは、『正しい【人】』を育てる為のものです。
しかし互いを殺し合う乱れた世では、『正しい【人】』は必要ありませんでした。
必要だったのは『正しい【人】』ではなく、人を押さえつける為の『絶対的な【力】』でした。
『正しい【人】』の訓えは、各国が行っていた圧政や戦を否定するものでした。
『正しい【人】』は、各国にとって邪魔な存在でしかありませんでした。
そして『正しい【人】』の多くは、正しいが故に殺されました。
『儒家』が育てる『正しい【人】』は、否定されたのです」
「『正しい【人】』は、否定された・・・」
「『儒家』や『墨家』の思想は、とても素晴らしいものです。
しかし其れを実践する事は、乱世では難しい事なのです」
「『儒家』や『墨家』の思想を実践する事は、乱世では難しい・・・」
「乱れた世を統一し、安定化させる為には圧政による支配、つまり【力】が絶対でした。
結局、始皇帝が取り入れた思想は『儒家』や『墨家』の理想的な思想ではなく、『法家』の現実的思想でした。
『法』により人を規制し、『刑』により人を抑制しなければ、国の統一も安定も出来なかったのです。
国を統一し安定させる為には、【力】を絶対化させなければなりませんでした。
其の目的の為には、如何なる犠牲も問わない。
目的の為ならば、手段を選ばない。
死刑、殺戮、拷問、暗殺、買収、間諜、流言。
『仁』も『義』も『愛』も無い。
始皇帝には、『法』と『刑』を用いた恐怖政治を敷く必要があったのです。
そうまでしなければ国の統一など、国の安定化など出来なかったのです。
ああ。
別に、私は始皇帝を擁護しているのではありません。
人は、弱いものです。
其の弱さを統制する為にも、『法家』の思想は必要だったのです。
『三国志』の天才軍師・諸葛孔明も、『法家』であった韓非の記した『韓非子』を愛読していました。
『理想』だけでは、国を統一し安定化させる事は難しかったのです。
其れが、『現実』なのです」
「『理想』だけでは、国を統一し安定化させる事は出来ない・・・」
「はい。
『徳』や『礼』や『愛』で以て国を統一し安定化させようとする事は、『理想』に過ぎないのです。
ただ・・・」
「ただ・・・?」
「ただ・・・『儒家』や『墨家』の思想が美しいと感じるのは、其の思想を取り入れたいと思うのは、人が『そうありたい』『そうあって欲しい』と願い求めているからなのだと思います・・・。
損得を考えない無私の行為に人は魅かれ、憧れを抱いているのかもしれません・・・。
人は人を信じているから、其れを求めているのかもしれません・・・。
秋子さんも、そう思ったのでしょう・・・?
そう思ったから、『慈愛』で国を統一し安定化させる事が善いと考えたのでしょう・・・?」
「・・・はい」
「≪私≫も、そうあって欲しいと考えています。
勿論、【力】を用いなければ抑える事が出来ないもあります。
しかし【力】で以てのみ国を治めれば、人に苦しみを与える事になります。
国の『役割』は、人を幸せにする事です。
人の『役割』は、人を幸せにする国を作る事です。
国は人の為にあり、人は国の為にあるのです」
「国は人の為にあり、人は国の為にある・・・」
「そうです。
たとえ其れが『理想』だと分かっていても其の『理想』を持ち続ける事が、人を、国を幸せにする為に必要な事なのだと≪私≫は思います。
ああ!
話が、少し逸れてしまいましたね・・・。
済みません・・・。
ええ・・・と。
国を統一し安定化しても、其の安定を保ち続けなければ再び乱世に戻ってしまいます。
始皇帝は国の安定を維持する為に、『焚書坑儒』を行いました」
「『ふんしょこうじゅ』?」
「始皇帝が、秦の宰相であった李斯の献言により行った政策です。
当時、『儒家』は始皇帝の政策を批判していました。
始皇帝は自分の権力を維持する為にも、再び乱世に戻さない為にも、『儒家』を弾圧しなければなりませんでした。
秦王朝に仇なす人々を、一掃させる必要がありました。
『儒家』の思想は人々を惑わし世を乱し、再び争いを起こさせるものとしました。
始皇帝は自分の為にも国の為にも、『焚書坑儒』を行わなければなりませんでした。
『焚書坑儒』の『焚書』とは農業技術や医薬等が記された書物以外のもの、秦記以外の史書全てを焼く事です。
『儒家』のみならず、自分が取り入れた『法家』以外の『諸子百家』の思想を根絶やしにする事が目的でした。
もし三十日以内に『諸子百家』の書物を焼かなければ、労役。
『諸子百家』について語れば、死刑。
秦王朝に関して誹謗中傷すれば、一族皆殺し。
そして『坑儒』とは逃亡を企てた者達や学者達を捕らえ、坑にする事です。
此れにより、四百六十人以上が坑にされました」
「非道・・・ですね・・・」
「はい。
非道です。
無慈悲です。
人がすべき行為ではありません。
しかし、始皇帝は其れを敢えて選びました」
「敢えて選んだ・・・」
「はい。
そうです。
平時では『徳』や『礼』や『慈愛』による『王道政治』によって、国の安定を保つ事が出来るのでしょう。
しかしあの頃は、平時では無かったのです。
始皇帝が国を統一したとは言え、未だに世は乱れたまました。
乱世では『法』や『刑』と言う絶対的【力】による支配、『覇道政治』でなければ国の安定を維持する事は出来なかったのです」
「『覇道政治』・・・」
「ただ、其の秦も僅か十五年で亡びてしまいました・・・。
結局、絶対的『法』により人を縛り付け、『刑』により多くの人を殺すような国は、人を大切にしない国は亡びるのです・・・」
「人を大切にしない国は亡びる・・・」
「秦の後に国を統一したのは、漢の劉邦でした。
『史記』を記した司馬遷や『資治通鑑』を記した司馬光は、漢についてこう書き残しています。
〖戦火により、多くの資産が失われた。
劉邦は戦により疲弊した国を立ち直らせる為、人々に節約させ贅沢を禁止した。
其の後、文帝や景帝らの政治運営により国は安定し、人々への締め付けも緩くなった。
長い間、戦も天災も無かった事もあり国は次第に潤っていった。
其の為、人々は再び贅沢になった。
飢饉の為に備えていた穀物も腐り、金も物も有り余るようになっていった。
人々は贅沢を競い合うようになり、強欲になり、暴力で以て財産を略奪し、其の欲は際限のないものであった。
其の欲の為に国は財政難に陥り、国外からは外敵が侵入し、少なくなっていた国の財産も失われてしまった〗
結局、国が統一され安定化されても、人は弱く人の『欲』には際限が無い為、其の『欲』を満たす為に『法』や『刑』を緩め、人は自制が効かなくなり争いを繰り返すのです・・・」
「人が弱く、人の『欲』が争いを招くと言うのであれば、人に『欲』を持たせないようにすれば良いのではないでしょうか?
求めようとするから、争いが起こる。
ならば、初めから人に求めさせないようにすれば良いのです。
今のままでも、十分であると人に気付かせるのです。
人に、『今』をそのまま受け容れるようにしてもらえば良いのです」
「其れは、『道家』の思想に似ています」
「『道家』?」
「『道家』の思想は、『無為』に生きる事です」
「『むい』?」
「『無為』に生きると言う事は自然に逆らわず、自然の通りに生きると言う事です」
「では、『無為』に生きると言う事は『自由』に生きると言う事ですか?」
「いえ。
其れは、違います。
『無為』には『自己』つまり、『自分の意思』がありません。
しかし『自由』には、『自分の意思』があります」
「では『自由』にではなく、何も求めず、自己も無く、『無為』に生きさえすれば争いは起こらないのではないでしょうか?」
私が、そうしたように・・・。
「何も求めず、『無為』に生きる事も必要な時もあります。
『無為』を受け容れざるを得ない時もあります。
しかし、全てに対して『無為』に生きてはならないのです。
其れは、『現実』から逃げているに過ぎないのです」
「『現実』から、逃げている・・・」
「はい。
『自分ではどうしようもないから、見過ごそう』
『自分では何も出来ないから、諦めるしかない』
『自分では変える事が出来ないのなら、受け容れておけば良い』
其れは見るべきものを見ず、聴くべき事を聴かず、すべき事をしようとしていないだけです。
『現実』を受け容れる事が出来ないから、出来ないと自分に言い聞かせて逃げているだけなのです」
『自分の想いは伝わらない』
『自分は何をしても無駄だ』
『自分は受け容れて貰えない』
『其れは仕方のない事だ』
『自分さえ我慢していれば良い』
私は実家にいた時、そう自分に言い聞かせて生きてきた。
もしかしたら私は家族と争わない為にと自分に言い聞かせて、『現実』から逃げていたのかもしれない。
道仁さんは、続けた。
「また人が皆何も求めず、自己も無く、『無為』に生きていると国は発展しません」
「国が、発展する必要などあるのですか?
