06.笑顔の仮面をかぶって
結衣香は制服に袖を通しながら、大きく深呼吸をした。
場所は、結衣香の自室。シンプルで落ち着いた印象の部屋だが、所々に置かれたビビッドな色づかいの可愛らしい小物が、部屋の主人の若々しさを表している。
部屋の隅に置かれた白いスタンドミラーに、結衣香の姿が映し出されていた。そこに映る自分の顔は、蒼白で表情が抜け落ちている。
両手で頬をほぐして笑顔を作るが、そのできばえはひどいものだった。すぐに崩れて、みっともない顔が映し出されてしまう。
こんな表情では、家族と顔を合わせることもできない。結衣香は鏡に向かって、笑顔を作る練習を何度も繰り返していた。
相ケ瀬家の家族構成は、両親に結衣香と妹の4人となる。
2階にある自分の部屋から、階段を降りてリビングに向かうと、母と妹が先に朝食を食べ始めていた。銀行に勤めている父は始業が早いので、今頃は会社に着く頃だろう。
「おはよう。今日はゆっくりね」
母から声をかけられると、結衣香は眠そうな演技をしつつ、顔を見られないようにしながら挨拶を返す。
「おはよう……」
「お弁当、置いといたから」
「ありがと」
母の幸枝は童顔で、今年で43歳というと驚かれることが多い。友人の料理教室を手伝っているのだが、自分を目当てで来る生徒がいると自慢されたりもする。
「お姉ちゃん、夜ふかしでもしたの?」
そう声をかけてきた妹の和葉は、2歳年下の中学2年生だ。自分とは対照的に大人しい性格で、幼い頃は強引に引きずり回していたものだ。
ずっと伸ばしている長い黒髪が綺麗で、お願いされてもいないのに三つ編みにするのが、結衣香の密かな楽しみ……だった。
「大丈夫よ。和葉と違って食べるの早いし」
用意されたトーストを口に運びつつ、結衣香はそっけなく答える。
「ゆっくり食べた方が、太らないの」
「ダイエットなんか、してないくせに」
私は、普段通りに話せているだろうか?
言葉ひとつ返すのにも、ひどく緊張しているのがわかる。自然体にしなければと思うほど、自分が普段どのように振る舞っていたかが思い出せない。
結衣香はトーストを素早く口に詰め込むと、少し熱いスープを一気に飲み干した。
「いくらなんでも、早すぎよ」
その様子を見た母が、呆れて言う。
結衣香は用意されたお弁当を持ち、慌ただしく登校の準備を済ませてしまう。
「行ってきます!」
「え? ちょっと、待ってよ」
「急ぐから、先に行ってる!」
妹の言葉に、意識して元気な返事を返すと、結衣香は逃げるように家から飛び出した。
結衣香の住んでいる家は、駅から離れた閑静な住宅街にある。両親が念願の一軒家を購入したのは、結衣香が小学2年生の時だった。
通っている高校には、電車よりもバスを使う方が早い。普段はのんびり歩く道のりを、結衣香は少し離れたバス停に向かって駆けてゆく。
吹き抜ける風が、少し涼しく感じるようになってきた。残暑も終わり、遅い秋が訪れようとしている。
「私、恋がしたい!」
結衣香の突然の宣言に、佐々木 玲奈と小早川 千恵は目を丸くした。
同じクラスになって仲良くなった彼女たちは、いつも3人でお昼を食べている。全員の席の中間にある、結衣香の所に集まるか、天気の良い日は中庭のベンチで食べるのが定番だった。
「結衣香は、あまり恋愛に興味が無いのかと思ってた……」
ニュアンスパーマをかけた長い髪を弄びながら、玲奈が意外そうにそう言った。
恋話は、もっぱら玲奈の担当と言える。もっとも、彼女自身の体験談ではなく、友人の話や噂話ばかりなのだが。
「興味ないというか、彼氏なんていつでもできるっていう、余裕だと思ってたけど?」
そう言う千恵は、内巻きのショートカットに、フレームの細いメガネがよく似合う。小柄だが、まるで秘書のような大人びた雰囲気を感じさせた。
「興味はあるし、そんな自信なんてないよ!」
