10.本当は嘘で真実な虚言
ママが青ざめた表情で、園長室に駆け込んできた。
「いったい何があったの!?」
ソファに座っていたみことに向かって叫んでから、慌てて園長たちに頭を下げる。ママがみことの隣に座ると、先生からの事情説明が始まった。
閉め切られたドアの向こうから、子どもたちがはしゃぐ声が聞こえてくる。しかし、書類が整然と並ぶ園長室には、教室とは違う重苦しい空気が流れていた。いつも優しい笑顔を見せてくれる先生が、険しい面持ちで説明を続けている。
頭に大きなたんこぶを作った貴理子は、先生に付き添われて病院へと向かった。精密検査の結果、幸いにも大事には至らなかったという。すでに母親が病院へ迎えに来て、貴理子は自宅へ戻ったと聞かされた。
瑠璃もひどく動転していたため、父親が迎えに来てそのまま早退していた。みことはママが到着するまで、ひとり園長室で待機していたのだ。
先生の説明はみことに同情的なものであったが、相手に怪我をさせてしまった以上、庇いきれるものではなかった。相手の保護者に謝罪すべきだと、園長からも強く促された。
「本当に、申し訳ありませんでした」
説明が終わると、ママは深々と頭を下げた。そして、みこともそのまま早退することになった。
駅構内に立ち並ぶショーケースには、色とりどりの洋菓子が並んでいた。その一角で、ママは手早く贈答用の詰め合わせを購入する。大きな箱に様々な形のクッキーが詰め込まれていて、まるで絵本の中に出てくる食べ物のように思えた。
その菓子折りを手に、ふたりは貴理子の家へと向かうため、バス停へと向かった。すでにママが電話で謝罪と訪問の意向を伝え、承諾をもらっていた。
席の隣に座るママは終始無言で、みことの方を決して見ようとはしない。重苦しい沈黙に耐えきれず、みことはママに話しかけた。
「ママ、ごめんなさい。でもね、貴理子ちゃんひどいこと言うんだよ! だから、瑠璃ちゃんが泣いちゃって……」
自分のしたことは間違っていないと、みことは言いたかった。怪我をさせてしまったのは悪いけれど、決してわざとではない。そもそも、貴理子が人の嫌がることばかりするのが悪いのだ。それを、ママに分かってほしかった。
「みんなすごく困ってたの! やめてって言っても、やめてくれないし。それに、他の子の積み木を蹴飛ばしたんだよ! その子も泣いちゃうし……」
緊張していたみことは、いつもより饒舌になっていた。さらに何か言おうとした瞬間、ママの低い声がそれを遮った。
「だからって、怪我をさせていいわけないでしょう! 少し、黙ってて」
ママに冷たく突き放され、みことは押し黙るしかなかった。
住宅街の入り口でバスを降り、スマホの地図アプリを頼りに、ふたりは黙々と歩いた。やがて見えてきた貴理子の家は、真新しい三階建ての一軒家だった。周囲に並ぶ古めかしい家屋とは対照的に、その現代的な佇まいは一際目立って見える。
インターホンを押すと、しばらくして貴理子の母親が気だるそうに出てきた。
「この度は、大変申し訳ありませんでした」
玄関先でママが深々と頭を下げ、恐縮した様子で菓子折りを差し出した。
「まあ、子どものやることですからね。うちの子も、随分と暴れていたようですし……」
そう言った貴理子の母親は、意外に怒っていないように見えた。
「急に仕事中に呼び出されて、大変だったんですよ。わざわざ病院に迎えに行って……こっちも暇じゃないのに!」
彼女は子供の怪我を責めるというより、急に予定を狂わされたことに腹を立てているようだった。暇ではないというフレーズを何度も繰り返し、とりとめもない小言がくどくどと続いた。
「大変申し訳ありませんでした」
ママは何一つ反論せず、小言を聞きながらひたすら頭を下げ続けた。謝罪を繰り返すその姿には、お洒落なワンピース姿は、どこか痛々しく不似合いに見えた。
やっと謝罪から解放されたふたりは、来た道をバス停へと引き返した。沈黙が支配する中、ママのスマホが着信を告げる。表示を見た瞬間、ママは弾かれたようにスマホを耳に当て、早口で話し始めた。
「はい、柚浅です。……慶介さん、今日は本当にごめんなさい。ええ、娘の方は大丈夫でした」
相手は、今日ママが会っていた男性らしかった。みことが起こしたトラブルのせいで、せっかくの約束を台無しにしてしまったのかもしれない。
「この埋め合わせは、また今度……。え? それは、そうですけど……」
会話の内容まではわからないが、ママの表情が目に見えて沈んでいくのがわかった。
「はい……わかりました。あの……」