国が発展すれば、災いを招きます。
発展した国を、他国が侵略しようとします。
発展した国が、他国を侵略しようとします。
国の発展は、争いを招きます。
ならば、発展などしない方が良い」
「勿論、発展により新たな争いも生じるでしょう。
江や河の流域が発展した事により、争いが生まれた事も事実です。
そして発展は争いを生じさせるだけでなく、大切なものを失わせると言う事も事実です」
「発展が争いを招き、発展により『失うもの』があるのならば、やはり発展などしない方が良いのではありませんか?
『何かを得る』為に『何かを犠牲』にする事が、当然である訳がありません」
「其の通りです。
しかし、発展により『得るもの』も必ずあるのです。
其の『得たもの』によって、人は幸せに生きる事も出来るのです」
「発展して『得たもの』によって、人は幸せに生きる事も出来る・・・」
「発展して初めて、『失ったもの』の大切さに気付く時もあります。
発展して初めて、『得たもの』の素晴らしさに気付く時もあります。
発展すべきであったのかすべきでなかったのかは、後の時代にならなければ分からない事なのです
ただ人は、変わるべき時には変わらなければならないのです。
変えるべき時には、変えなければならないのです」
「変わるべき時には、変わらなければならない・・・。
変えるべき時には、変えなければならない・・・」
「『失うもの』があると気付いていながら人が発展を続けて来たのは、人が『失ってはならないもの』『失いたくないもの』よりも『得るもの』の方を選んだからです。
人が、『得るもの』を欲したからです。
国が発展して来たのは、『国をより善くしよう』『人が善く生きる事が出来るようにしよう』と人が欲したからです。
其れは、『こうありたい』『こうしたい』と言う人の『欲』から生まれたものです。
人には、必ず『欲』があります。
だから其の『欲』から生まれる国の発展は、必然だったのです」
「『欲』・・・」
以前、橘は〖欲に心が喰われる〗と言っていた。
だから、『欲』を遠ざけていると。
ならば、『欲』が生まれないようにすれば良いのだ。
私は、道仁さんに聞いた。
「では、其の『欲』を無くしさえすれば良いのではないでしょうか?
『欲』さえなければ、国は発展しない。
争いも起こらない。
何も失わない」
「『欲』は、生まれながらにして皆が持っているものです。
其れを無くす事など出来ません。
それに、『欲』が必ずしも『悪いもの』とは限らないのです。
『欲』は人に『喜び』や『楽しみ』、『怒り』や『哀しみ』をもたらしてくれます。
人は欲しいものを得る事が出来れば、『喜び』『楽しみ』ます。
そして欲しいものを得る事が出来なければ、『怒り』『哀しみ』ます。
『欲』があるから、人は『喜怒哀楽』と言う感情を実感する事が出来るのです。
此の感情を実感する事により、人は『生きる喜び』を知る事が出来るのです。
たとえ辛い事があったとしても悲しい事があったとしても、『喜び』と『楽しみ』が在るから耐える事が出来る。
生きていると言う事は、辛い事だけではない。
悲しい事だけではない。
其の先には必ず『喜び』も『楽しみ』もあると信じる事が出来るのは、『喜び』と『楽しみ』を感じる事が出来るのは、人が『欲』を持って生まれてきているからです」
「『欲』を持って生まれてきているからこそ、人は『生きる喜び』を知る事が出来る・・・」
「勿論、『欲』が深過ぎる事は良くありません。
ただ、『欲』を全て否定してもいけません。
『欲』は存在するものと受け容れ、自制しようと努力する事が大切なのです」
「自制しようとする努力・・・」
そう言えば、橘はあの時『欲に打ち勝つ強い心』を持つ人が、『本当に強い人』だと言っていた。
ああ・・・。
そうか・・・。
もしかしたら『欲』を自制する人が、橘の言っていた『本当に強い人』なのかもしれない。
道仁さんは、続けた。
「其れに人が皆何も求めず『無為』に生きていれば、無気力な人だけの世になってしまいます。
無気力な人だけの世になると、却って無秩序な世になってしまいます」
「何故、無秩序な世になるのですか?」
「世の中が、いつも同じとは限りません。
疫病があり、地震があり、飢饉があり・・・。
此の世は、例外ばかりです。
其れらに対し、無気力な人は対処する事が出来るのでしょうか?
其れらをただ、受け容れるだけなのではないでしょうか?
見て見ぬ振りをするのではないでしょうか?
救えるかもしれない命を、仕方ない事だからと言って放っておくのではないでしょうか?
目の前にある『死』や『苦しみ』『哀しみ』さえも、見過ごすのではないでしょうか?
其れが、秩序ある世と言えるのでしょうか?」
「・・・」
「無秩序な世にしたくないからこそ、人は求め発展してきたのです。
大切な人を守りたいから、人は求め発展してきたのです。
『欲』を自制しながら、藻掻き生きてきたのです。
人が切磋琢磨して生き、国を発展させ、己に打ち勝とうと戦ってきたからこそ、『今』があるのです」
「では一体、何を以て国を安定させれば良いのでしょうか?
