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16.そこにあるかもしれない奇跡

「和葉は、スマホには何も気付かなかったみたい。不審に思われるどころか、ひどい顔してるって、私の体調を心配してた……」


 結衣香はベンチに座りながら、ひとり言のように淡々と話し続けていた。思わぬ告白の内容に、玲奈と千恵は何も言えず、黙って話を聞いている。


「そんな和葉の心遣いがね、よけいに自分を惨めにさせるんだ。自業自得なんだけどね……」


 そう言って、結衣香は乾いた笑い声をあげた。感情の無い結衣香の笑みに、友人のふたりは声をかけられないでいる。


 秋の日差しが落ち始め、吹き抜ける風が少し肌寒くなってきた。


「孝太郎が好き、そして和葉のことも大切。だからこそ、妬ましい、悔しい、情けない。自分がそんな感情に支配されていくのが、嫌で嫌で仕方なかった……」


 結衣香は物静かに語るが、その言葉の内に、押し殺していた情動が見え隠れする。


「だから、私は恋がしたかった。孝太郎のことを忘れさせてくれるような、新しい恋。そうでもしないと、以前の関係には戻れないと思ったから……」


 結衣香はそこまで話し続けて、大きく息を吐いた。一呼吸置いてから、申し訳なさそうに玲奈を見る。


「でも、動機が不純で、焦りすぎてた。玲奈を巻き込んで、悲しい思いをさせちゃった……ごめんね」


 結衣香の言葉に、玲奈は何も言わず首を左右に振る。


「でも、正直言うとね。英司さんが私に気があると言われても、困るとしか思わなかったんだ。それを嫉妬されても、私にとっては二重苦でしかない……」


 結衣香は言わなくてもいい本音を、あえて口にした。玲奈は怒った様子もなく、真剣な表情で結衣香の話を聞いている。


「そして、私も同じように思われる立場だったんだ。和葉と孝太郎にとって、私は困った存在でしかない。悲しいほどに、そのことが理解できてしまった……」


 日が落ちて、空が淡いオレンジのグラデーションに染まり始める。結衣香は、静かにベンチを立った。


「ここ最近、そんなことばかり考えて、ずっと辛い日々だった。でね、完全に私のわがままだけどね……」


 振り返りながら、結衣香はふたりに訴えた。


「この上、さらに友達を失うだなんて嫌なんだ」


 そう言った結衣香の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちる。泣くつもりは無かったが、抱えていた想いを吐き出したせいか、感情のコントロールが効かなくなっていた。


「嫌だ。いやだよ……」


 つぶやかれた結衣香の言葉は、かすれて小さく消えた。


 情けない自分をさらけ出し、自分の勝手な要求を突きつけた恥ずかしさで、結衣香は流れ始めた涙を止めることができなかった。震える手で顔を隠しつつ、懸命に感情を抑えようとする。


