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12.緑に輝くランドセル

 赤ちゃんは見ていて、飽きることがない。


「見て、ひまりの腕。まるで、ちぎりパンみたい」


 娘のぷっくりした二の腕は、パンパンに膨らんでいて、まるで柔らかいパンの様に見える。首元は二重あごで、小さなお相撲さんみたいだった。髪の毛も短いので、着せる服が可愛くなければ、男の子にしか見えないだろう。


「美味しそうな子だな! 食べちゃおうかな?」


 梓の言葉に、ひまりは嬉しそうに笑った。まだはっきりとは見えないはずだが、つぶらな瞳にこの世界はどう映っているのだろうか?


 娘を抱き抱えると、すぐにうとうとし始めた。赤ちゃんの体はとても温かく、驚くほど軽い。


 この子は、自分たち親が世話しないと生きていくことができない。だからこそ、無条件で全幅の信頼を預けてくる。それは大きな責任と負担を伴うものだったが、とても嬉しいことでもあった。



 生後3〜4か月ほどで首が座ると、こちらにしっかりと反応し、いろいろなものに興味を示すようになってきた。


 カチカチと鳴るボタンや紐が、いくつも付いたおもちゃがひまりのお気に入りだ。自分が鳴らした音に、自分で反応して喜んでいる。


 グレーの小さな猫のぬいぐるみも、お気に入りのひとつだった。猫がというより、耳の部分をかじるのが好きなのだ。ずいぶんよだれを吸っているはずだが、今のところ臭いは気にならない。



 まだ何も理解できていないだろうが、暇があれば絵本を読み聞かせた。擬音が多いものや、飛び出す仕掛けがある絵本の反応が良い。


「ぐるぅるぅるーぽんぽんぽん。とうちゃく!」


 普段は感情の乏しい聡一郎が、彼なりに精一杯感情を込めて読み聞かせているのを聞くと、申し訳ないと思いつつも笑ってしまう。


「パパに、絵本読んでもらったの? よかったねえー」


 少しでも言語習得の助けになればと、できる限り娘に話しかけるようにした。


「ママとは、何してあそぶー? いなーい、いなーい、ばあ?」


 赤ちゃんには、高い声の方が聞き取りやすいらしい。だが、そんな知識が無くとも、声は自然に一段階高くなる。娘に反応して欲しくて、梓は何度もいないないばあを繰り返した。



 また、坂祢一家は郊外に引っ越しをした。


 駅前に大きな商業施設がないのは不便だが、とても落ち着きのあるベッドタウンだった。会社からは遠くなってしまうが、ごちゃついた都心よりも、落ち着いた環境で子育てしたいと考えてのことだった。


 引っ越しが落ち着くと、早速ベビーカーで近所の公園を散歩した。家から一番近い公園はそこそこの大きさで、ブランコや滑り台などの遊具も設置されている。何本か桜の木も植えられており、春には花見ができるかもしれない。


「綺麗な葉っぱが落ちてたよ。ほら、細かな模様が入ってる」


 拾った葉っぱを、太陽にすかして娘に見せてみる。持たせてあげたが、興味なさそうにすぐに捨ててしまった。知的好奇心を育んでほしいと思うのだが、そんなにうまくはいかないらしい。



 生後7か月で、前歯がニョキっと生えてきた。離乳食はゆるゆるのお粥から始め、徐々にすりつぶした野菜を食べさせ始める。


「ご飯だよ。あーして。あーん」


「あ……え、えー」


 ひまりはスプーンをひとくち含むと、眉間に皺を寄せて吐き出した。


「あ、ちょっと! せっかく作ったのに、なんで吐いちゃうの!」


 いつもベビーフードだと罪悪感があるので、たまには手作りのものを食べさせようと頑張ったら、このざまだ。手間暇かけて作ったものを吐き出されると、さすがに頭にくるものがある。


「赤ちゃんは味覚が発達してないから、まだ美味しさが分からないんだよ……」


 夫のそんな慰めも、2回も聞いたら飽きてしまった。


 それでも、とにかくいろいろなものを食べさせてあげたいと思い、素材を変えて何度かチャレンジしてみる。勝率は五分五分といったところだが、これ以上を望むのは贅沢というものなのかもしれない。



 1歳になる頃には、赤ちゃんのさらなる成長を感じることができた。


 ひまりがソファにつかまり、ふらふらと立ち上がろうとしている。何度か見ているシーンだが、この日はソファから手を離して直立したと思ったら、そのままふらふらと歩き始めた。


 梓は慌てて、夫に声をかける。


「見て! ひまり、歩いてるよ!!」


「え? 本当に!?」


 一歩、二歩と、、ひまりは確かに自分の足で歩いている。梓は急いでスマホを取ると、動画を撮ろうと慌ててロックを解除した。


 感動の一瞬を目に焼き付けるべきか、きちんと記録に残すべきか。それはとても悩ましい問題だが、その迷いが梓の反応を少し鈍らせていた。


「まんまあ」


 ひまりの言葉に、先に気付いたのは聡一郎の方だった。


「今、ママって言わなかった?」


「え、うそ?」


 カメラから動画への切り替えに戸惑っていた梓は、スマホの操作をやめて娘の顔を見る。すると、ひまりはにっこりと笑いながら言った。


「まーまぁ」


 確かに、娘はママと聞こえる単語をしゃべっている。


「すごい! すごい!! え、でも、ちょっと待って。なんでそんなに、まとめてやろうとするの!? ひとつひとつを、順番に喜ばせてよ!」


 娘の成長は喜ばしいことだが、もう少し段階を踏んでもらいたい気がする。梓は動画を撮ることを諦めて、娘がこちらに歩いてくる姿を見逃さないように見つめた。



 この頃には、食欲もだいぶ旺盛になってきた。


 おやつはヨーグルトや果物を与えていたが、少しずつお菓子も与え始める。最近、娘はたまごボーロにハマったらしい。詰め込んだり、詰まらせたりしないよう、目を離さないように食べさせる。