『徳』で以ても、『礼』で以ても、『慈愛』で以ても、『法』で以ても、『無為』で以ても出来ないのであれば、どうやって国を安定させれば良いのでしょうか?」
「分かりません」
「え?」
「≪私≫にも、分からないのです。
何を以て国を安定させれば良いのか、≪私≫にも分からないのです」
「道仁さん・・・。
其の答えは・・・ずるいです・・・」
すると道仁さんは、少しいたずらっ子の様な表情をしながら私に言った。
「そうですね・・・。
意地悪でしたね・・・。
済みません・・・。
ただ、此れは単なる持論なのですが、≪私≫は全ての思想を以て国の安定化を図れば良いと考えています」
「全て?」
「はい。
【善を以て式と為し、悪を以て戒めと為す】
(善行は手本にし、悪行は戒めとする)
良いものは取り入れ、悪いものは教訓とすれば良いのです。
別に、一つを選ばなければならない訳ではありません。
それぞれの良いものを、『正しい』とされるものを取り入れれば良いのです」
「良いものを、『正しい』とされるものを取り入れる・・・」
「はい。
ただ、何が『正しい』かなどは時代や場所や人によって異なります。
乱世では、『法家』の思想が『正しい』とされました。
しかし異なる時代になれば、『儒家』や『墨家』『道家』の思想が『正しい』と考えられるのかもしれません。
或いは、『儒家』や『墨家』や『法家』や『道家』以外の思想が『正しい』とされるのかもしれません。
或いは全く新しい思想が生まれ、其れが『正しい』とされるのかもしれません。
本当に『正しい』ものなど、誰にも分からないのかもしれません。
本当に『正しい』ものなど、存在しないのかもしれません。
ただ≪私≫は、何が『正しい』か分からなくとも、時代が異なっても、場所が異なっても、人が異なっても、全ての思想が必要だと思っています。
『徳』『礼』『慈愛』で抑える事の出来ない『欲』は、『法』を以て制御すれば良い。
『法』の暴走を抑える為には、『徳』『礼』『慈愛』を以て制御すれば良い。
『無為』に生きる事に対しては、『徳』『礼』『慈愛』『法』を以て制御すれば良い。
『徳』『礼』『慈愛』『法』『無為』全てが密接に関係があり、全てが補い合い、全てが抑制し合い、全てが高め合っているのです。
全てが全て、必要なのです」
「・・・」
確かに全ての良い部分を取り入れれば、国は安定するのかもしれない。
しかし其れは、私にとって少し窮屈なものだと感じた。
国を安定化させる為に『徳』『礼』『慈愛』『法』『無為』と言うものに縛られる事を、私は受け容れ難いと思った。
私は貴族と言う柵からやっと解放されて『自由』になれたと言うのに、こんなに色々な思想に締め付けられるのは正直嫌だと思った。
私は、人は『自由』でなければ『幸せ』ではないと思った。
「・・・道仁さん」
「はい」
「『徳』『礼』『慈愛』『法』『無為』も、国を安定化させる為には全て必要だと思います。
ただ国が安定していても、其処に住む人々が『幸せ』でなければ意味が無いと思います。
私は、人が『幸せ』でいられるのは・・・『自由』である時なのではないかと思います・・・」
「・・・」
「私は元々、貴族の娘でした・・・。
しかし私は、疫病を収める為に生贄として選ばれました・・・。
私は親から疫病をもたらしていると言われた【鬼】・・・橘に・・・『生贄』として差し出されました・・・。
私は『生贄』として選ばれた時、何も言わず其れを受け容れました・・・。
何を言っても、無駄だと分かっていたからです・・・。
当時の私は、何も求めていませんでした・・・。
求める事を、諦めていました・・・。
私には、虚無感しかありませんでした。
私は・・・無気力な・・・人でした・・・。
もしかしたらあの頃の私の生き方は、『無為』の生き方に少し似ていたのかもしれません・・・」
「・・・」
「道仁さんも唐王朝に仕えていらしたからご存じだと思いますが、貴族の生活はとても窮屈です。
私はずっと其の窮屈な世界に生きて来て、求める事を諦めるようになっていました。
『あらねばならない』
『あるべきだ』
人間が作った柵に抗う事が出来なかったから、私は全てを受け容れ、『無為』に生きる生き方を選んだのです。
でも橘と出会って、『自由』に生きる事の喜びを知りました。
私は人が『自由』に生きる事が出来る世界が、『自由』でいる事を受け容れてくれる世界が、本当に善く治まった国だと、安定した国だと思います。
私は、全ての人が『自由』に生きている事が人にとって幸せなのではないかと思います」
すると、道仁さんは少し悲しそうな表情で呟いた。
「・・・秋子さん」
「はい」
「先程≪私≫は、『自由』には『自分の意思』があると言いました」
「はい」
「『自由』には『自分の意思』、『自己』があります。
其の為、其の『自由』は、時には『我儘』に変わってしまう事があるのです」
「『自由』が・・・『我儘』・・・?」
「はい。
『自由』だからと言って、皆が自分の思う通りに生きてしまえばどうなるでしょうか?
確かに、自分の思う通りに生きる事が出来れば楽しいでしょう。
しかし、人は一人で生きている訳ではありません。
人が人と共に生きていく為には、互いを尊重し合わなければならないのです。
自分の為に、人を蔑ろにしてはならないのです。
全てにおいて、人には『責任』があります。
たとえ『自由』であっても、『責任』は負わなければならないのです。
『自由』にも、『制限』があるのです」
「『自由』には、『責任』がある・・・。
『自由』には、『制限』がある・・・」
「秋子さん。
≪私≫は、風に飛ばされて此処に来たと言いましたね?」
「はい」
「あの時、風に飛ばされ空を舞っている時、≪私≫は此のままでも良いと思いました。
此のまま風に乗って、自分の故郷をもっと見てみたいと思いました。
ただ流されるままに、舞いたいと思いました。
もしかしたら、自分の力で≪彼≫の許に戻る事が出来たのかもしれないのに・・・」
「・・・」
「≪私≫は自分の『欲』に負け、自然には逆らえないからと言う自分に都合の良い理由を付けて、風に乗って此処まで来たのです。
『無為』と言い聞かせて、≪私≫は『自由』を選んだのです・・・」
「・・・」
「『自由』だからと言って、何もかもが許される訳では無いのです。
『自由』だからと言って、『我儘』を通して良い訳では無いのです」
「・・・」
「≪彼≫はきっと、いなくなった≪私≫を今も必死になって探しているでしょう・・・。
≪私≫の『我儘』のせいで、≪私≫は今、≪彼≫にとても心配を掛けてしまっているのです・・・。
≪私≫が選んだ『自由』が、≪彼≫を困らせているのです・・・。
そして・・・きっと・・・≪私≫が・・・≪彼≫を置いて先に逝ってしまった事も・・・≪彼≫を苦しませ続けていたのです・・・」
「・・・」
「『自由』でありたいと言う気持ちは、≪私≫にも良く分かります・・・。
しかし其の『自由』が、誰かを傷付ける事があると言う事を決して忘れてはならないのです・・・」
「・・・」
「『自由』・・・。
完全なる『自由』など・・・本当は・・・無いのかもしれませんね・・・」
そう言うと、道仁さんは私の頭を撫でながら少し悲しい顔で微笑んだ。
道仁さんの其の悲しい笑顔を見ていると、道仁さん自身も『自由』を求めているのかもしれないと思った。
でも其れは、道仁さんの朋友を苦しめる事になる。
今、道仁さんの朋友を苦しめているのは道仁さん自身であると自分でも知っているから、道仁さんは悲しそうな顔をしているのだ。
自分が『自由』を選んだ為に朋友を苦しめてしまったと道仁さんは気付いているから、悲しそうな顔をしているのだ。
道仁さんはもう此れ以上朋友を苦しめたくないから、悲しそうな顔をしているのだ。
道仁さんは朋友を苦しませる位なら、自分は『自由』など要らないと思っているようだった。
きっと道仁さんは、自分が『自由』である事よりも道仁さんの朋友の『心』を選んだに違いない。
『自由』
私は全てから解放されて、『自由』だと思っていた。
けれど、私は本当は『自由』では無かったのかもしれない。
ただ、其れでも良いと思った。
道仁さんの悲しい顔を見ていると、私も『自由』でなくても良いと思った。
私が『自由』を選べば、きっと何処かで何らかの形で私は橘を傷付ける事になるだろう。
そして、たとえ私が『自由』に自分の思う通りに生きたとしても、橘はきっと全てを受け容れるのだろう。
私の『自由』が橘自身を傷付けると分かっていても、橘は全てを受け容れるだろう。
嫌だ。
そんなのは、嫌だ。
私は、自分の『自由』の為に橘を傷付けたくない。
橘を犠牲にしてまで、私は『自由』でいたいとは思わない。
橘が傷付くのであれば、私は『自由』でなくても良い。
〖別に、何を着ようと自由だろう?〗
そう言えば、初めて橘に会った時、橘はそう言っていた。
そう言っていたのに、橘は初めて私と会った時以来、あの緋色の袿を着ていない。
後で私は、其の着物に付いている朱殷の染みが人の血であると気付いた。
私は其れに気付いた時、何故、橘が其の袿を着ているのかを橘に聞く事が出来なかった。
怖かった。
聞きたくなかった。
真実を知りたくなかった。
きっと橘は、此の私の心の動きに気付いたのだ。
だからあれ以来、橘は緋色の袿を着なくなったのだ。
橘は〖何を着ようと自由だ〗と私に言ったけれど、自分が選んだ『自由』によって私を傷付けると知った時、橘は自分の『自由』を諦めたのだ。
橘は、私の『心』を選んでくれたのだ。
私は、今直ぐ橘に会いたいと思った。
そして『ごめんなさい』と、謝りたいと思った。
道仁さんは黙り込んだ私の方を向いて、優しく微笑みながら呟いた。
「早く・・・【彼】に・・・会わなければなりませんね・・・」
私は、道仁さんの目をじっと見つめながら頷いた。
道仁さんも、私の目を見つめ頷いた。
そして道仁さんは、少し慌てた様子で言った。
「ああ!!