そんな風に思われていたのかと、結衣香は戸惑いながら言う。
「夏休み前に、田中に告られてたじゃん。あっさり断ってたけど……」
玲奈に指摘されるまで、結衣香はそのことをすっかり忘れていた。
「田中君は、なんか付き合うイメージが持てなかったんだよ……」
結衣香に告白してきた田中は、クラスで一番目立つグループの一員だった。
垢抜けている彼は、毎日髪型をきっちりセットして来るのだが、それが崩れていないか確認する姿ばかり目に付いた。なんだか自意識過剰に見えて、結衣香はあまり良いイメージを持っていなかったのだ。
「もったいなかったんじゃない? 私なら断らない!」
そう言う玲奈が、少し羨ましそうな顔をする。
「どこがいいのよ。あんな軽薄な男」
冷たく言い放つ千恵は、結構な毒舌家だ。
「顔も悪くないし、そこそこ人気あるよ?」
「あんたは、本当に顔しか見ないのね。いろんな女にコナをかけてるわよ、あいつ。断って正解!」
棘のある言葉に玲奈がムッとしているが、千恵はそれに気づいていない。
千恵のきつい物言いには、結衣香も時折ハラハラさせられている。彼女の性根に合っていない気がしているのだが、本人はそれがクールだと思っているらしい。簡単に言えば、気質が厨二病なのだ。
対する玲奈はミーハーなので、千恵の相性は良いとは言えない気もする。だが、クラスのヒエラルキーを気にせず話せるこの関係性を、結衣香はとても気に入っていた。
そして、ふたりの遠慮ない掛け合いを、結衣香はなんだかんだで楽しんでいる。
「でも、結衣香がその気なら、すぐに彼氏ができるんじゃないかな?」
玲奈は、さらりとそんな事を言い出した。
「そうかもね。いったい、どんな男が好みなの?」
「知りたい! 教えて!」
千恵が何気なく投げた質問に、玲奈も興味津々で身を乗り出して来る。しかし、結衣香は明確に答えることができない。
「タイプ……よく分からないんだよね。千恵の言う通り、外見だけじゃ判断つかないし……」
「じゃあさ、青木なんかどう? 頭いいし、優しそうじゃん。確か、彼女はいないはずだよ」
すぐ隣のグループで雑談する彼の方を見ながら、玲奈はささやくようにそう言った。
結衣香もつられて彼に視線を送ると、こちらに気づいて不思議そうな顔を返された。ふたりは慌てて視線を外すが、不審に思われてしまったかもしれない。
「悟られるわよ。ここで、クラスの男子を品定めするのはやめなさい」
千恵の冷静な忠告に、ふたりは苦笑いして顔を見合わせる。
「だいたい恋なんて、しようと思ってするものじゃないでしょ? 焦らなくても、それだという人に出会えば、勝手に好きになるものよ」
千恵の意見は、正しい事この上ない。
しかし、その常識的な発言が面白くないのか、玲奈は質問の矛先を千恵に変えて聞いた。
「悟ったように言うわね。そう言う千恵の恋話も、聞いたことない! 好きな人いないの?」
「周りにいる男なんて、子供っぽいから対象じゃ無いわ」
「ふーん。年上が好みなんだ?」
玲奈の何気ない言葉に、千恵が少しだけ狼狽したのがわかる。
「た、単純な年齢の話じゃなく、精神的によ。外見なんて、たかが皮一枚。中身が重要なのよ!」
ふたりの話を、結衣香は内心ハラハラしながら聞いていた。
「とにかく、恋なんて無理にするもんじゃ無いわよ!」
千恵が、強引に話題を引き戻す。
「甘いわね。そんなこと言ってると、誰とも付き合えないまま卒業よ。青春は戻ってこないんだから、いい思い出作らなきゃ!」
千恵の意見を感情論で押さえつけ、玲奈は真剣な表情で結衣香の方を見る。
「恋をするには、出会いが必要! 結衣香に協力してあげる! ついでに、私もいい男をゲットする!」
結衣香以上の意気込みで、玲奈は力強くそう宣言する。結衣香は戸惑いながらも、その勢いに押されて小さくうなずいた。




