10.小さな胎動
妊活を始めて、3ヶ月ほどが経過した。
梓は生理が遅れているという確信を持つ前に、妊娠検査薬での確認が習慣となっていた。薬を無駄にしている自覚はあるのだが、どうしても気が急いてしまうのだ。
排卵期あたりは毎日のように励み、これは妊娠したなと思うのだが、生理が来ると想像以上にガッカリしている自分がいる。世の中には、何年もかけてやっと子どもを授かるカップルもいるのだから、その苦労がしのばれた。
その日も、期待しないようにと思いつつ白いスティックの窓を見ると、赤いラインが確かに浮き出ていた。
「聡一郎! これ見て! 孕んだわよ!!」
梓はそう言って、自分の尿をかけた白い棒を高らかに差し出した。
「言い方……」
聡一郎は困った顔をしながら検査結果を確認すると、興奮する妻に向かって落ち着いた口調で言った。
「とりあえず、一緒に病院行こうか」
「もっと、何か言うことないの!?」
冷静な態度を崩さない夫に、梓は多少の苛立ちを覚えつつも同意した。診察をしないことには、確かなことが言えないのは間違いないからだ。
週末にふたりで産婦人科に行くと、妊娠5週と診断された。
まだ何の変化も見えないお腹に、経膣エコーのプローブを押し当てながら医師が言う。
「胎嚢が確認できますね。子宮の状態も良いし、順調だと思いますよ」
モニターに映し出された映像はモノクロで、その模様が何かはよく分からない。だが、差し示された場所には、確かに小さな丸が表示されていた。
病院から帰る道すがら、街路樹の落ち葉を踏みしめながら、梓は聡一郎に尋ねる。
「聡一郎は、男の子と女の子、どっちがいい?」
早期妊娠という狙い通りの結果に、梓はにんまりとしていた。子供ができたという実感はまだないが、なんとも言えない誇らしい気分だ。
「男の子なら、一緒にゲームで遊べるとか考えたことがあるけど……今はどちらでもいいかな」
「私は、やっぱり女の子がいいな。一緒にショッピングとか行きたいし!」
聡一郎は微笑みながら、梓の手を取った。夫と手をつないで歩くなど、ずいぶん久しぶりな気がする。少し気恥ずかしい気もするが、嬉しくもあった。
「どちらだとしても、無事に生まれてくるのが1番だよ。月並みな言い方だけど、ひとりの体じゃないんだから、無理はしないでね」
「うん。分かってる」
決して転んだりしないよう、梓たちはゆっくりと丁寧に自宅へと歩いた。
医者から順調と言われたとはいえ、安定期に入るまで油断はできない。食事と睡眠をしっかりとりつつ、今日やらなくていい仕事は明日に回し、なるべく早く帰るようにする。
妊娠5週を過ぎた頃から、つわりの症状が出始めた。合わせて、昼間に眠気が襲ってくるようになり、仕事に集中できない時間が増えてくる。
産婦人科で検診を受けるための業務調整も、頻繁になるとなかなかしんどいものがあった。
少し早い気もするが、部下の美春には現状を伝えておくことにする。彼女をランチに誘い、会社近くの定食屋で妊娠したことを打ち明けた。
「迷惑かけるかもしれないけれど、よろしくね」
「わかりました。任せてください!」
美春の返事は、とても力強いものだった。彼女は目を輝かせながら、お祝いの言葉を述べる。
「おめでとうございます! お腹の中に、赤ちゃんがいるんですね。すごいな……」
反応から察するに、彼女はとても子ども好きなのかもしれない。
「会社の方は何とかするんで、絶対無理しないでくださいね! そうでなくても、梓さんは働きすぎなんですから」
夫と同じようなこと言うなと思いつつも、梓は素直に感謝を述べた。
「ありがとう。産休に入るのはまだまだ先だけど、引き継ぎの準備は始めたいと思うの。出産したら、すぐに戻ってくるつもりだけど、それまではリーダーをお願いね」
「私がですか!?」
予想外の言葉だったらしく、美春はとても驚いている。
「てっきり、藤田くんがやるものかと……。私よりも成績いいし」
美春は、急に自信なさげな顔になった。そういう態度は、仕事でも彼女の欠点と言える。
「私は、貴方が適任だと考えているの。産休中はすぐに返事ができないかもしれないけど、ちゃんとフォローするから」
