09.濁った世界に口付けを
その日のママは、見慣れた地味なスーツではなく、紺色の可愛らしいワンピースに身を包んでいた。保育園へ行く準備を進めてはいるが、いつもより時間をかけて化粧をしている。
「ママ、今日は会社じゃないの?」
その様子を不思議に思い、みことはママに聞いた。
「今日は人と会うって、何度も言ったでしょ」
「あ、そうだった」
ママのため息混じりの返答に、数日前からそう聞かされていたことを思い出す。ママの気合いの入れように目を奪われて、すっかり頭から抜け落ちていた。
ママが外で人と会うことは増えていたが、平日に会社を休んでまで出かけるのは、これが初めてだった。
「遊びに行くの?」
「別に、遊びってわけじゃないけど……」
その問いを否定しつつも、ママの態度はどこかぎこちない。そして、みことの顔をしばらく見つめてから言った。
「今度、どこか遊びに行こうか。……遊園地とか」
「え、行きたい! 行きたい!」
ママと遊園地に行くなど、いつ以来だろう。記憶を辿っても、はっきりと思い出せないくらいだった。
「じゃあ、計画立ててみようかしら……」
そう言ったママは、少し遠くを見るような目で考え込んでいた。
遊園地に行くのも楽しみだったが、何よりママの表情が明るいことが嬉しかった。ママのワンピースを見つめながら、みことは言った。
「その服、買ってよかったね」
それは、前にショッピングセンターでママが見惚れていた服に似ていた。あの時は興味がなさそうにしていたが、本当は欲しいと思っていたに違いない。
「そう? 少しだけ奮発して買ったんだけど……似合うかな」
「すっごく、かわいいよ!」
みことの弾んだ答えに、ママは嬉しそうにはにかんだ。
家を出ようとすると、ママのバッグに入っていたスマホが振動した。何かのメッセージが届いたようで、それを見たママの表情が少し険しくなる。
「どうしたの?」
みことが心配そうに聞くと、ママは眉をひそめたまま答えた。
「おじいちゃんが、入院するかもしれないって」
「パパのじいじが?」
父方のおじいちゃんとおばあちゃんには、年に一度ほど顔を合わせる機会があった。孫が可愛いのか、時折食事会に誘われるのだ。
誕生日にはプレゼントを贈ってくれるのだが、そうしたやり取りも含めて、パパには内緒にしているらしい。それほど、ママとパパは顔を合わせたくないのだろう。
「病気なの?」
「うん、ちょっと心配だね」
「お見舞い行くの?」
「どうだろう……。少し様子を見てからかな」
ママの両親はすでに亡くなっており、他に頼れる親戚はいない。だからこそ、何かと親切にしてくれる義理の両親を、無視することはできなかった。
「さあ、行きましょう」
気を取り直したようにママはそう言い、ふたりは保育園へと向かった。
登園の際、先生に私服を褒められたママは、どこか恥ずかしそうだった。そして、待ち合わせの相手がいる場所へと、足早に向かって行った。
今日はきっと良い日になる。何となくそう思っていたみことの期待は、見事に裏切られた。
朝から貴理子の機嫌が悪いらしく、近くにいる子にきつい言葉を投げかけている。そのため、園内の空気は朝からずっとギスギスしていた。
そんな貴理子は、あえて人がたくさんいる場所を選んで人形遊びを始めた。そして、すぐ隣で遊んでいた男の子と肩が触れると、その子が積み上げていた積み木を、ためらいなく蹴飛ばした。
「じゃまなのよ! もっと、向こうでやって!」
貴理子に怒鳴られた男の子は、驚いてその場で泣き出してしまった。
「いったい、どうしたの?」
先生が慌てて駆けつけ、何があったのか問いかけた。
「貴理子ちゃんが、積み木を壊して凌くんを泣かせたんだよ!」
周りで見ていた子どもたちが、一斉に貴理子を非難し始める。しかし、貴理子はさらに声を張り上げて言い返した。
