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01.シュレーディンガーの白い箱

 坂祢 梓は、絶望的に白い壁を見つめていた。


 壁際に近づき、自分の耳をそっと押し当ててみる。頬に感じる柔らかい感触は、微かにひんやりと冷たい。


 この壁の向こうには、現実世界が広がっているのだろうか?


 梓は目を閉じ意識を集中するが、壁の向こう側を感じ取ることはできない。


 梓は耳を離すと、再びその囲いを見上げてつぶやいた。


 「まるで、シュレーディンガーの猫みたい……」


 ここは、世界から断絶された白い箱。


 シュレーディンガーの猫の理論はよくはわからないが、それは現実逃避と何が違うのだろうか?


 箱を閉めたままなら、死という現実から目を逸らすことができる。少なくとも7日間は、梓の生死は確定しないらしい。


 珠を100個集めたら、本当に生き返れるかは分からない。それでも、信じてやり切るしかないのだ。


 彼女は空想の余韻を振り払うと、疲れた体に鞭を入れた。


「どんな手段を使っても、私はやり遂げてみせる」


 何としてでも、帰るのだ。


 温かで幸福な、あの場所へ。






 5日目の朝が訪れた。


 徐々にだが、無理だと思われた珠の集約が進んでいる。そこには、大きな流れがふたつ存在していた。


 男性の票は梓に集まり、高齢者を中心とした女性票がみことに集まっていた。それ以外に、大きく票を伸ばす勢力はない。


 珠を譲り終えた者は、何かをやり遂げたかのように、のんびりと過ごしている。まるで、どこかのリゾートで、バカンスを楽しむ人々のようにも見えた。


 しかし、珠を手放しても、生きたいという願望が消える訳では無いだろう。穏やかに見えるその顔が、タイムリミットを迎えた時、どの様に変わるのか。


 それは、その時にならないとわからない。



 ポケットの中で、スマホのアラームが振動している。都築はそれを手に取ると、慣れた手つきでアラームを解除した。


 日課となっていたこの作業は、もう必要のないものだ。それがわかっているのに、都築はアラームを削除するのを躊躇していた。


 改めてその事に気づき、都築は少し顔をしかめる。


 それは、長年の習慣だからではない。生きることへの執着を、捨てられない証かもしれないのだ。


 都築はズボンのポケット越しに、ピルケースの角を指でなぞった。この部屋に来てからは、もう薬は飲んではいない。


「未練がましいな」


 都築は少し逡巡したのち、スマホのアラームを削除した。



「元気、出してよね!」


 声の方を見ると、座り込んでうなだれる花蓮の肩に、結衣香が軽く手を添えている。


 昨日の事件のあと、泣きじゃくる花蓮をひとりにできず、結衣香がずっと付き添っていた。ひと晩寝ても気が晴れるわけもなく、花蓮は放心した様に座り込んでいる。そんな彼女の目は、涙のあとで腫れぼったい。


 花蓮は蘇我田がいるであろう方向を、ぼんやりと眺めていた。


「大丈夫だよ。あんな男、もう花蓮ちゃんに近づけさせないから!」


 結衣香はそう言って、都築の方を見る。どうやら、ボディガード役は都築の役目らしい。


「喧嘩は自信無いけど、できる限りのことはするよ」


 都築は、苦笑まじりにそう答えた。しかし、蘇我田が花蓮を襲う事など、無い様な気がする。


 ふたりが声をかけても、花蓮の顔は曇ったままだった。


 しばらくして、彼女はポツリと意外なことを口にする。


「そがっちは、もうダメなのかな?」


「え?」


「珠を集めるの、もう難しいかな?」


「そ、そうだと思うけど……」


 彼女の言葉の意図が見えず、結衣香は戸惑いながら答える。


「私のせいで、そがっちの夢を邪魔しちゃった……」


「……」


 花蓮の予想外の言葉に、結衣香と都築は顔を見合わせた。


「酷いことされたけど、そがっちは優秀で、すごいと思うんだ。本当にそう思ったから、あたしの珠をあげたのに……」


 あれだけのことをされながら、花蓮は蘇我田を恨んでいるどころか、心配しているのだった。


 都築と結衣香は、彼女にかける言葉を失った。慰めの方向性が、真逆だったのだ。何とか取り繕うと考えるが、気の利いた言葉が出てこない。


 しばらく、無言の間が続く。


 そんな重たい空気を、子どもたちの声が打ち破った。


「カレン!  座ってないで、遊ぼうぜ!!」


 小学生の低学年らしき男の子たちが、花蓮の元にやってきた。以前、花蓮と一緒に、戦隊ごっこで遊んでいた子どもたちだ。


「今は、いいよ……」


 花蓮はか細く答えるが、子どもたちは空気を読むことを知らない。コウタと呼ばれている、1番活発そうな男の子が、花蓮の手を引いた。


「暇なんだろ! やろうぜ! ラブキュアごっこでも、いいからさ!」


 花蓮は迷惑そうな顔をするが、子どもたちの手を振り払うことができない。諦めたかの様に、花蓮はよろよろと立ち上がった。


「しょうがないな……」


 そんな花蓮を、子どもたちは嬉しそうに連行してゆく。


「じゃあ、カレンはワニの女怪人ね!」


「え〜。ラブキュアごっこじゃなかったの?」


 から元気かもしれないが、花蓮の表情に明るさが戻ってきた。その様子を見て、都築は独り言のようにつぶやいた。


「子供は、無邪気で凄いな……」


「そうだね」


 結衣香も、完全に同意といった様子だ。


 すると、先ほどのコウタが戻って来て、都築たちの横を通り過ぎた。そして、ぼんやりと立っていたみことに声をかける。


「お前も、一緒に遊ぼうぜ!」


 突然声をかけられたみことは、少し驚いていた。しかし、すぐ冷めた表情になり、その誘いを拒絶する。


「行かない……」


「メンバーが、足りないんだよ! ピンク、やらせてやるからさ!」


 そう言うと、男の子はみことの手を引いて、強引に歩き出す。


「お前、ゼガレンジャー知ってる?」


「いいって、言ってるのに……」


 みことは困った顔をしているが、その手を振り払うほどの気力は無いようだ。そのまま花蓮たちと合流し、戦隊ごっこが始まろうとしている。


「なんで、私がピンクじゃないの!」


「怪人の方が、似合う顔してるだろ!」


「どういう意味よ!」


 花蓮の抗議をよそに、子どもたちの戦隊ごっこが始まった。


 みこともイヤイヤながら、他の子どもたちに合わせて移動し、ポーズらしき動きをするのが見えた。迷惑そうな顔をしているのだが、微かな笑顔も見て取れる。誘い出すまでが大変だが、みことも遊びが嫌いなわけではないのだろう。


「本当に、すごいよね……」


 結衣香は感心してそうつぶやき、都築もうなずいた。


 大人が出来ないことを、子どもたちは簡単にやり遂げてしまう。その行動力に、都築たちはひたすら感謝するのであった。

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