しらたまさんとの小説その8
「こんなに幸せそうな顔して」
奥方様の胸の中で眠る赤子は顔いっぱいに幸せを書いた様な顔で寝息を立てている。
「白、この子をよろしくお願いね」
何事か寝言を言うこの子は一体どんな夢を見ているのだろう。
小さな手に触れるとありったけの力で指を握り返して来た感触は今でも忘れてる事はできない。
「白ー!」
「零様、先程から何度も申し上げていますが」
「お付の人が付いて一緒に事前に行くところが決まってたら城下に出ていいんでしょ!?」
「そうです」
「だからそれじゃあ意味が無いんだってー!」
「それでは城から出すわけにはいきません」
「ケチ!!」
普段からわがままな方の若様ではあるが、これはひどい。兄弟の中でも1番の末っ子で母君様を早くに亡くされてしまったせいか、周りが甘やかしてしまったのだ。
「分かってください、零様。殿の御子が城下に出たら大騒ぎになりますし、それこそ悪い輩が居れば…」
「あーもう分かった!寝る!!」
そう言うと若様は自室に戻ってしまった。
…嫌な予感しかしない。
草木も眠る丑三つ時
ちょうど目の前の扉が小さな音を立てて動く。
「どうしてそこまでして城下に出たいのですか…」
ここは下働きの台所から勝手口に繋がる場所である。
提灯を掲げると可愛らしいお面が目に入った。
「これでも…ダメ?」
「…それで変装したつもりなら考えた方がよろしいかと」
「じゃあ、白一緒に付いてきて」
「何を言ってますか、お部屋にお戻りください」
「白…ごめん、そのお願いは聞けない」
「聞いてくれなければ私が困ります」
「僕が一生のお願いをしても?」
正直この言葉には驚きを隠せない。「お願い」は山ほどしている若様だが「一生のお願い」は初めてだ。早くに母上様を亡くされた若様は「一生」の重みを知っているからである。
「一生のお願い。白だけ付いてきていいから自由に城下を歩かせて」
お面を被っているから表情は分からない。ただ声からはただならない気配が漂ってきたため、遂に根負けした。
「これがお祭りか!!」
「もうすぐ明け方ですから人はおりませんが」
「いやいや、雰囲気だけでも見れてよかった!」
そう言ってはしゃぐ若様は子供の頃のままだ。
「人が居れば屋台もやって居たのだろうなぁ」
少し残念そうに屋台を見回す。
「…来年は零様も楽しめるように手配致します」
「来年か…来れるといいな」
何故か遠くを見るように呟いた。
朝から芝居小屋に籠り、昼は茶屋や浮世絵を見に行ったりと街を歩き回りあっという間に申の刻となった。
「さすがに疲れたね」
そう言うと若様は橋の横に座り込む。
「…こちらから見える夕陽は母君様もお好きでしたよ」
「…母上もこの夕陽を見たのか…」
「零様」
「ん?」
「疲れてるところすみませぬが、少々立って頂いても?」
「…?うん」
ゆっくりと立ち上がる若様に跪く。
「貴方が生まれて、私は貴方の母君様からこの子を一生守るように言われました…私は一生あなたのものです」
「…ありがとう白…」
そう言う若様の声に元気さが少しもない。
「ここは…,」
「花街です」
「花街とは?」
「端的に言えば女を買うところですね」
若様の顔が耳の先まで赤に染まる。
「白は…女を抱いた事があるのか?」
「零様より長い人生ですから」
よろける用に歩き出す若様を後ろから支えながら歩く。
長い人生ではあるが、母君様が若様を産んでからは女とは程遠い人生を送ってきた。
若様の為の人生に変わったからである。
「今日はありがとう」
すっかり次の日の夜も更けて、若様は帰る気になった様だ。
「気が済みましたか」
「うん、充分に私の城下を見られた」
「それでは帰りましょう」
「白…あのね」
「この後に及んでまたわがままですか」
力無く首を振ってあるかないかの小さな声で言う。
「私は叔父の家の養子になる」
頭に突然隕石でも降って来たかの様な衝撃が走った。
「養子とは…」
「うん、叔父の家は子供がいないでしょう?でもイチ地方を管理する大事な役目を担っている。でも…ずっと子供が出来なかったんだ。私は…兄弟の中でも末っ子だしね。だから」
途中から声が途切れていく。
「だから…私の…そのままの国が最後に…見たかった。だから…一生のお願い…だったんだ」
…泣いているのか。
…泣かないで私の小さな御子。
…離しはしない。私の御子なのだから。
