18.見えない出口
大事な提案があると、蘇我田は御子柴にメッセージを送信した。すぐには会えないと覚悟していたが、その日のうちに予定が空いたとの連絡が入る。
待ち合わせに指定されたのは、六本木のダイニングバーだった。カジュアルな店構えとは裏腹に、メニューの金額はなかなかのものだ。間接照明で照らされた店内は、身なりの良い客で賑わっている。
店に到着してから40分ほど経っていたが、御子柴はまだ現れない。時刻はすでに、10時を回ろうとしていた。
「待たせたね。先に飲んでればいいのに」
やっと現れた御子柴は、蘇我田が座るテーブルを見てそう言った。そこには水しか置かれておらず、惣菜が鮮やかに盛られたお通しも、手付かずのままだった。
「急にお時間いただき、ありがとうございます!」
蘇我田は立ち上がり、礼儀よく頭を下げた。苦笑しながら、御子柴は椅子に座る。
「今日の会食は、つまらなくてね。急な用事が入ったと言って、抜けてきた。こっちの話の方が、面白そうだ!」
ニヤリと笑うと、ワインといくつかの料理を注文する。蘇我田は酒を飲むつもりはなかったが、付き合いでジントニックを頼んだ。
「で、魅力的な提案とはなんだ?」
早速、御子柴が本題をたずねた。蘇我田は姿勢を正し、硬い表情で話し始める。
「ベルテックスは、会員9千人のサービスに成長しました。一般的なサービスと比べると、まだまだ規模は小さいと言えます。しかし、獲得しているユーザーの質は、どのサービスよりも高いと確信しています。見た目の数字以上の価値が、ベルテックスにはあります!」
蘇我田の前口上を、御子柴は面白そうな顔で聞いている。
「世間の認知度も上がり、大手メディアからも取材が来るほど注目されています。今はシステム改修を優先していますが、それが終われば、更なる拡大が見込めるはずです!」
早口でそう言うと、蘇我田は一呼吸置いた。緊張で喉が渇くが、飲み物を飲む余裕もない。蘇我田は一気に、結論を口にした。
「御子柴さん。ベルテックスを買いませんか!」
予想外の言葉だったのか、御子柴は目を見開いて驚いた。
「なんだって?」
「1000万円……いや、800万円でどうです? これから成長が見込めるサービスなら、安いものでしょう?」
言い値を自らディスカウントし始めた蘇我田に、御子柴は吹き出して笑った。
「1000万円が、800万円か! ははは……」
御子柴に自分の提案を大笑いされ、蘇我田の顔が屈辱で赤くなる。震える拳を握り締め、軽率に怒鳴るのを必死にこらえていた。
「すまん、すまん。少し、笑い過ぎたな……」
御子柴はひとしきり笑い終えると、蘇我田にすまなさそうな顔を向けた。
「しかしな、蘇我田くん。ベルテックスを売るのは、結構難しいぞ」
御子柴はそう言って、冷静にベルテックスの分析を語り始めた。
「会員数が9千人で、広告費のみの収益となると、立ち行かんだろう。ユーザーの質を売りに、割りの良い広告を引っ張って来たとしても、大した利益にはならんはずだ」
御子柴の指摘は、その通りだった。現在の広告収入は、月5万円に届くかどうかといった程度で、事業として採算を取るのは難しい。
しかし、蘇我田は簡単には引き下がれなかった。
「質の高いユーザーが相互に評価し合って、お互いの価値を確かめ合う。その蓄積された情報が、ベルテックスの真の価値なんです!」
「それをハイクラス採用に結びつけたいんだろう? だったら、どうしてそこに手をつけない? 譲渡なんか考える前に、そこをやりきるべきなんじゃないか?」
蘇我田は食い下がるが、御子柴のビジネスに対する目は厳しい。蘇我田も採用にニーズがあると考えてはいたが、サービスにつながる具体的なアイデアは、まだ詰めきれていない。
「ベルテックスには今までの常識を壊し、再構築するだけのポテンシャルがあります。利益という物差しだけで、評価をしないでください!」
「そこまで価値のあるものなら、1000万円なんてはした金で売るんじゃないよ!」
御子柴の冷ややかな指摘に、蘇我田は何も言えずに黙り込む。これでは、どちらがベルテックスを評価しているのかわからない。
さらに、御子柴の指摘は続く。
「もうひとつの問題は、この特殊なサービスを引き継げる人間がいないということだ。ベルテックスの特性を理解し、理想に向けて突き走れるのは、君にしかできない。違うか?」
サービスを譲渡してからのことなど、蘇我田は考えてもいなかった。そして、御子柴の言う通り、どんなに優秀な人間に任せたとしても、ベルテックスを成長させられるとは思えなかった。
「ここまで成功したのは、君の情熱あってこそだろう。何があったか知らないが、もっと粘るべきだ」