済みません!!
少し、話し過ぎました!!
橘さんが、心配しているかもしれませんね!!
早く水を汲んで、帰りましょう!!」
そう言って道仁さんは水桶の底に手を掛けて水桶を少し斜めに傾け、其の水桶を川に入れてお水を汲み入れた。
道仁さんは「冷たくて、美味しそうな水ですね」と言って、嬉しそうに笑っていた。
お水をたっぷりと入れた水桶を持って、私達は家に帰る事にした。
帰り道、道仁さんが私に言った。
「今日は、色々と話を聞いて下さり有難うございました。
とても、楽しかったです」
「?
お礼を言うのは、私の方です。
色々と教えて下さり、有難うございました」
すると道仁さんは、私の目を見つめながら言った。
「教えられたのは、≪私≫の方です。
秋子さんは自分の考えを自分の言葉で、≪私≫に伝えてくれました。
秋子さんの考えは、≪私≫にとって新鮮なものでした。
≪私≫が気付かなかった事を、秋子さんは≪私≫に気付かせてくれました。
≪私≫が知らなかった事を、秋子さんは≪私≫に教えてくれました。
秋子さんとお話をして、≪私≫は倭の人の想いや考えを知る事が出来ました。
とても勉強になりました。
貴方とお話する事が出来て・・・倭に来る事が出来て・・・本当に良かったです・・・。
有難うございます・・・」
そして道仁さんは、少し視線を落とし続けた。
「≪私≫の『願い』の一つは、≪私≫が唐で学んだ事を倭の人に教える事でした・・・。
≪私≫は、倭の人に様々な事を伝えたかったのです・・・」
其の言葉を聞いて私は驚き、少し申し訳なさそうに言った。
「あの・・・。
教える相手が・・・私でも・・・良かったのですか・・・?
道仁さんは・・・もっと優秀な方に・・・教えたかったのでは・・・ありませんか・・・?」
「優秀であろうがなかろうが、≪私≫は学びたいと思っている人に教えたいのです。
貴方は、真摯に≪私≫の話を聞いて下さいました。
だから、≪私≫も貴方に応えたいと思ったのです。
貴方に、伝えたいと思ったのです。
貴方は、≪私≫の倭での一番弟子ですよ」
そう言うと、道仁さんは嬉しそうに微笑んだ。
そして、小さな声で続けた。
「此処に来て秋子さんに教える事が出来たのも・・・秋子さんから教わる事が出来たのも・・・≪彼≫が≪私≫を倭に連れて来てくれたからです・・・。
≪私≫の『願い』は・・・≪彼≫が全て・・・叶えてくれる・・・」
そう呟くと突然、道仁さんは足を止め、道の先にある木を指さしながら私に聞いた。
「あれは、桃の花ですか?」
「え?
あ!!
道仁さん!!
駄目です!!」
「え?
何がですか?」
「だって・・・桃は・・・その・・・『魔除け』・・・なのですよね・・・?
あ、あの!!
道仁さんが、【魔】だと言っているのではないのです!!
善い【鬼】でも、そう言った力は効いてしまうのではないかと・・・思って・・・」
道仁さんは一瞬目を見開き、クスクスと笑いながら答えた。
「確かに、宋でも桃の花は『魔除け』と考えられています。
倭でも、そうなのですね・・・」
事も無げに答える道仁さんを上目で見ながら、私は恐る恐る聞いた。
「・・・あの・・・。
効かない・・・のですか・・・?」
「何とも無いですよ」
「良かった・・・」
「秋子さん」
「はい」
「有難うございます」
私は御礼を言われ、恥ずかしくなって顔が紅くなった。
道仁さんはそんな私に優しく微笑み、白い花が咲く桃の花に視線を移し呟いた。
「桃は、『兆しを持つ木』と書きますよね?
桃は【魔】を防ぎ、未来を予知すると言われています。
つまり桃は『魔除け』の為だけではなく、必ず未来に訪れる『死』と言う邪気を払う木、延命長寿の『仙木』でもあるのです」
「延命長寿の『仙木』?」
「はい。
桃は、『天桃』とも『仙桃』とも言います。
宋では桃の木から成る桃の果汁を飲むと、不老不死の『神仙』になる事が出来ると言われています」
「不老不死・・・」
「宋の伝説によると、仙女である西王母が三千年に一度実が生ると言われる不老不死の霊薬である桃を漢の武帝に与えたそうです」
「仙女・・・。
仙女から頂いた桃を食べて、漢の武帝は不老不死になったのですか?」
すると道仁さんは私の方を向き、微笑みながら答えた。
「そうですね・・・。
もしかしたら不老不死となって、今も生きているのかもしれませんね・・・。
此の世は、『不思議』な事が多いですからね・・・」
確かに・・・。
【鬼】である橘と私が一緒に暮らしている事も『不思議』な事であるし、【鬼】である道仁さんと私が今現在一緒に話をしていると言う事も『不思議』な事である。
本当に、此の世は『不思議』な事ばかりだ・・・。
不老不死も、もしかしたら有り得るのかもしれない・・・。
桃を食べれば、不老不死になれるのかもしれない・・・。
此の桃では駄目なのかな・・・?
此の桃なら、何度も食べているけれど・・・。
やはり三千年に一度に生ると言う桃でなくては、不老不死にはなれないのかな・・・。
三千年の桃か・・・。
三千年・・・。
『三千年草』・・・。
「あ・・・」
私は此の時、『和漢朗詠集』に書かれていた歌を思い出し呟いた。
「【三千年に なるてふ桃の今年より 花咲く春に あひにけるかな】
三千年に一度実を結ぶと言う桃の花を、今年の春も見る事が出来るとは・・・と言う意味です。
凡河内躬恒と言う方が詠んだ句です」
「『今年の春も見る事が出来るとは』・・・。
ああ・・・。
そうですね・・・。
本当に・・・」
そして道仁さんは、視線を再び桃の木に移し呟いた。
「まさか倭で、同じ桃の花を見る事が出来るとは思いませんでした・・・。
桃の花は・・・桃の花も・・・同じように咲くのですね・・・。
時を超えて、再び出会う事が出来るのですね・・・」
道仁さんはそう呟き、真っ白な桃の花を愛おしそうに見つめ続けた。
✣✣✣✣✣✣✣✣✣✣✣✣✣✣✣✣✣✣✣✣✣✣✣✣✣✣✣✣✣✣✣✣✣✣✣✣✣✣✣✣✣✣
翌々日
今日も朝早くから道仁さんと人間の姿に化けた橘は、道仁さんの朋友を探しに町へ出掛けた。
そして夕方頃、二人は帰って来た。
私は帰って来た道仁さんに駆け寄り、聞いた。
「見つかり・・・ましたか・・・?」
道仁さんは、軽く首を横に振って呟いた。
「いいえ・・・」
「・・・そう・・・ですか・・・。
でも・・・。
きっと明日は・・・見つける事が出来ますよ・・・」
「はい・・・。
そうですね・・・。
有難うございます・・・」
道仁さんは、少し寂しそうな笑顔で答えた。
すると、道仁さんの後ろに立っていた橘が低い声で言った。
「秋子」
「何?」
「野菜を採って来る」
「え?