 そんな結衣香を見て、玲奈はベンチから立ち上がると、優しく彼女に抱きついた。


「辛かったね……」


 彼女の目にも、うっすらと涙が浮かんでいる。玲奈の体に少し体重を預け、結衣香は震える声で答えた。


「玲奈こそ……」


 そして、ベンチに座ったままの千恵は、ふたり以上に号泣していた。


「……ごめん。私が悪いんだ! 私が、玲奈にひどいこと言ったから……」


 大粒の涙を流し、しゃくり上げながら謝罪し始める。


「私は……いつもひと言多くて、人を傷つけるんだ。自分が悪いと分かってるのに、ムキになってそれを認められない。いつも、それで失敗するんだ……」


 千恵は、想像以上に泣き虫なのかもしれない。そんな自分が嫌いだからこそ、自分を強く見せたかったのではないか。


「こんな私でも、ふたりは付き合ってくれるから。きっと、甘えてた。ごめん……ごめんね……」


 座ったまま泣きじゃくる千恵を、玲奈は腰を落として抱き寄せた。


「私も、千恵にひどいこと言った。ごめん……」


 ふたりの間にあったはずの壁は、すでに無い。結衣香の偽りなき心情の吐露が、彼女たちの不要なプライドを、消し去ってしまったようだった。


 結衣香の中のわだかまりも、涙と一緒に流れ出たのか、ずいぶんと薄れたように感じる。彼女も、ふたりを抱えるように抱きついた。


 3人でひとしきり泣き終えると、玲奈が千恵の顔を見ながら笑った。


「千恵、泣きすぎ……」


「うるさいわね! 涙にはデトックス効果があるから、泣ける時に泣いとくのよ!」


「なにそれ!」


 玲奈と千恵のやりとりを聞いて、結衣香がぷっと吹き出した。それをきっかけに、ふたりも一緒になって笑い出す。


「――はあ、おかしい。久しぶりに笑ったな」


 苦しそうに腹を抱えながら、結衣香はベンチに腰を下ろした。玲奈も、隣に座りながら言う。


「結衣香の悩みに比べたら、私の悩みなんてたいしたことないなって思ったよ」


「そんなこと、無いよ!」


 結衣香は、本心でそう否定した。心に負った傷は、玲奈の方が深刻なはずだ。ひとりで勝手に傷ついている自分とは、訳が違うと結衣香は思う。


「私のは、自業自得なとこあるし……。やっぱり、あんなかたちで捨てたのは、もったいなかったかな……」


 玲奈がぽつりとそう言うと、結衣香の胸にも痛みが走る。しかし、玲奈はもう吹っ切れたのか、随分とサバサバした印象だ。


「結衣香の言う通り、昔の恋は新しい恋で忘れるしかないよね! 早く新しい彼氏作って、なぐさめて欲しい」


 その意見に、結衣香もおおむね賛同する。


「そうだよね……。でも、合同デートみたいなのはもうこりごり! もっと普通に、出会える方法はないかな?」


 そんな話題で盛り上がるふたりに、千恵は呆れて言った。


「ふたりとも、まだ懲りないの?」


 冷めた千恵の言葉に、玲奈が力強く力説する。


「ノーラブ、ノーライフ!! 彼氏を作って、充実した学生生活を送るのよ!」


 結衣香は、自信ありげに千恵に言った。


「私はちゃんと、相手の人柄も見てるから大丈夫」


「ちょっと! それじゃあ、私が人を観る目が無いみたいじゃない!」


「いや、そこは否定しないわよ?」


 玲奈の抗議に、千恵は冷静に突っ込んだ。


 そのテンポの良いやり取りに、結衣香はまた吹き出してしまう。玲奈は口を尖らせながら、千恵に話を向けた。


「なによ! そう言うあんたは、村上に告白しないの?」


「卒業したら、するよ」


 あっさりと言った千恵に、玲奈と結衣香は驚きの声を上げる。


「言い切った!」


「本当に?」


 ずっと前からそう決心していたのか、千恵は冷静に答えた。


「先生に女っ気なんて無いから、しばらくは独り身だろうしね。今はしっかりと私のこと印象付けて、卒業したら押しかけてやるんだ!」


 千恵の決心が硬いのを見て、ふたりは息を呑む。


「千恵……なんか重たい」


「ストーカーだけは、やめてね」


 玲奈と結衣香の容赦ない言葉に、千恵が憤慨した。


「ひどいわね! 素直に応援するとか、無いわけ!?」


 赤面しながら抗議する千恵が可愛らしく、結衣香と玲奈は再び笑い出す。


 3人のたわいもない話は、辺りが暗くなるまで続いた。




 翌日の朝、結衣香が朝食のトーストをかじっていると、和葉が心配そうに声をかけて来た。


「もう大丈夫なの?」


「何が?」


 結衣香は何のことだか分からず、和葉に聞き返す。


「友達が喧嘩したって、言ってたでしょ? 暗い顔してて、びっくりしたんだから!」


「ごめん、ごめん。仲直りしたから、もう大丈夫」


 結衣香は苦笑しながらそう返して、妹の顔をまじまじと見た。その視線に気付いて、和葉は不思議そうな顔をする。


「なに?」


 結衣香は微笑みながら、しみじみと言った。


「なんか、久しぶりにちゃんと顔見たなって思って」


「え? 毎日会ってるでしょ?」


 ずいぶんと久しぶりに、妹と気兼ねなく話せている気がする。色々あって、和葉と孝太郎のことが、少し吹っ切れたのかもしれない。


 いっそ、付き合っているのは知っているぞと、暴露してやろうかとも考えた。しかし、このまま知らないふりを続けることにする。


 しばらくは、和葉たちも付き合っていることを打ち明けるかどうか、悩み続ければいいのだ。


 いつか、覚悟を決めて告白されたら、とっくに知ってたよと、涼しい顔で言ってやる!