梓は、美春の実力を高く評価していた。周りへのフォローや根回しも忘れないので、勢いで突き進みがちな藤田よりも安心感があるのだ。
「……わかりました。なんとかします!! だから、こちらのことは気にせず、自分の体のことを優先してくださいね!」
開き直ってそう言う彼女の目には、確かな力強さを感じた。梓を心配させては、ゆっくり休むことができないだろうと考えたのかもしれない。
「美春なら大丈夫よ。お願いね!」
美春は責任感が強く、人のために働くことで力を発揮するタイプなのだと思う。それは彼女の美徳だし、自信さえ身につけば大きく伸びるだろうと、梓は期待していた。
5ヶ月が経過して安定期に入ると、本格的に仕事の引き継ぎを開始した。妊娠の報告とともに、美春にリーダーを引き継ぐことをチームに伝えたが、大きな反発もなく順調に進んでいる。
お腹もだいぶ大きくなってきた。胸も徐々に膨らみ、自分の体が母親へと変貌していくのが分かる。
つわりは落ち着いてきたものの、体の変化に心がついてこないのか、精神的に不安定になっている気がした。そんなときは散歩で気を晴らしつつ、食事やサプリで鉄分をとるように心がける。
病院でエコー検査を受けると、赤ちゃんの体がはっきり判別できるようになってきた。小さな丸だったものから、頭や手足が生えてきて、急速に人の形を成していく。
胎動も、よりはっきりと感じられるようになってきた。自分のお腹の中に、別の命が宿っているというのは、とても不思議な感覚だった。
「見て、お腹蹴ってるよ!」
家のソファでくつろいでいた梓は、食事の後片付けをする聡一郎に向かってそう言った。彼は慌てて近寄ってきて、梓のお腹を凝視する。
「ほんと? どのへん?」
「この辺、わかる? ほら!」
梓のお腹の一部が、小さく跳ねた。
「本当だ。さわっていい?」
梓がうなずくと、彼はそっと彼女のお腹をなで始めた。聡一郎の手の温かさを感じつつ、彼の優しげな表情を見ていると、なんとも言えない気持ちが湧き上がってくる。
その感覚は、幸せとしか表現できないものだった。
だが、想定外の出来事も起きた。
「ちょっと、逆子になってますね……」
妊娠30週を過ぎた頃、医師からそう告げられた。通常、赤ちゃんは頭が下に向いて逆立ちのような格好になるのだが、今は足が下を向いているらしい。
「逆子だと、どうなるんですか?」
怪訝な表情で、梓は質問する。
「多くは自然に頭位へ戻りますが、戻らなければ37〜38週で予定帝王切開を検討します。その場合、希望されている無痛分娩はできません」
赤ちゃんは産道を通るときに、頭から出る必要がある。逆子だとへその緒が体や首などに巻き付く危険性があり、難産になる可能性が高いのだ。出産に時間がかかるほど、赤ちゃんと母体にかかる負荷は高くなり、最悪の場合は命の危険すらある。
「帝王切開の場合、どのくらいで仕事に復帰できますか?」
帝王切開はお腹を切り開くことであり、当然母体である梓の負荷は大きくなるはずだ。
「最短だと、2ヶ月といったところですが……。ご自身の回復と赤ちゃんを優先して、無理しないことが重要です」
医師の言いたいことは分かるのだが、すぐに納得するのは難しかった。
「逆子は治せないんですか?」
「逆子を治すと言われているストレッチなどもありますが、絶対というものではありません。逆に言うと、何もせずに自然に戻ることもあります」
「つまり、運を天に任せるしかないということですね……」
梓の言葉には多少の苛立ちが含まれていたが、担当医師はそれを軽く受け流す。こういった対応にも、慣れているのだろう。
「ひとまず、経過を見守ることにしましょう」
その言葉に、梓はうなずくことしかできなかった。
梓はその後、逆子が治るとされるストレッチをいくつか試してみた。半信半疑ではあるし、赤ちゃんに変な負荷がかかるのが怖いので、軽めにとどめておく。それが理由というわけではないだろうが、逆子が改善する兆しは見えない。
そして、35週を過ぎても逆子は治らず、医者からは帝王切開の予定を組むべきと提案されたのだった。