今から?」
「ああ」
「では、私が代わりに採って来る。
何が必要?」
「私が行く」
「でも・・・」
「私が行く」
「・・・そう・・・。
分かった・・・。
気を付けて・・・」
「ああ」
そう一言だけ言って、橘は身を翻して再び外へ行った。
最近の橘は、少し変だ・・・。
私は橘を気にしながら、取り敢えず道仁さんと一緒に橘が帰って来るまで夕餉の支度をする事にした。
道仁さんは、揉鑚で火を起こしながら呟いた。
「倭は、≪私≫が想像していた国と少し異なっていました」
「そんなに・・・異なっていますか・・・?」
「はい。
唐が亡びる直前、争いを逃れる為に人と共に多くの文化や技術が倭にやって来たと聞きました。
しかし≪私≫は、其れらを倭が受け容れるとは思っていませんでした。
倭は、唐から学ぶものは無いとして『遣唐使』の派遣を止めました。
今更取り入れる必要のない文化や技術を、倭が受け容れるとは思っていませんでした」
「・・・」
「私は京に来て数日しか経っていませんが、町を見ていると所々に唐が残っている事に気付きました。
町の作り、衣服、食べ物、書物、建物、器物・・・。
まさか此れ程まで、唐の文化や技術が残っているとは思いませんでした。
ただ残っているだけではなく、倭の文化や技術と融合しながら残っているようでした。
倭は唐の文化や技術をそのまま受け容れるのではなく、其れを取り入れつつ倭独自の文化や技術に発展させているように感じました」
『独自の文化や技術』と言う言葉を聴いて、私はある言葉を思い出し呟いた。
「『和魂漢才』・・・」
「『やまとだましいからざえ』?」
「はい。
『和魂』とは、日本古来の精神の事です。
『漢才』とは、唐や宋などから得た学問や知識の事です。
『和魂』を忘れず、『漢才』を学ぶ事。
『和魂』を以て、『漢才』を活かす事。
『和魂漢才』とは、『和魂』と『漢才』の融合の事です。
道仁さんが仰っている事と『和魂漢才』と言う言葉は、もしかしたら通じるものがあるのかもしれませんね・・・」
「『和魂漢才』・・・『和魂漢才』・・・。
確かに、そうかもしれません・・・。
倭は唐の文化や技術を取り入れ、其れを倭古来の文化や技術と融合させて、倭独自のものとして発展させているように見えました・・・。
倭の人には全てのものを否定せず、淘汰せず、受け容れ、取り入れ、融合させると言う柔軟さや順応さがあるのかもしれませんね・・・。
互いを認め合い、受け容れ合い、共に生きていく・・・。
其れはもしかしたら、他と争わない為の方法の一つなのかもしれませんね・・・。
ああ・・・。
本当に・・・。
良かった・・・」
「良かった・・・?」
「はい。
本当の倭と自分の想像していた倭が異なっていて、≪私≫はとても嬉しいです」
「嬉しい・・・ですか?
唐の文化や技術が日本にあまり残って居なくて・・・寂しくは・・・無いのですか・・・?」
「寂しくありませんよ。
倭は・・・日本は、【日本】と言う名の一つの国です。
国が独自の文化や技術を発展させる事は、自然な事です。
住む場所や人が異なれば、全てが異なります。
国は其処に住む人々が善く生きる事が出来るように、時代と共に国の在り方を変えていくべきなのです。
『今の【日本】』が『今の【日本】』であるのは、時代と共に、人と共に変化して来た結果なのです。
そして其の変化は、永遠に続く事なのです。
だから其の変化の為に唐の文化や技術があまり残っていなくとも、其れは其れで良いのです。
ほんの僅かでも、残ってさえいれば良いのです」
「残ってさえいれば、良い・・・」
「はい。
残っていると言う事が、奇跡に近い事なのです。
宋と言う国は、前王朝の遺物を徹底的に破壊し尽くします。
だから宋の歴史は古いけれど、残っている歴史は少ないのです」
「・・・」
「日本を見て、分かりました。
たとえ以前存在していたものを根絶やしにしたとしても、其の全てを徹底的に壊す事も失くす事も出来はしないのだと。
大切なものは、必ず誰かが守っているのです。
全てを消し去る事など、不可能なのです。
『善い事』も『悪い事』も、『過去』も『事実』も変わる事はありません。
『在った事』を『無かった事』にする事など出来ないのです。
完全に消し去る事など、出来はしないのです」
「・・・」
「唐は、ほとんど亡んでしまったと思っていました・・・。
でも、唐は日本の中に残っていました・・・。
唐は、日本の中で生き続けていました・・・」
「・・・」
「国が変わっても、時代が変わっても、人は変わりません・・・。
人から人に、人も文化も技術も引き継がれてきました・・・。
唐は、日本に引き継がれました・・・」
「・・・」
「海を越えて唐の文化や技術が日本に来たように、唐の思想も日本に渡って来たに違いありません。
日本に唐の文化や技術が残っているように、唐の思想も日本に残っているに違いありません。
唐の文化や技術が日本の人に引き継がれてきたように、唐の思想も日本の人によって引き継がれてきたに違いありません。
もし日本が唐の思想を引き継いでいるのであれば、其の思想は日本の人によっていつまでも生き続ける事が出来るでしょう」
「・・・」
「そして、もし宋が誤った道を歩むのであれば、日本は其の思想を以て宋を諫めて貰いたい。
全てを根絶やしにした宋にも必ず、日本の様に唐の思想を残し引き継いだ人がいるはずです。
其の人達がきっと、日本の声に応えてくれるはずです」
そう言うと、道仁さんはにっこりと微笑んだ。
そして起こした火を竈に入れ、其の火を見つめながら言った。
「秋子さん・・・。
一つ、お聞きしても宜しいでしょうか?」
「・・・?
はい」
「ずっと、『不思議』でした。
何故、日本で【鬼】と言われる橘さんと秋子さんが一緒に居るのか・・・」
「何故・・・?
何故って・・・」
其れは、私に帰る場所が無いから・・・。
帰る場所が無い私に、橘が一緒に暮らそうと言ってくれたから・・・。
そんな橘に、私は恩を返したいと思っているから・・・。
いや・・・。
違う・・・。
そうではない・・・。
私は、帰る場所が無いから橘と一緒に居るのではない・・・。
私は、橘が一緒に暮らそうと言ったから橘と一緒に居るのではない・・・。
私は、橘に恩を返したいから橘と一緒に居るのではない・・・。
私は
私は
「私は、橘に笑って欲しいから橘と一緒に居るのです。
私は、橘が悲しい時も一緒に泣きたいから橘と一緒に居るのです。
私は、橘が苦しい時も橘を傍で支えたいから橘と一緒に居るのです。
私は、私が橘と一緒に居たいから橘と一緒に居るのです」
すると道仁さんは私の方を向いて優しく微笑み、私の目をじっと見つめながら呟いた。
「秋子さんは・・・少し・・・≪彼≫に似ています・・・」
「道仁さんの朋友と・・・私が・・・?」
「はい。
人に気を遣うところが・・・。
自分の感情を抑えようとするところが・・・。
自分の心を隠そうとするところが・・・。
自分の意思を貫こうとするところが・・・。
そして・・・とても優しいところが・・・」
「・・・」
「≪私≫は以前、
〖『願い』が叶わないなど、其れは仕方の無い事なのです〗
〖『願い』が叶わなかった事を、悲しいとも苦しいとも思っていません〗
と言いました。
私は自分の『願い』が叶わなかった事に対しても、諫言して自分が殺された事に対しても、何の怨みも未練も無いのです。
其れは『運命』であり、自分の『選んだ道』でもあるのですから・・・。
ただ・・・」
「・・・」
「ただ・・・あの時、≪彼≫の泣いた顔を見た時、≪私≫は『後悔』したのです・・・。
≪彼≫を悲しませてしまった事を・・・。
≪彼≫を苦しませてしまった事を・・・。
≪彼≫を独り残して逝ってしまう事を・・・。
私は死ぬ直前、『後悔』したのです。
そして今も・・・≪私≫は・・・『後悔』し続けているのです・・・」
「・・・」
「本当は、≪彼≫と一緒にもっと話をしたかった・・・。
≪彼≫と一緒に、色々と見たかった・・・。
≪彼≫と一緒に、喜び合い、笑い合いたかった・・・。
≪彼≫の苦しみも悲しみも、分かち合いたかった・・・。
≪彼≫と共に、時を過ごしたかった・・・」
「・・・」
「きっと・・・やりたい事は、沢山あったのです・・・。
≪私≫は本当は・・・死にたくなど・・・無かったのかも・・・しれません・・・」
「・・・」
「≪私≫は・・・≪彼≫を・・・独りにしてしまった・・・」
「・・・」
「もしかしたら其の時の『後悔』が、此の世に≪私≫の『魂』を留まらせた理由なのかもしれませんね・・・」
そう言って、道仁さんは悲しそうに笑った。
すると突然、戸が開いた。
其処には、橘と一人の男性が立って居た。
其の人は、日本の人ではないようだった。
着ている衣服が、道仁さんのものとよく似ていた。
もしかしたら、此の人が道仁さんの探していた朋友なのかもしれない。
橘は野菜を探すと言って、再び町へ行って道仁さんの朋友を探しに行ってくれたのかもしれない。
私は、自分の横に立つ道仁さんを見た。
道仁さんは、目を見開いて男性を見つめていた。
そして泣きそうな笑顔で彼に駆け寄り、彼の左手を両手で包みながら呟いた。
「済みませんでした・・・」
其の人は優しく微笑みながら、道仁さんの手に自分の右手を重ね強く握り締めた。
私はそんな二人を見つつ、橘に近付いた。
そして、背伸びをして橘の耳の近くで小さな声で聞いた。
「野菜を採りに行くと言って、彼の朋友を探しに行ったのでしょう?