最後にママが何かを言いかけたが、電話はぷつりと切れてしまった。スマホを耳に当てたまま、ママは呆然と立ち尽くした。
その姿を目の当たりにして、自分の軽率な行動がママに迷惑をかけたことを知る。みことの背筋を、冷たい汗が伝っていった。
その日の夕食は、帰りにコンビニで買ったおにぎりだった。みことはエビマヨネーズのおにぎりのフィルムを剥がすと、静かにそれを食べ始める。ママが食べずにぼんやりしているので、みことは顔色をうかがいながら声をかけた。
「ママは食べないの?」
「私はいいから、歯を磨いたらもう寝なさい」
ママは無表情だったが、その下に激しい感情を隠しているように見えた。たまに向けられてくるママの視線が、突き出すように痛かった。
「お風呂は?」
「……今日はいいから、もう寝て」
汗で気持ち悪いということはないが、お風呂に入ってスッキリしたかった。そんな思いを押し殺し、みことは素直にパジャマに着替えた。ママが部屋に布団を敷き終えると、何も言わずキッチンへと戻っていく。
「おやすみなさい」
「……おやすみ」
部屋を隔てる引き戸が閉まると、みことは布団に入り横になった。しかし、様々なことが頭をよぎり、とても寝つけそうにない。何度も寝返りを打ちつつ、今日起きた嫌な出来事を、頭の中から振り払おうとした。
どれくらいの時間が経過しただろうか。うとうとしてきたところに、何やら動物の鳴き声が聞こえた。それは、ママのいるはずのキッチンから、か細く漏れ聞こえてくる。
光が漏れる引き戸を細く開けて覗くと、ママが珍しくお酒を飲んでいた。ダイニングテーブルの上には、長い間放置されていたワインボトルが置かれている。ママは椅子に座ったまま、力なく机に突っ伏していた。
動物の鳴き声だと思っていたそれは、ママがすすり泣く声だった。
「……どうしたの?」
みことは引き戸をそっと開けて、キッチンのママに小さく問いかける。
「いいからほっといて!」
ママはワインの入ったコップを握りしめたまま、激しい口調でそう言い放った。ワインボトルの中身は、ほとんど空になっている。
みことは気後れしながらも、泣いているママを放っておくことができず、前に進み出た。ママは誰に聞かせるでもなく、うわ言のように呟いている。
「……すごくいい雰囲気だったのに。うまくいけば、将来だって変わっていたかもしれない……。なのに……なんで、今日に限って」
ママはだいぶ酔っているらしく、顔が赤く、呂律も回っていなかった。
「子供がいたら、予定が狂うなんて日常茶飯事よ。自分の思い通りに行くことなんて、何一つない。周りに文句を言われながら、こっちは必死にやってるの!」
それは、目の前のみことではなく、ここにはいない誰かに向けられた言葉のようだった。
「もともと、本気で付き合うつもりなんて、最初からなかったんでしょ? それを真に受けて、必死に時間を作って……。私、ほんとバカみたい」
ママが誰と会い、どんな時間を過ごしていたのか。みことはそれを聞いてはいけないと思ったし、知りたくもなかった。ましてや、自分を卑下するママの言葉など、なおさら聞きたくはない。
「結局、男なんて勝手なのよ。振り回されるなんてもういや。それでも、ひとりはもっといやなの……」
みことは、思わず叫んでいた。
「みことがいるよ!」
誰がなんと言おうと、自分だけはママの味方なのだと伝えたかった。しかし、ママから返ってきたのは、突き放すような冷たい言葉だった。
「あなたに、何ができるの? 世話を焼かせるばかりじゃない。まさか、友達に怪我させるなんて……」
焦点の合っていない瞳で、ママがみことに問いかける。
「ねえ、なんで私のことを邪魔するの? 私に自由ってないの? 私は幸せになっちゃだめなの?」
ママはそこまで言うと、力尽きたように机に突っ伏した。そして、消え入りそうな声で、口にしてはいけないはずの一言を漏らした。
「あんたなんて……産まなきゃ良かった……」
ママはそれきり動かなくなり、穏やかな寝息を立て始めた。
みことは静かに扉を閉めると、布団に入って横になる。聞き間違いだと思いたかったが、ママの言葉は確かに耳に残っていた。
『家族だって、絶対じゃないんだ』
蓮の言葉が、脳裏をよぎる。
なぜ、ママと一緒にいられるのを、当たり前だと思ってしまったのだろう。それが絶対ではないことは、すでにパパが証明してくれていたのに。
子供だから当然だと、甘えてはならない。ママの重荷になってはいけない。親が子供を手放さないとは限らないのだから。
ママの言葉が、いつまでも頭から離れない。
みことは両手で耳を塞ぎながら、暗い布団の中で丸くなった。