 結衣香はそんな事を考えつつ、食べかけのトーストを口に運んだ。



「行ってきます!」


 結衣香は、いつものように少し早めに家を出た。ふたりが付き合っているのを知ってから、孝太郎と鉢合わせないように、登校時間をずらしているのだ。


 元に戻そうかとも考えたが、まだ孝太郎と普段通りに話す自信は無い。


「やっぱり、新しい恋をしなきゃダメかな……」


 以前より切羽詰まった感じではないが、心のわだかまりは完全に消えた訳ではない。どうすれば新たな恋ができるのか、結衣香は歩きながら、あれこれと考えていた。


 いつものバス停に到着すると、黒髪の長い女の子が、母親らしき女性と一緒に並んでいた。その子はお人形のような可愛らしさで、結衣香はつい見惚れてしまう。


 女の子が、こちらの視線に気付いた。結衣香は軽く手を振るが、何の反応も返してくれなかったので、少し落ち込んだ。


 バスが到着したので順番に乗り込むと、参考書を片手に持った男の子と、すれ違いざまに目があった。


 車内はそれなりに混んでおり、結衣香はバスの中央まで進んでから、つり革に手を伸ばす。そして、先程すれ違った男の子を、軽くのぞき見た。


 彼のことが気になったのは、第一印象から来る直感的なものだった。孝太郎とは違うタイプなのだが、どこか影のあるような雰囲気が気になった。


 ちょっと、声をかけてみようか?


 結衣香はそんなことを考えるが、実行することなどできない。


 もしここに玲奈がいたら、当たって砕けろと熱弁しただろうか? 千恵が一緒だったら、そんな私たちを呆れた顔で見るだろう。


 そんな妄想をして、結衣香は笑みをこぼす。


 玲奈と千恵の会話に、男の話題が増えるような気がする。もう隠すことは、何も無いのだ。たとえ彼氏はいなくても、そんな話題に花を咲かせるのが青春というものだろう。


 今日は天気が良いので、ランチは外で食べよう。いつものように、3人で。


 窓の外を見ながら、結衣香がそう思った瞬間、何かの衝撃音とともに目の前が暗転する。


 それが、結衣香の最後の記憶となった。






 結衣香は、長い回想から意識を引き戻す。


 ぼんやりと白い部屋を眺め続けていると、焦点が定まらなくなり、結衣香は軽いめまいを覚えた。


 本当に、私は死んでしまったのだろうか?


 死の瞬間の記憶が無いので、どうしても実感が持てないでいた。


 今頃、現実の世界は、どうなっているのだろう?


 両親はもちろん、和葉や孝太郎は悲しんでいるに違いない。玲奈や千恵は、私が死んだと知ったら、泣いてくれるだろうか?


 後悔よりも、未来を失った喪失感の方が大きい。もっと、青春を謳歌したかった。彼氏ができないまま死ぬなんて、なんだか損した気分だ。


 しかし、自分が心から好きと思える人に出会うのは、本当に難しい。


 もし、この部屋の127人の中に、そう思える人がいたのなら、それは奇跡的なことだと思う。



 そして、その可能性を秘めた人が、自分の隣に座っている。



 結衣香は、そっと都築の顔をのぞき見た。彼は、バスの中で見た時と同じく、何か憂いを帯びた表情で、部屋の中心を見つめている。


 その横顔を見て、結衣香は自分の心音が早くなるのを感じた。


 これは、恋の前触れなのだろうか?


 まだ、結論を出すには早すぎる。それでも、結衣香にとって、それだけが微かな希望となっていた。

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