【鬼】の力を使って・・・」
「・・・」
「有難う・・・。
橘・・・。
道仁さんの為に・・・」
すると橘は、聞き取れない位の小さな声で答えた。
「・・・彼の為だけではない・・・」
「え?」
私は、橘の顔を見た。
橘の顔は、少し紅くなっていた。
私が橘の顔をじっと見ていると、道仁さんの朋友が私達の前まで来て挨拶をしてくれた。
「私は、桾穎草と申します。
彼が、お世話になりました。
本当に、有難うございました」
彼は、日本の言葉を話した。
私は驚いて、彼に聞いた。
「貴方は、日本の言葉を話す事が出来るのですか・・・?」
「はい。
私は、宋の商人です。
普通、宋の商人は日本人の妻を娶ります。
日本との取引の際、自分の代わりに日本人の妻に日本の言葉を話して貰う為です。
しかし私は妻帯していないので、独学で日本の言葉を学びました。
だから、私は日本の言葉を話す事が出来るのです」
「そうなのですか・・・」
「あの・・・。
お礼と言っては何なのですが、こちらを・・・。
今持っているものは、此れだけで・・・。
申し訳ありません・・・」
そう言いながら、桾さんは懐から白くて小さな首の長細い小瓶を私に手渡してくれた。
其の小瓶は、同じ素材の蓋がされていた。
小瓶を少し傾けると、中に在るものがさらさらと動いた感触がした。
小瓶の中に、粉の様なものが入っているようだった。
私は其の小瓶を優しく取り扱いながら、桾さんの方を向き聞いた。
「此れは・・・?」
「此れは、『麻黄』などの生薬が入った白磁の薬瓶です」
「『まおう』?
『はくじ』?」
「『麻黄』とは発汗、発散作用のある薬の事です。
此の薬瓶の中には麻黄の他に、肉桂の樹皮である『桂皮』や甘草の根を干した『甘草』、杏の種である『杏仁』を粉末にしたものが入っています。
小さな匙一、二杯分の此の生薬を白湯で溶かしたものを、『麻黄湯』と言います。
『麻黄湯』は悪寒や発熱、無汗、身体の節々が痛む時などに服用して下さい。
『麻黄湯』を服用すると身体が暖かくなり、自然発汗します。
汗が出れば体に溜まっていた熱を発散させる事が出来るので、次第に発熱などの症状が緩和されていきます。
『麻黄湯』は、一日三回に分けて食前または空腹時に飲んで下さい。
そして服用後は発汗を促す為に、身体を温めゆっくり休んで下さい。
発汗により体内の水分が不足してしまうので、水も沢山飲んで下さい。
『麻黄湯』にはあまり副作用はありませんが、大量に飲む事は決してしないで下さい。
また身体に合わないようでしたら、直ぐに服用を止めて下さい。
それと白磁ですが、白磁とは白い磁器の上に透明な釉薬をかけたものです。
唐の時代では、唐三彩と言われる赤褐色や藍色、緑色などを組み合わせた陶器が好まれました。
今、宋ではこういった白磁や青磁など柔らかい色の磁器の方が好まれています」
私は、自分の手の中に在る白磁の薬瓶を見つめた。
そして、少し申し訳なさそうに言った。
「此れは、とても高価な物の様に見えます・・・。
頂く訳には・・・参りません・・・」
「いえ。
是非、受け取って下さい。
そうでなければ、私の気が済みません」
「でも・・・」
「貴方方は、彼を守って下さった。
貴方方は、恩人です。
だから、私に恩を返させて下さい」
「恩だなんて・・・。
其れ程大そうな事はしていません・・・。
桾さんが見つかるまで、道仁さんと一緒に居ただけです・・・」
「彼は、【鬼】です。
其れを承知で、一緒に住んで下さった。
彼を受け容れて下さった。
其れだけで、十分です」
「でも・・・」
すると道仁さんが白磁の薬瓶を持つ私の手に自分の手を重ね、微笑みながら言った。
「是非、受け取って下さい。
≪私≫は、秋子さん達から頂いた恩を返したいのです。
でも今の≪私≫には、秋子さん達にお返しするものが何もありません。
だから秋子さんは今、此れを受け取って下さい。
後で≪私≫が≪彼≫に恩を返せば、其れは秋子さん達への恩返しと同じ事になりますから」
私は微笑む道仁さんから、自分の手の中に在る薬瓶に目を移した。
もし此れを受け取らなければ、きっと桾さんも道仁さんも困ってしまう。
其れは、絶対に出来ない。
恩返しを受けなければ、恩を返してくれた人に対して却って失礼となる。
其れに、薬は私自身喉から手が出る程欲しかったものでもある。
薬が欲しいか欲しくないかと問われれば、絶対に欲しかった。
【鬼】の力のお陰なのか、橘は病に罹る事は無い。
しかし私は【人】だから、どうしても病に罹ってしまう。
今年の冬、私は発熱した。
苦しそうな私を心配して橘は【鬼】の力で私を治そうとしたけれど、私は橘に【鬼】の力を使ってもらいたくなかったから其れを断った。
すると橘は家にある着物を全て私に着させ、苦い薬を飲ませ続け、外に出る事も一切禁じ、布団の中で一日中過ごさせた。
お陰で直ぐに回復する事は出来たけれど、着物の重さと苦い薬の味と退屈で死にそうだったと言う記憶が強く残った。
とても苦痛だった。
もう二度と、病には罹りたくないと思った。
ただ、病に罹らないように気を付けていても、罹ってしまう時は罹ってしまうものだ。
此の薬があれば、もし病に罹ってもこっそり薬を飲んで病を治す事が出来るかもしれないと思った。
もう、あんな苦しい思いをしなくて済む。
何よりも、橘に心配を掛けなくて済む。
私は、橘の心配そうな顔を見たくない。
私は道仁さんの手に自分の手を重ね、答えた。
「分かりました。
道仁さんの恩が桾さんを介して私達に送られて来ると言うのであれば、有難く頂きます。
其れに薬はとても欲しかったものなので、大変助かります。
大切にします。
有難うございます」
そう私が言うと、桾さんと道仁さんは嬉しそうに微笑んでくれた。
私は、白磁の薬瓶を見つめながら言った。
「『遣唐使』が廃止されてから、宋との取引はほとんど無くなったと思っていました」
すると、ずっと黙っていた橘が説明してくれた。
「昔、筑紫には『鴻臚館』と言う施設があった。
『鴻臚館』は他国から来た賓客や使節を迎え入れると言う外交的な役割と、日本の『遣唐使』などが一時滞在する為の宿泊施設としての役割があった。
しかし『遣唐使』が廃止されてからは、『鴻臚館』は主に唐との品物の取引の場となった。
自国から多くの品物を携えて日本に来た唐の商人は、『鴻臚館』に滞在した。
唐の商人と取引する為、先ず太宰府に派遣されて来た『唐物使』と言う朝廷の役人が『鴻臚館』にやって来て、唐の商人から品物を買い付けた。
そして其の後、他の日本人が残りの品物を買った。
唐の品物は『唐物』と呼ばれ、日本の貴族達は挙って其れ等を得ようとし、次第に私的な取引が増加していった」
『唐物』・・・。
そう言えば、私は其の言葉を聞いた事があった。
母上が〖『唐物』の一つでも欲しい!!〗と、以前叫んでいた気がする。
でも私の家は貧乏だったから、そんな高価な品物は一つもなかった。
橘は、淡々と続けた。
「取引の場でもあった『鴻臚館』は今から約百年前に放火され消滅したが、唐の次に国を統一した宋と日本の私的取引は続いた。
宋との取引は、莫大な富を得る事が出来る。
其れに気付いた平清盛の父である平忠盛は、巨万の富を得る為に、また平氏の権力を高める為に宋との取引に関与するようになった。
大宰府の介入を阻止し取引を独占する為に、偽の院宣まで出した」
「偽の院宣・・・上皇様や法皇様のお言葉を騙ったと言う事・・・?