「この子が、貴理子のことを邪魔したの!」
今日何度目かのトラブルに、先生も困り果てた表情を浮かべている。
「だからって、壊したらだめでしょう。ちゃんと、ごめんねしようね」
「こんなことで泣くほうが悪いのよ! 男の子のくせに!」
貴理子は先生の言葉に耳を貸すどころか、めちゃくちゃな理屈をわめき散らしている。
そんな混乱を、みことは少し離れた場所から眺めていた。蓮が隣にやって来て、ボソリとつぶやく。
「今日も荒れてるな……」
みことは顔をしかめて、それに答えた。
「なんで、あんなことするんだろう。仲良くしたほうが楽しいのに……」
彼はいつものように、冷めた口調で言った。
「甘えてるんだよ。子どもだからって、何をしても許されると思ってる。……そんなわけないのに」
みことは、蓮の顔をまじまじと見つめた。
彼がそれとなく話しかけてくるのは、同じ境遇の自分に、話を聞いてほしいからではないか。少し前から、みことはそう感じるようになっていた。
みことは、恐る恐る蓮に尋ねた。
「蓮くんは……許されなかったの?」
みことの直感が当たっていたのか、彼は怒りもせずに言った。
「俺はいい子だったよ……あいつに比べればね。でも、ママは家を出て行った」
蓮を迎えに来るのはいつも父親だったので、その言動から、母親はいないのだろうと察していた。自分に言い聞かせるように、彼の言葉は続く。
「ママは自分のことを優先したんだって、パパはそう言ってた……」
静かに話していた蓮に、後ろから鋭い声が飛んだ。
「そんなのおかしいよ! 家族なんでしょ」
割って入ってきたのは、いつの間にかそばに来ていた瑠璃だった。その表情は、なぜか激しい怒りに満ちている。そんな彼女に対し、蓮はあくまで冷ややかに答えた。
「おかしくないよ。親が別れるなんて、普通にあることじゃないか」
「そんなのダメだよ! 家族は一緒にいなきゃダメなの!」
食ってかかる彼女に対し、蓮は翳りのある表情を浮かべて言った。
「お前のママも、出て行ったのか?」
指摘された瞬間、瑠璃の表情がみるみる悲しみにゆがんでいく。
「ママは……別の人と暮らすんだって。だから、瑠璃はパパと暮らさなきゃならないって」
瑠璃の瞳に、じわりと光るものが浮かび上がる。
「ママ言ってたもん。私のことが、大好きだって。なのに、なんで私を連れていってくれないの?」
瑠璃は悲痛に叫んだ。その問いに、答えられる者はいない。
だが、その沈黙を破るように、意外なところから言葉が投げつけられた。
「なに? あなた、捨てられたの?」
みことが振り向くと、そこには貴理子が立っていた。彼女は面白いおもちゃを見つけたように、意地の悪い笑みを浮かべている。
「ち、ちがうよ」
瑠璃は否定するが、その声に力はない。
「何が違うの? 別の男と暮らすって言われたんでしょ?」
「それは……」
「知ってる。それ、『ふりん』って言うんでしょ? パパ以外の男と仲良くしてたんだ! それって、悪いことなんだよ!!」
瑠璃は何も言い返せなかった。貴理子の言葉に傷つき、波立つ感情を抑えるだけで精一杯という様子だ。
「やめなよ!」
そんな瑠璃を見ていられず、みことは貴理子に向かって叫んだ。相手を咎めるというよりも、懇願に近い訴えだった。だが、貴理子はそんなみことの声に、耳を貸そうとはしなかった。
「あんなにママを自慢してたのに、自分が捨てられちゃうなんて可哀想! あはは!」
瑠璃はとめどなく涙を流し、息を吸うたびに肩を大きく揺らしながら、声を出せずにあえいでいた。
「もうやめて!!」
みことは絶望的な気持ちのまま、貴理子を力いっぱい突き飛ばした。不意をつかれた貴理子は、あっさりとバランスを崩す。その体が後ろへ倒れ、次の瞬間、机の角に頭を激しく打ちつけた。




