08.汗と砂の記憶
輿田 桔兵は、相変わらず壁にもたれかかりながら、無意味な時間を過ごしていた。
だらりと開いた足の間に弾を抜いた拳銃を持ち、時どき引き金を引いては、乾いたハンマー音を響かせている。
何も考えず、カチンという音と振動を手に感じていると、ふと昔の記憶が脳裏に蘇った。
幼いころ住んでいた、古い木造アパート。壁は薄く、少し大きな声を出せば、隣に丸聞こえだった。
桔平の父は大の野球好きで、いつもビール片手にテレビに熱中していた。応援するチームのヒットやエラーに、いちいち大きな声を出すので、隣の住人はさぞうるさかったことだろう。
「高給取りのくせに、情けないプレーしやがって! 飲み歩きすぎて、体が絞れてねえんだ!」
そんな父の罵声を聞きながら、華やかな舞台で活躍する選手たちを、桔平は憧れの眼差しで見つめていた。
この頃は日本の景気もそこまで悪くなく、日雇いの鳶職をしていた父親の仕事も安定していた。
母は鼻歌まじりで、台所で夕食の準備をしている。漂ってくる香りが、いつも懐かしいと感じるのはなぜだろう?
ある日、贔屓のチームが優勝して上機嫌だった父は、親子セットのグローブを買ってきてくれた。
思わぬプレゼントに感激した桔平は、すでに日が暮れているのに、5分だけだと父にキャッチボールをせがんだ。普段はめんどうくさがりな父も、うれしそうに応じてくれる。
家の前の薄暗い路地で、ふたりはキャッチボールを始めた。それは、父親なら誰もがやりたいイベントなのかもしれない。
「俺、野球選手になって、ピッチャーになって、めっちゃ稼いで、父ちゃんに家建ててやるよ!」
「おお! なれるもんなら、なってみろや!」
「いくぜ! これが、カーブや!」
「曲がっとらんわ! お前、握り方知らんやろ!」
結局、完全に日が落ちて、ボールが見えなくなるまで投げ合った。何度も夕食に呼びに来た母は、呆れた様子でふたりを眺めている。
キャッチボールを終えて家に入る時、ポンと頭の上に乗せられた父の手は、大きくあたたかかった……。
――カチン。
自分で引いた引き金の音で、輿田は思い出から現実に引き戻された。
無意識に思い出したこの記憶が、自分にとって一番幸福だった瞬間なのだろうか? まさかと思いつつ、否定できる要素は少ない。
輿田は改めて、自分の人生を振り返ろうとした。
突然襲撃された、最後の瞬間。
規則正しい、刑務所での生活。
暴力に溺れた、極道の日々。
そして、汗と砂にまみれながら、自分の将来にまだ希望を持っていた、あの頃……。
鼻腔に夏の香りを思い起こした輿田は、その記憶の中に、深く沈み込んでいくのだった。
初夏の暑さが、感じられるようになった季節。中三になった桔平は、早朝の人気のない道を、軽くランニングしながら学校に向かっていた。
毎朝一番にグラウンドに入り、入念なストレッチをしてから、投げ込みをするのが日課となっている。
グラウンドに入ると、バッテリーを組んでいる成田 太が、すでに準備を始めていた。
「ナリ、早えな!」
「お前に付き合ってたら、目覚ましなしで起きれるようになったわ!」
ナリという愛称は、彼自身がつけたものだった。キャッチャーらしくがっちりした体格なのだが、自分の名前が気に入らないらしく、名は体を表す的なことを言うと少し怒る。
彼とは入部時からの相方で、気心の知れた仲だった。
ふたりで淡々とウォーミングアップをこなし、遠投を始めたところで、他の部員たちも続々とグラウンドにやってきた。軽くあいさつを交わしつつ、成田を座らせ、軽めの投球練習を始める。
徐々に回転を上げていくと、ミットが豪快な音を上げ始めた。
中三になり、球速がさらに上がったと、桔平は自覚していた。中学生らしい幼さが消え、躍動する体が、大人の体格を獲得しつつある。
中学最後の大会を、最高のパフォーマンスで挑むことができる。桔平はそう思い、試合本番が楽しみで仕方がなかった。
桔平が通う崎谷西中の野球部は、地区大会でも二回戦止まりで、どちらかといえば弱小の部類だった。
顧問である杉浦は放任主義で、朝練にはほとんど顔を出さない。それでも、桔平は自主的にハードな練習をこなし、他の部員にもそれを求めた。
今年からキャプテンに任命された成田は、常に上を目指す桔平と、本気度の異なる部員との間を、うまく取り持ってくれている。
調子のいい男だが、嫌味のない性格で、誰とでも仲良くなれるキャラクターは貴重だった。言葉少なく誤解されがちの桔平は、そんな成田にずいぶんと助けられている。