忠盛様が偽の院宣を出されたと橘が知っていると言う事は、其の事が露顕したと言う事?」
「そうだ。
しかし、鳥羽上皇は其れを不問とした。
殿上人でもあった平忠盛は、鳥羽上皇の寵愛を受けていた」
「寵愛していたから、不問にするなんて・・・。
感情一つで『法』を曲げるなんて、おかしい・・・」
「ああ。
其の通りだ。
感情で『法』を曲げるなど、あってはならない事だ。
しかし、其れが罷り通る世界がある事も事実だ。
まあ・・・。
其の世界が、今まで長く続いた事はないがな・・・」
「ふう・・・ん。
あ。
ごめんなさい。
私のせいで、少し話が逸れてしまった。
橘。
話の続きをして」
「ああ。
続けよう。
忠盛の朝廷内での力は、宋との取引によって得た莫大な富と朝廷の後ろ盾により確固たるものとなった。
そして忠盛の財力や権力は、息子である清盛に引き継がれた。
今後、清盛は朝廷内での平氏の地位を磐石とする為、更に宋との取引を増やしていくだろう」
すると、桾さんが橘の言葉を引き継ぐように続けた。
「国を支配していた宋は今から約四十年前、北方民族である女真人によって華北を奪われました。
そして華北を手中に収めた女真人は、其の地に金と言う国を建てました。
一方南へと難を逃れて来た宋の人々は、其の地に南宋と言う国を建てました。
南宋は財政難を回避する為に、他国と取引する必要がありました。
また国を整備する為に建物や寺院、船の建造も急がなければなりませんでした。
其の為に宋は大量の材木を所持する日本と取引し、出来るだけ多くの材木を早急に宋に持ち帰らなければなりませんでした。
材木以外にも火薬の原料となる硫黄や金、水銀、漆器なども持ち帰りました。
代わりに日本に対しては青磁や白磁などの磁器や陶器、書籍、薬品、そして宋銭などを取引の品としました」
私は宋銭と聞き、少し引っ掛かった。
私は、桾さんに質問した。
「宋銭を、日本は取り入れようとしているのですか?
日本には銅銭は有りますが、あまり流通していません。
日本は必要なものを得る為に、主に絹や米、布などを用います。
つまり、物と物との交換です。
日本では今ある銅銭さえもあまり流通していないのに、宋銭など取り入れる必要があるのでしょうか?
宋銭が今後流通するとは、考え難いのですが・・・」
すると、橘が私の質問に答えてくれた。
「日本は銅の産出量が少なかった為に、銅銭が流通しなかったに過ぎない。
宋銭も銅銭であり今はまだ其れ程出回ってはいないが、宋銭が大量に日本に入って来れば今後其れらが浸透し、いずれ貨幣中心の世となるだろう」
『貨幣中心の世』・・・。
今の私にはあまり現実味は無いけれど、橘が言っているのならば恐らくそう言った世が近いうちに来るのだろう・・・。
私は時代が少しずつ変わっていっている事に少し驚いたのと同時に、其の時代の流れに自分が取り残されているような感じがして少し寂しく思った。
其の時、私は道仁さんに名を呼ばれた。
「秋子さん・・・」
私は、道仁さんの方を向いた。
見ると、道仁さんの身体が少し薄くなっていた。
「道仁さん!?」
私は、叫んだ。
道仁さんは、にっこり笑いながら答えてくれた。
「時間が、無くなってしまったようです。
秋子さん。
橘さん。
お世話になりました。
本当に、有難うございました」
私は、道仁さんと別れる事が悲しかった。
私は、もう少し道仁さんと話がしたかった。
私は、少し涙声になりながら道仁さんに尋ねた。
「これから道仁さんは・・・どうされるのですか・・・?」
道仁さんは微笑みを絶やさず、答えてくれた。
「そうですね・・・。
暫く≪彼≫と京を見てから、≪彼≫と共に宋へ帰ります」
帰ってしまう・・・。
私は少しでも長く、道仁さんと一緒に居たかった。
だから、無理だと分かっていても言わずにはいられなかった。
私は、少しずつ消えていく道仁さんの両手を取り言った。
「今の道仁さんは分身なのですから、分身だけ・・・日本に残していかれる事は出来ないのでしょうか・・・?」
すると道仁さんは首を横に振って、少し悲しそうに答えた。
「いいえ・・・。
帰ります・・・。
やはり≪私≫にとっての故郷は・・・≪私≫が生まれ育った所・・・≪彼≫と共に過ごした所なのです・・・」
そう言って、道仁さんは嬉しそうに微笑んだ。
私は今にも消えてしまいそうな道仁さんの両手を強く握り締めながら、道仁さんの名を呼んだ。
「道仁さん・・・」
すると道仁さんは私の手の中から自分の両手を優しく抜き 其の両手で私の両手を温かく包み込んでくれた。
そして、初めて会った時と同じようにニコニコ微笑みながら言った。
「秋子さん・・・。
橘さん・・・。
本当に、有難うございました・・・。
とても楽しい時間を過ごす事が出来ました・・・。
≪私≫は・・・日本に来る事が出来て・・・とても幸せでした・・・。
≪私≫は・・・≪私≫の『願い』を叶える事が出来て・・・とても幸せでした・・・」
私は道仁さんの手の中にある自分の右手を急いで抜き、道仁さんの左手を強く握り締めた。
そして、叫んだ。
「道仁さん!!」
道仁さんは、花が咲くように微笑んだ。
そして、白梅の香りだけを残して消えていった。
強く握り締めた私の右手の中に、一片の白梅の花弁だけが残った。
橘は、其の花弁を見つめながら言った。
「彼自身の力が衰え、実体化出来なくなったのかもしれない」
「・・・」
私は其の花弁を暫く見つめた後、道仁さんを・・・花弁を・・・桾さんの掌の上に優しく置いた。
桾さんは、自分の手の中にいる道仁さんの花弁を愛おしそうに見つめながら言った。
「≪彼≫は、とても嬉しそうでした・・・。
貴方方と一緒に居て、≪彼≫は楽しかったようですね・・・。
本当に・・・有難うございました・・・」
そう言って、桾さんは私達に深くお辞儀をして去ろとした。
私は、去って行く桾さんの背中を見つめた。
私は桾さんに、どうしても確かめたい事があった。
確かめずにはいられなかった。
確信を得たかった。
もし桾さんの『答え』が私の望む通りの『答え』であれば、私は此の先『希望』を持って生きていく事が出来ると思った。
私は、桾さんに向かって叫んだ。
「桾さん!!」
桾さんは、ゆっくりと振り返った。
私は、少し躊躇しながら言った。
「桾さん・・・。
あの・・・。
貴方は・・・道仁さんの・・・嘗ての・・・朋友・・・なのですか・・・?」
「はい」
「では・・・貴方は・・・道仁さんの朋友の・・・『生まれ変わり』・・・なのですか・・・?」
すると桾さんは口元に手を当て、少し考えてから答えた。
「実は・・・≪私≫自身・・・良く分からないのです・・・」
「分からない・・・?」
「はい。
記憶は・・・有るのです・・・。
≪彼≫と過ごした日々も・・・≪彼≫の『願い』も・・・。
ただ・・・前世の≪私≫が死んでから桾穎草になるまでの数百年の記憶は・・・無いのです・・・」
「・・・」