そっと頭を撫でる。
「城に戻りましょう。汗を流した方がいい」
ゆっくり頷く若様は、まだまだ子供の表情をしていた。
城に戻ると、白と共に脂が切れてしまうほど父君に叱られた。
自分のわがままを通したせいだったので、白が叱られるのは心外だったのだが、そこは家臣としての役割を果たせなかったという事だろうか。難しい話はよく分からない。
叱られて、湯に浸かることが出来るまで実に一刻が過ぎていた。
「白には悪いことしたなぁ…」
独りごちて湯を浴びる。城下は初めてだったがやはり落ち着くのは自分の城だ。
でも数日もすれば、その自分の城とも一生縁を切らなければならない。
「入りますよ」
突然、白の声が聞こえて現実に戻される。
「え?あ…はい」
返事を待って白が入ってきた。思わず顔を背ける。
小さい頃から白とはよく湯に浸かっていたが、最近はほとんど無い。
「よいしょ」
そのまま抱っこをされて、全身が火照るのが分かる。
「小さい頃はよくこうして湯に浸かってましたな」
若干太くて響く声。ずっと聞いていたい。
背中に何かが触れる感触がして振り返る。
「そのままで」
「…!?」
声がくぐもって、背中に顔が触れているのだとすぐに分かった。
「若様…私は若様にずっと仕えてきた。若様は私の御子です。貴方は…私のものだ」
背中にざらついた感触が走り、思わず声が出る。
「この滑らかな肌も艶やかな黒髪も妖しく輝く瞳も…全部全部私のものだ」
「白…でも私は…」
「1人で行かせはしない」
「今晩は私が貴方を買いましょう」
これが女の世界だろうか。花街の女達はこんなめくるめく世界を毎晩過ごしているのだろうか。
「白…」
目の前に覆いかぶさっている男の名前を呼ぶ。男は深い口付けで答えた。
「それでは零様お元気で」
数日後にその日は来た。準備などで意外と忙しく、実感は無い。
目の前に、家臣が並ぶが白の姿は無い。
「白は…?」
「殿に話があると言ってそのままです」
「そうか…」
白の前でわがままな自分とは、もうお別れということか。
「皆、ありがとう。私のわがままに付き合ってくれて」
その途端、家臣の中で細かな笑いが起きる。
「何を言ってるのですか、皆若様がわがままを言う度に我が子の様をあやす気分になって楽しかったのですよ」
その返事を聞くと思わず自分も小さな笑いが漏れる。
「では皆さようなら、また会えたら」
そう心から願いながら言うと、何やら恥ずかしい気持ちで籠に乗った。
叔父の住まう所までは5日かかる。その間宿にも泊まるし、休憩も何度か挟まなければならない。
「初めての長旅ですがどうですか?」
最初の休憩で叔父の家の家臣が声をかけてきた。これから白の代わりになる人だ。
「私はラクして行くから楽しいですが、皆は大変では無いですか?」
「いえいえ、私らも新しい当主となる方を迎えるのはそれはそれは楽しみだったので」
そうか…曲りなりにも私は当主になるのだ…
「優しそうな方で安心しました。おや?」
遠くから激しい馬の蹄の音が聞こえてくる。
「あれは…白…?」
段々見覚えのある姿が近づいてきた。
すぐに自分を抱いた男が目の前に現れる。
「殿からの命で来た。私は今日から零様のお付になる。書簡もある。殿の花押も入っているが見るか」
叔父の家臣が首を振る。
「我々も慣れない土地で慣れない人に囲まれる零様は不憫だ。1人でも城の人が居るのは安心であると思う」
白の馬に思わずふらついた足で近づく。
「白…なんで…」
すぐに馬から降りると頭を抱えられた。
「一生あなたのものだと申し上げました」
長旅が終わり、無事に叔父上の館に着いた。
そしてこの状況は…
「零様お部屋にお戻りください」
「いや!」
「それでは今晩どうするんですか」
「どうするって…」
若様が耳の先まで赤くして縮こまる。分かってはいる。抱いて欲しいのだと。だから自室ではなく、自分の部屋に来たのだと。ただ…
「今晩はお休みください。長旅で疲れているでしょうから」
「僕は疲れてない!」
「意地を張らないでください。自分に見えない疲れとは案外あるものですよ」
「ない!」
ほとほと困らせる若様である。仕方ない。
若様に近づいて手を握り、耳元でそっと呟く様に言う。
「泣いて離せと言っても離しませんよ?」
耳の先まで赤くした顔がゆっくり肩に乗った。
「白…ずっと傍にいて。好きだから」