08. 家族の肖像
週明けの月曜日、インフルエンザでずっと家に閉じこもっていたみことは、久しぶりに保育園へとやってきた。いつもよりも到着が早かったせいか、園児の姿はまだ数えるほどしかいない。
「大変でしたね。みことちゃん、元気になってよかったです」
「ええ、私まで共倒れにならなくて助かりました。それで、しばらくは延長保育でお願いします」
ママは先生にそう言い残すと、足早に会社へと向かっていった。少しでも早く出社して、溜まった仕事を片付けたいのだろう。みことは、遠ざかっていくママの背中を見送った。
保育室へ足を踏み入れると、そこにはすでに瑠璃の姿があった。こんなに早い時間に彼女が登園しているのは珍しい。
瑠璃に対するわだかまりは、みことの一方的なものでしかない。きっと彼女は、何も気にしていないだろう。時間が経ち、みことの感情も落ち着いていたので、いつも通りに挨拶をすることにした。
「瑠璃ちゃん、おはよう」
「おはよう……みことちゃん」
なんだか、瑠璃の様子がおかしいと感じた。いつもの自信に満ちた態度が影を潜め、少し元気がないように見える。
みことは気になり、彼女の顔色をうかがいながら声をかけた。
「どうかしたの?」
「べつに、何でもないよ」
瑠璃はそう答えるが、その声にはいつもの張りがない。普段ならみんなの輪の中心に入ろうとするのに、今日はひとりでいることが多かった。
自分が避けられているのかと不安になったが、そういうわけでもなさそうだ。何度か言葉を交わしてみたものの、彼女はどこか上の空で、会話はなかなか続かない。
そうこうしているうちに時は過ぎ、気づけば今日も降園の時間を迎えていた。
子どもたちが次々と帰っていく中、まだ瑠璃の姿は園内にあった。もう一度声をかけようか迷っていると、入口の方から何やら激しい叫び声が聞こえてきた。
「やだ! 帰りたくない!」
「いい加減にしなさい! いつまでワガママ言ってるの!」
どうやら、貴理子が母親と言い争っているようだ。貴理子が感情を爆発させるのは珍しくないが、母親も一緒に声を荒らげている。その激しさに、周囲の人たちもどうしていいか分からず、困惑したように立ち尽くしていた。
「やだ! おうちにいたって、どうせつまんないもん!」
「ああ、そう! だったら勝手にしなさい! もう、あんたのことなんて知らないから!」
貴理子の母親も、完全に我を失っているようだった。人の目も気にせずに、我が子を怒鳴りつけている。
「あの、お母さん。落ち着いてください……」
「先生は黙っててください! この子はただ構ってほしくて、こんな身勝手を言っているんです!」
先生が間に入り、なんとか事態を落ち着かせようとしている。さすがに子どもを置いていくわけにはいかないので、母親は貴理子を強引に連れて帰ろうと手を引いた。
「いいから、来なさい!」
「離して!! ママなんか大嫌い!」
結局、貴理子は引きずられるようにして、園の外に連れて行かれた。ふたりが部屋から出ていくと、あたりは急に静かになる。しかし、外からはまだ、激しく言い争う声が漏れ聞こえていた。
「貴理子ちゃん、大丈夫かな……」
みことは、ぽつりとそうつぶやいた。大人があんなに感情的になったのを、初めて見た気がする。それは答えを求めた言葉ではなかったが、近くにいた蓮が答えた。
「大丈夫じゃないよ」
「え?」
蓮の口から出た穏やかでない言葉に、みことは彼の顔を見る。それに促されたかのように、蓮は淡々と言葉を続けた。
「心配なのはママの方だよ。人前で怒鳴るのは、それだけ余裕がないってことだ。もう、終わりが近いのかも……」
「終わりって、何が?」
みことの問いに、蓮が目を細めて言った。
「家族だって、絶対じゃないんだ。それは、君も知っているだろう?」
みことは、蓮の言葉にどう返せばいいのか分からなかった。自分にパパがいないことを指摘されているのはわかる。けれど、物心つく前からそれが当たり前だったので、あえて気にしたことなどなかった。
「それってどういうこと?」
突然、瑠璃がふたりの会話に割り込んできた。
「親が子どもと一緒にいるのは、あたりまえでしょ?」
瑠璃は硬い表情で蓮に詰め寄った。その勢いに圧倒されながらも、蓮はどこか冷めた笑みを浮かべて言った。
「あたりまえじゃないよ。そう思うのは、僕らがまだ子どもだからだよ」
突き放されたような言葉に、瑠璃の表情が歪む。
さらに、瑠璃が口を開きかけたその時、入り口から彼女を呼ぶ声が聞こえた。見ると、珍しく瑠璃の父親が迎えにきている。彼女はまだ何かを言いたげだったが、諦めたように父親の元へ歩いて行った。
みことは話の内容についていくことができず、ただ戸惑っていた。自分はまだ子どもでいいから、そんな話は聞きたくない。みことはそう思いながら、早くママに迎えにきてほしいと願った。
それからしばらくの間、ママの残業は毎日のように続いた。休んだ分を取り返すためか、少しでも早く出勤し、必死に働いていた。