御子柴の言葉は厳しいが、その中にはある種の優しさが潜んでいた。彼も成功するまでに、何度も苦渋を舐めたのかもしれない。
しかし、怒りで視野が狭くなっている蘇我田は、それに気付くことができない。御子柴のささやかな激励は、蘇我田には逆の意味で受け取られていた。
ふたりの会話はすれ違い、話し合いは何の成果もなく終わりを告げた。
「上から目線で、説教しやがって! 結局は、金を出したくないんだろう!」
蘇我田は憤慨しながら家に帰ると、資金のありそうな人々にメッセージを送り続けていた。そのほとんどは、御子柴に誘われた飲み会で知り合った者たちだ。
しかし、返事が来ても予定が合わないと断られ、ほとんどの人間に既読スルーされていた。ひと晩中かけて、あらゆる知人に連絡を取るが、色よい返事はひとつも返って来ない。
すでに夜が明けて、大学が始まろうかという時間になっていた。完徹した蘇我田は疲れを感じつつも、気が張っているためか、とても眠れそうにない。
それ以上の手段を失った蘇我田は、ベッドで横になりながら、何気なくベルテックスを見始めた。そして、昨日の蘇我田への批判が、さらに加熱していることに気付く。
その中心になっているのは、あのイベントに参加していた者たちに違いない。
「目障りな! 片っ端から消してやる!!」
蘇我田はそう怒鳴り、ユーザーを削除しようと管理ツールにアクセスする。しかし、パスワードが違うと表示され、入ることが出来なかった。タイプミスかと、もう一度丁寧にパスワードを入力するが、再びログインが弾かれてしまう。
「なぜだ! バグったのか!?」
蘇我田は詠流に電話し、つながると同時に怒鳴った。
「管理ツールに入れないぞ! 何か、トラブってるんじゃないだろうな!?」
詠流は無言だったが、しばらくすると押し殺したような声が返って来た。
「凍結したんだよ……。蘇我田くんのアカウント」
「なに!? どういうことだ!」
予想外の言葉に、蘇我田は驚いて聞き返す。
「池内さんから、聞いたんだ……。ベルテックスを、売るつもりなんだって?」
どういう経緯か知らないが、久美子はベルテックス売却の話を、詠流に話してしまったらしい。
あの女は、余計なことしかしない!
込み上げて来たドス黒い怒りを抑えながら、蘇我田がどう説明しようか迷っていると、詠流が大声を上げた。
「ベルテックスは、僕の作品でもあるんだ! 勝手に売ろうだなんて、許せないよ!!」
蘇我田はうめいた。
ベルテックスは自分のものだと言ってやりたいが、詠流に開発に見合った金を払ったかと言えば、そうではない。また、システム上のことは詠流に一任しているので、管理者権限の復活はもちろん、譲渡するための下準備も、詠流にやらせる必要があった。
「売るのは、あくまで選択肢のひとつだ。今の荒れようを見て、最悪の事態を想定してのことだ! 事態が改善されれば、売るなんて判断はしない!」
そう言いつつも、蘇我田の心はベルテックスから離れていた。売って金を手に入れる方が、今は魅力的に思える。
すると、詠流が予想外の提案をして来た。
「それなら、和馬くんたちと相談しよう!」
「なんだって?」
「ひとりで悩まないで、みんなに相談するべきだよ! 和馬くんも花田さんも、お願いすれば協力してくれるよ!」
今さら、なぜ和馬たちの名前が出てくるのか。だいたい、こちらから追い出しておいて、戻ってほしいなど言えるわけがない。
「もう、あいつらは関係ない!」
蘇我田の言葉に、詠流は落ち着いた声音で言った。
「蘇我田君は独善的で誤解されることもあるけど、君の才能はみんなが認めているんだよ。君をサポートするのは、大変だけどやりがいがあるって、和馬くんたちも言ってた」
いつ、彼らはそんな話をしたのだろうか? 詠流の切実な言葉に、蘇我田の心は一瞬揺れた。
和馬たちと、また以前の様な関係に戻れるのだろうか?
しかし、すぐさま別の疑念が頭をよぎる。
こんな状況になっても、自分と関わろうとする理由は何だ?
蘇我田というより、ベルテックスが魅力的だからではないだろうか。あわよくば、ベルテックスを手中に収めたいと目論んでいると考えた方が、圧倒的に納得できてしまう。
蘇我田はイベントでの屈辱を思い出し、二度と騙されるものかと、気を引き締める。そして、意識して優しく詠流に言った。
「わかった! とにかく、会って話そう。今どこにいる?」
とにかく、詠流には自分の思い通りに、動いてもらう必要がある。何をするにしても、エンジニアは必要なのだ。
蘇我田は詠流と直接話すため、彼の待つ大学へと急いだ。