「前世の≪私≫は死ぬ間際、【天】に強く願ったのです。
〖≪彼≫の『願い』を叶えたい〗
〖≪私≫の『願い』を叶えたい〗
〖まだ天に昇りたくない〗
〖まだ天に昇る訳にはいかない〗
〖私に『願い』を叶えさせて欲しい〗
と・・・」
「・・・」
「強く願った後、前世の≪私≫は死にました」
「・・・」
「其の後の記憶が、≪私≫には無いのです。
ただ、桾穎草の両親が時々≪私≫に言ったのです。
〖貴方は生まれた時、息をしていなかった。
私達はとても辛くて悲しくて、遺体を埋葬出来なかった。
毎日貴方の遺体の前で香を焚き、貴方の『魂』を呼び戻そうとした。
そして二日後、貴方は息を吹き返した。
私達の『願い』を、【天】は叶えて下さったのだと思った。
貴方は一度死に、蘇ったのだ〗と・・・」
「・・・」
「もしかしたら前世の≪私≫の『願い』を、桾穎草の両親の『願い』を、【天】は叶えて下さったのかもしれません。
前世の≪私≫の『魂』は桾穎草と言う新しい肉体が見つかるまで、此の世をずっと彷徨い続けていたのかもしれません・・・。
道仁の『願い』を叶える事が出来る『時』を、前世の≪私≫の『願い』を叶える事が出来る『時』を、≪私≫は待っていたのかもしれません・・・。
そして其の『時』が来たから、前世の≪私≫の『魂』が桾穎草の肉体に宿ったのかもしれません・・・」
「・・・」
「前世の≪私≫の記憶が蘇ったのは、桾穎草の両親が亡くなってからでした。
桾穎草の両親の『願い』は、桾穎草の『魂』を其の肉体に戻す事でした。
しかし桾穎草の『魂』は既に天に昇り、【天】は桾穎草の『魂』を直ぐに肉体に戻す事が出来なかったのかもしれません。
だから其の代わりに、自分の『願い』を叶えようとしている≪私≫の『魂』を、【天】は桾穎草の肉体に宿らせる事にしたのかもしれません。
そして【天】は≪私≫の前世での記憶を封印し、桾穎草として≪私≫を生きさせたのかもしれません。
桾穎草の両親が亡くなり、彼らの『願い』を叶え終えた≪私≫に、【天】が≪私≫の『願い』を叶える事を許し、≪私≫の前世での記憶を蘇らせたのかもしれません」
「・・・」
「全て・・・≪私≫の憶測です・・・。
≪私≫は確かに、死ぬ間際に【天】に『願い』ました。
しかし、実際に【天】にお会いした事も有りませんし、【天】の声を聞いた訳でもありません。
抑々、本当に【天】が存在するのかも分かりません。
【天】とは何かと言う事も、知りません。
ただ・・・。
ただ・・・≪私≫は・・・やはり・・・≪彼≫の朋友の『生まれ変わり』・・・なのではないかと・・・思っています・・・。
≪私≫の『願い』を・・・【天】は聴いて下さったのではないかと・・・思っています・・・」
「・・・」
すると桾さんは掌に乗る道仁さんを見つめながら、少し悲しそうに私に言った。
「道仁の『魂』が何故、白梅の木に宿ったと思いますか?」
「・・・分かりません・・・」
「≪彼≫の『魂』が白梅の木に宿ったのは、≪彼≫が死んだ時、前世の≪私≫が願ったからです。
〖≪彼≫の全ての『願い』を叶え終えるまで、≪私≫の全ての『願い』を叶え終えるまで、どうか≪私≫から≪彼≫を奪わないでくれ〗
〖≪彼≫の『魂』を、天に連れて行かないでくれ〗
と・・・。
≪私≫は・・・強く・・・願ってしまったのです・・・」
「・・・」
「≪私≫の『願い』は、もしかしたら死んだ≪彼≫を苦しめ続けていたのかもしれません・・・」
苦しそうに呟く桾さんを見て、私は叫んだ。
「其れは、違います!!
道仁さんは、仰っていました!!
貴方がずっと傍に居てくれたから、寂しくなかったと!!
貴方がずっと傍に居てくれたから、幸せだったと!!
貴方が、自分の『願い』を全て叶えてくれていると!!
だから道仁さんは、決して苦しんでなどいませんでした!!」
私の言葉を聞いた桾さんは、泣きそうな笑顔で呟いた。
「・・・そう・・・。
・・・そう・・・ですか・・・」
桾さんは、花弁を見つめながら続けた。
「≪私≫の『願い』も、≪彼≫の『願い』も全て叶いました・・・。
あとは≪彼≫の『魂』の一部を元の場所に・・・白梅の木に戻し、桾穎草の中に在る≪私≫の『魂』が天に昇る『時』を待つだけです・・・」
「・・・」
「桾穎草としての生を全うし、此の身が朽ち果てた後、桾穎草の『魄』は肉体に残り、≪私≫の『魂』は桾穎草から離れます・・・。
今度こそ、≪私≫の『魂』は白梅に宿った≪彼≫の『魂』と共に天に昇るのです・・・。
そして≪私≫と≪彼≫の『魄』も永遠に、白梅の木の中で生き続けるのです・・・
ずっと・・・永遠に・・・≪私≫の『魂』も『魄』も・・・≪彼≫と共に在り続けるのです・・・。
≪私≫は、もう二度と≪彼≫と離れはしない・・・。
もう二度と、≪彼≫の手を放しはしない・・・」
そう言って桾さんは花弁を優しく手の中に包み、嬉しそうに微笑みながら去って行った。
私は、桾さんの去って行った方を見つめながら思った。
桾さんは・・・道仁さんの朋友は、とても幸せそうだった。
そして道仁さんも、とても幸せそうだった。
二人は亡くなった後、自分達の『願い』を全て叶える事が出来た。
私は二人が再び出会い、一緒になれた事が嬉しかった。
私は、二人が幸せになれた事が嬉しかった。
其れと同時に、思った。
『強く願えば、道仁さんの朋友の様に『願い』を叶える事が出来るのかもしれない・・・。
強く願えば、『生まれ変わる』事が出来るのかもしれない・・・。
『生まれ変わる』事が出来るのなら、私は死んだ後、再び橘に会う事が出来るのかもしれない・・・。
たとえ離れ離れになったとしても、また橘に会う事が出来るのかもしれない・・・。
また、橘と一緒に生きる事が出来るのかもしれない・・・。
道仁さんの朋友が、『生まれ変わり』だと良い・・・。
道仁さんの朋友が、『生まれ変わり』であって欲しい・・・。
何十年、何百年、何千年掛かっても良い・・・。
遥か遠くでも良い・・・。
別の人間に生まれ変わっても良い・・・。
もし橘が望んでくれるのなら・・・私は・・・『生まれ変わり』たい・・・。
そして、橘にもう一度会いたい・・・』
と・・・。
私は、橘の手を強く握った。
橘も、私の手を優しく握り返してくれた。
私は、ふと空を見上げた。
空に、季節外れの紅い紅葉が一葉舞っていた。
紅葉は、ひらひらと私達の足元に舞い降りた。
私は其の紅葉を拾い上げ、空にかざしてみた。
夕日の光が、私の目に真っ赤な紅葉を映した。
此の紅葉が何故此処に在るのか、私には分からなかった。
でも其の紅葉を見ていると、何故だか分からないけれど、『希望』が持てるような気がした。
私は・・・。
私も・・・。
きっと再び・・・橘に会う事が出来ると思った・・・。
私は、紅葉を見つめ続けた。
夕日の光を含んだ紅葉は、私を紅く照らし続けた。
紅い光は、私を温かく包み込んでくれた。
私は其の光を、受け止め続けた。