どんなに余裕がなくても、暮らしの雑務を放り出すわけにはいかない。食事はレトルトで済ませることが増えたが、みことがそれに不満を抱くことはなかった。
慌ただしく一週間が過ぎ、ママの仕事もようやく落ち着いてきたようだった。しかし、ママはだいぶ疲れが溜まっている様子で、いつもより会話が少なかった。そして、ふとした拍子にこぼれるママのため息が、みことの心を落ち着かなくさせる。
週末は、いつものようにショッピングセンターへ買い出しに出掛けた。ママは大きな保冷バッグを肩にかけ、もう片方の手にはトイレットペーパーを持っている。
みこともお手伝いとして、ティッシュのパックを両手で抱えて歩いた。ママの機嫌があまり良くなさそうなので、みことは余計なことは言わずに後ろについていく。
アイスクリームショップの前を通りかかり、みことはふと足を止めた。ガラス越しに見える店内では、何組もの家族が色とりどりのアイスを食べている。その光景を見て、みことは思わずママに声をかけた。
「ねえ、ママ。アイス食べたい!」
しかし、ママは振り返りもせずに、そのおねだりをあしらった。
「だめよ。今月は出費が多かったから、もっと節約しなきゃ」
みことは何かを言いかけて、口をつぐんだ。
アイスを食べることが重要ではなかった。先ほど見かけた家族のように、おいしいものを食べて、ママと一緒に笑い合いたかっただけなのだ。
けれど、思った以上にママの態度はそっけなく、みことはそれを諦めるしかなかった。
ママは重い荷物を、何度も持ち直しながら歩き続けた。一週間分の食料品が詰まったバッグはずっしりと重く、ママの歩き方はどこかぎこちない。
自転車の駐輪場に向かって歩いていると、前方から一組の家族がやって来るのが見えた。みことと同年代らしき男の子が、両親と楽しげに話しながら歩いている。
その家族もたくさんの荷物を持っていたが、大きな荷物は父親が引き受けているので、その足取りは軽やかだ。
その夫婦の、何気ない会話が聞こえてくる。
「ねえ、お願いしていたトイレ掃除、まだやってないでしょ?」
「あ、そうだった。帰ったらやるよ!」
父親が家事をするのは、その家では当然のことなのだろう。すると、それを聞いていた男の子が駄々をこね始める。
「え〜、ゲームするって約束したじゃん!」
「すぐ終わるって。手伝ってくれれば、もっと早くできるかもしれないぞ?」
「え〜、やだ」
「やだとはなんだ!」
男の子が即答で返すと、父親は苦笑いを浮かべていた。
ママは通り過ぎていく家族を振り返ると、どこか遠くを見るような目をしていた。そのまま足を止め、しばらく呆然と立ち尽くしている。
「どうしたの?」
動かないママに向かって、みことが問いかけた。
「え? ああ……」
ママは我に返ると、再び歩き始める。表情から感情を読み取ることはできなかったが、その後ろ姿はどこか寂しげに見えた。
それからしばらくして、ママの様子に変化が現れた。今まで自分の持ち物には無頓着だったのに、新しい服や化粧品を買い始めたのだ。そして、きれいに着飾って出かける日が増えていった。
みことは不思議に思い、思い切ってママに尋ねてみた。
「今日はどこにいくの?」
「ちょっと、人と会わなきゃいけないの」
「お仕事なの?」
「そうじゃないけど……。でも、遊びじゃないのよ」
少し言葉を濁すように、ママはそう答えた。
そうした理由で、みことは休日に近くの託児所で過ごすことが増えた。以前から用事があるときに利用していたのだが、明らかにその頻度が高くなっていた。
いつも通う保育園よりも室内はきれいで、園にはないおもちゃがたくさん置いてある。預けられる時間が不定期なため、友達ができることはなかったが、優しい先生が多かった。みことは、託児所に行くのを楽しみにしていた。
その週末も、みことは朝から託児所で過ごすことになった。きれいに着飾ったママがお迎えに来るのは、なんだか誇らしい気分だった。しかし、仕事ではないはずなのに、ママはいつも疲れているようだった。
帰り道、ママがその日の様子をみことに尋ねた。
「今日はどうだった?」
「楽しかったよ! 先生とお店屋さんごっこしたの。ママは、楽しかった?」
そう聞かれて、ママは苦笑しながら答える。
「初めての人と会うから緊張するし、楽しいって感じじゃないかな……」
「ふ〜ん。今度はいつ行くの?」
「わからないわ。決まったら、またお願いね」
実際に、ママは楽しそうには見えなかった。休日の予定が増えたことで以前よりも忙しくなり、家事との両立が大変そうなのだ。そして、スマホを見ては、ため息ばかりつく時間が増えたような気がする。
だが、そんな生活が数ヶ月も経つと、ママの機嫌が目に見えて良くなり始めた。誰かと連絡を取り合っているのか、スマホが震えるたびに、嬉しそうに画面を見つめている。
その相手のことは気になったが、みことは聞きはしなかった。ママが嬉しそうにしている。ただそれだけで、みことの未来は明るいものに感じられた。