苦労の甲斐あって、チームは徐々に自力をつけており、部員たちの士気も高まっていた。
朝練が終わり、部室で着替えていると、自然と大会の話題になった。
「組み合わせ抽選会、もうすぐだな」
「いいくじ引けよ。当日まで、運は使うな!」
「頼むぜ、キャプテン!」
「ああ〜。やっぱ、誰か変わってくんね?」
成田はおどけて言うが、プレッシャーを感じている様子はない。
「やっぱ、県大会くらいは行ってみてえよな……」
その発言に桔平が反応し、急に大きな声を出した。
「何言ってんだ! 当然、全国目指すだろ!」
そんな桔平の強気発言を、部員たちは笑って受け流す。最初こそ煙たがられていたが、今では桔平の努力と才能を、誰もが認めていた。
「桔平が必ず完封するらしいから、どんな強豪だろうと、1点取れば勝てるしな!」
成田の軽口に、桔平はすかさずやり返す。
「その貴重な打点は、うちの四番が取ってくれるんだろうな?」
「ぎ、逆にプレッシャーかけられてもうた……」
四番打者でもある成田の情けない演技に、部室は笑いに包まれた。
この時代の練習は、質より量が重視されていた。満足に水を飲むことを許されず、根性論で体を酷使する。それが当たり前の感覚だったので、文句をこぼしながらも、部員たちは毎日ボールに食らいついていた。
今日も完全に日が暮れるまで練習は続き、全員くたくたになりながら家路に就く。
桔平が空腹に耐えながら家の前にたどり着くと、外まで怒鳴り合う声が聞こえてきた。またかと、桔平はうんざりした顔になる。
父と母の喧嘩は、もはや日常になっていた。
桔平は家に入ると、喧嘩する親を横目に炊飯器からご飯を盛り、用意してあったおかずと一緒に食べ始めた。
空腹を満たしつつも、両親の喧嘩を眺めて、仲裁のタイミングを見計っていた。白熱しすぎるのもまずいが、ある程度発散させてやらないと、お互いに収まりがつかないのだ。
鳶職の父が転落事故を起こしてから、もう3年が経つ。
それほど高所ではなかったのが幸いし、命に別状はなかった。しかし、右膝を複雑骨折し、完治しても足を引きずって歩くようになってしまったのだ。もう鳶職として、現場に戻ることは難しい。
他の仕事もいろいろ試したようだが、職人肌の父には合わず、どれも長続きしなかった。次第に仕事もせず、毎日飲んだくれるようになってしまう。
「酒だ! 酒ぇ!! ないんやったら、買うて来いや!」
「もう金なんてないよ! 飲みたいなら、自分で働いて買いなよ!!」
「ああ!? 何やと、偉そうに!」
「私が稼いだ金なんだから、偉そうにするのは当然でしょ!」
「なんやと!!」
父が激昂するのを見て、桔平は慌てて食事を中断して仲裁に入った。父に同情的だった母も、最近は容赦なく言い返すので、父が手を出すようになっていたのだ。
ふたりに割って入ると、父の拳が桔平の胸元に当たった。本気で殴っている訳ではないが、痛いことには変わりない。
「おやじ! 暴力はやめろや!」
「うるせえ! こいつが生意気なこと言うからや!」
そう言って父は、棚に置いてあった母の鞄を手に取る。
「何すんの!?」
慌てる母を横目に、財布の中身を確認して、父は軽く舌打ちする。数少ない札を抜き取ると、財布を投げつけて家を出ていってしまった。
「もう、情けなくて涙出るわ……」
母はそう言ってひざまずくと、本当に泣いていた。桔平はため息をついて、父が出ていった玄関の扉を、ただ見つめるしかない。
足に障害があるとはいえ、働こうと思えば仕事はある。桔平は働かない父を恨んでいたが、同時にそんな不器用なところもよく理解していた。
しかし、代わりに働きながら家計をやりくりする、母の苦労も相当なものだろう。母のパートの稼ぎでは、いくらがんばっても余裕などつくれるはずもない。
お互いが苦労に耐えかねてこぼす愚痴が、相手を攻撃するものになっていく。それが負の連鎖となって、家族の関係は悪くなるばかりだった。
桔平としても、不安はある。
こんな状況では、普通に高校に行けるかどうかも怪しかった。母ははっきりとは言わないが、桔平に進学せず、働いてほしいと考えているようだった。
しかし、中卒で雇ってもらえる所など、たかが知れている。
この状況を打開するために、何としてでも次の大会で活躍し、できれば特待生として推薦をもらいたい。今を耐えてプロになり、大金が稼げるようになれば、すべてがうまく収まるのだ。
早く試合で、自分の力を証明したい。桔平は、ただそれだけを考えていた。