「まんまあ。あぁ!」


 ひまりはいくつか食べ終わると、手に持ったボーロを梓の方に差し出した。


「なに? ママにくれるの? ありがとう」


 自分の好きなものを、母親にも食べてもらいたいと思ったのかもしれない。この子はきっと、自分の幸せを、他人にも分けてあげることができるのだろう。


 単にお腹がいっぱいになっただけなのだろうが、良い方に捉えてしまうのが親バカというものだ。梓はもらったボーロを口に入れ、ぎゅっと娘を抱き寄せた。


 そうして、1年の育休期間は、あっという間に過ぎ去った。




 梓は仕事に復帰後、比較的余裕のある部署で、マネジメントを中心とした業務を担当していた。


 以前いたチームは、美春がうまくやってくれている。自分がいなくてもチームが回るというのは少し寂しい気もするが、会社とはそういうものでなくてはならないだろう。


 時短勤務ということもあるが、バリバリと働いていた頃と比べると、仕事のやり方が変わってきた気がする。どうしても家庭を優先しなければならないことが多く、重要度の低いタスクは、割り切って捨てる必要があった。より効率的に動かなければならないので、逆に仕事の質は高まった気がする。


 それでも、会社に認められるような大きな成果を出すのは、まだまだ先になりそうだ。だが、梓はそれでも構わないと考えている。以前なら数ヶ月単位で成果を求めていたが、今は3年から5年といった、長いスパンで物事を考えられるようになっていた。


 野望はあるが、それを成すのは今ではなくてもいいのだ。


 今日も少し早めに仕事を切り上げて、地元の駅へと帰ってきた。娘を迎えに行く前に、やらなければならない用事がいくつかある。


 仕事に復帰したタイミングで、娘は毎日保育所に預けていた。


 友達や先生と遊ぶのが楽しいのか、親と離れるのを嫌がる様子はない。とても助かると思いつつも、それはそれで少し寂しいと感じる自分がいる。


「お仕事、頑張ってくるからね!」


「あーいい!」


 今朝も別れ際に、ひまりは満面の笑顔でバイバイしてくれた。娘と別れたくないのは、自分の方なのかもしれない。


 駅から市役所へと向かう大きな幹線道路は、平日でも忙しなく車が走っていた。黄色信号を慌てて進む車をよく見るが、次の信号に捕まる可能性はいくらでもあり、稼いだその数分にどれだけの意味があるのかと疑問に思う。


 ちょうど下校時刻と重なったのか、ランドセルを背負った小学生をよく見かけた。子どもたちが背負うランドセルは色とりどりで、今はこんなにたくさんの種類があるのかと感心する。


 あと5年もすれば、娘も小学校に上がることになる。その時、ひまりはどんな色のランドセルを選ぶのだろうか?


 梓の前方に、集団下校する3人組の小学生がいた。高学年の男の子を先頭に、背の低い低学年の子どもたちが付き従っている。少し頼りない足取りで横断歩道に差し掛かり、赤信号で足を止めた。安全のためか道路よりもかなり手前で停止していて、梓もそれに習って立ち止まる。


 一番後ろの小学1年生らしい女の子は、鮮やかなミントグリーンのランドセルを背負っていた。真新しいランドセルは光沢があり、キラキラ光って見える。娘の色の好みはまだ全然わからないが、こういう色も可愛いなと梓は思った。


 次の瞬間、ドンという大きな金属音が鳴り響いた。


 梓は視界の端に、赤い車がありえない角度で向かってくるのを知覚した。交差点で右折しようとしていた軽自動車が、猛スピードで直進してきたSUVに跳ね飛ばされたのだ。


 跳ね飛ばされた車の進行方向に、自分たちがいる。


 考える暇などない。梓は反射的に、目の前にある緑に輝くランドセルを力強く押した。




 漆黒の世界が広がっていた。




 何もない、何も見えない、何も感じない。


 梓が最初に考えたのは、自分が突き飛ばしてしまった女の子のことだった。


 力一杯押してしまったので、転んでしまったに違いない。怪我をして、泣いたりしていないだろうか?


 申し訳ないことをしたという思いが、梓の心に湧き上がる。


 その後に、やっと自分の置かれた状況に考えが及んだ。


 私はいったい、どうなってしまったのか?


 体の感覚はないのに、寒気のようなものが全身を駆け抜けた。体の感覚を取り戻そうと必死でもがこうとするが、何の反応も返ってこない。


 死という言葉が頭をよぎるが、梓はそれを必死に否定した。


 まさか、そんなことはありえない……。


 娘の顔が思い浮かぶ。それから、夫の顔も。


 そして、さまざまな思い出が、浮かんでは消えていった。それは、走馬灯と言うにふさわしい光景だった。


 違う! ちがう!!


 梓は、身の凍るような恐怖に打ち震えた。死は避けられない事象だとしても、それが訪れるのは今ではない。家族と二度と会えないなど、そんなことは考えたくもなかった。


 ふと、急に体の重さを感じたかと思うと、視界が明るくなってきた。


 気がつくと、梓は白くて何もない大きな部屋に横たわっていた。状況は分からないが、周囲に同じように寝ている人達がいる。


「はあ……よかった!」


 梓は、大きく息を吐いた。リアルに感じた死の恐怖が、まだ体の芯にまとわりついている。だからこそ、自分の体がそこにあることに安堵した。


 しかし、その光明は、すぐに絶望へと置き変わる。白ずくめの服を着た、少年の言葉によって。

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