第1話〜文系王子と理系令嬢〜
1話です
第1章〜文系王子と理系令嬢〜
「英語の長文の解き方が分からない?」
僕はそう聞き返しながら、目の前に座っている彼女の方を見る。
切れ長の瞳に長い睫毛、すらりと通った鼻筋に薄い眉。
もし彼女が人混みの多い通りを歩けば、街行く人は皆目を奪われ、もしその彼女の隣を歩く男が居ようものなら、すれ違う男たちの嫉妬と「なんでこんなやつが隣に...?」と言う訝しげな目線を向けられ、胃が痛くなるだろう。
...無論これは実体験なのだが。
では何故そんな美人と僕が駅前の喫茶店で向き合っているのか。
一言で言えば「同じ部活動に所属しているから。」
二言以上で言うのなら、それは僕が高校一年生だった頃に遡る。
高校一年生の夏。慣れない人間関係に疲れを感じ、入学早々にこの高校での人付き合いは諦めよう、と決意した僕にとって、とてもありがたい、一人でいても後ろ指を刺されない夢のような期間が始まり、僕の心は満たされていた。
しかしそんな僕をあざ笑うかのように学校は僕を「数学と物理の追試」という呪いの言葉で僕を呼び寄せたのだった。
死んだ目で電車に乗り、いつもは学生でごった返していたバスにも乗り、憂鬱なまま学校に向かっている僕にはまだ、追試なんかよりよっぽど面倒くさい出来事が待っているとは知る由もなかった。
学校に着き、まず僕の目に入ってきたのは黄色と黒のテープで立ち入り禁止なっている校門だった。何人もの警察があちらこちらを行き来して何かを話し合っている。
校舎の方に目を向けると、二階の一室。あれは恐らく僕と同じ一年生の教室だろう。その教室を隠すようにブルーシートが貼られていた。
普段まず目にすることがない、何か物々しい空気を感じた僕は潔く回れ右をし、帰路へと着いた。
電車とバス代合計1020円。それと1時間とちょっと。それらを無駄にしてしまったが、追試を無くしてくれた何かに僕は感謝しつつ、家に帰り、ちょっと遅れた夏休みを楽しんだ。
だが翌日、見慣れないアドレスから「学校に来るように。」とメールでお達しを受けた僕はまたもや学校に向かう羽目となった。
夏休みのはずなのに二日連続でいつもと同じ通学路、気が滅入りつつ、昨日とは打って変わっていつも通りに戻った校門をくぐり、職員室へ向かった。
失礼します、と形式上の挨拶をしつつ、僕は職員室のドアを開ける。
職員室の中は意外と静かで、想像とは違いどのデスクにも先生がいなかった。昨日の騒ぎのせいで、交番かどこかで話をしているのだろうか。
少々の違和感を感じつつ、僕は取り敢えず、 数学の先生のデスクに向かってみた。そこはあの強面からはなんとも想像し難い、丸みを帯びた字で、「四階の文芸室に来い。」とだけ書いた紙が貼ってあった。
階段を上がり、四階に着く。そしてさらに奥まったところにあるはずの文芸室に向かう。はず、と言うのは僕が一度も文芸室に行った事がないからだ。それどころか文芸室が何かに使われている、という情報も聞いた事がない。まあこれは単純に僕に友達がいないからそもそも噂を聞く事が出来ないというのもあるのだが...。
そんな事を考えているうちに廊下の奥に突き当たった。右を向くとドアの窓をカーテンか何かで隠された教室があった。右上を見ると掠れてはいるが、たしかに「文芸室」と文字が刻んであった。
失礼します、と言い、デジャブを感じつつ教室に入る。後ろ手で閉めたドアからカチャリ、と音がする。
......カチャリ?なんで学校のドアを閉めただけで鍵のかかった音がする?オートロック?
いや、いくら私立の高校だからといってそんな事あるか?
そんな事を頭に巡らせつつ前に向き直る。
カーテンが閉まっているので窓からの光は遮られており、部屋全体が薄暗い。カーテンを開けようとして、教室の中心に椅子があり、誰かが座っていることに気がついた。
あの、と一応声をかけようとしたが、なんとなく気味が悪かったので取り敢えずカーテンを開けてから、正体がはっきり見えてから話しかけよう、そう思いまたカーテンに向き直った。
「.......コウモリであると言うことはどう言うことか分かるか?
無論、コウモリは超音波で獲物を取るのが難しいと思っていそうだなぁ。とか洞窟で長い間逆さになるのは大変そうだなぁ。とかそういった次元の話じゃない。
コウモリは今のこの教室のような、通常の人間ではほぼ何も見えないような暗闇の中でも超音波で獲物を探し、その反射音を感知することで周囲の状況を感知し、狩りに励んでいる。
しかしそんな超音波を感知する器官は私たちには備わっていない。
そのため彼らコウモリが一体それらをどのような感じで聴いて、見て、或いは感じて、いや、もしかしたら何も感じていないのかもしれないけれど。
こうしてこのような疑問を提議しても、結局のところ、今の我々にはなにもわからないのだ。
公になっている中で、コウモリと一体になり感覚を共有した、と言う人間が存在していないのがその証拠だ。
一応哺乳類、と言う枠組みに人間と同じく存在し合っているコウモリでさえ、我々人間では彼らが何を考えているのかを完全に理解することはできやしないのだ。
本来このような思考実験はあまり好きではないんだが、特別君にだから聞いてみた。
どうだ?
君はどう思う?」
......僕の背中に放たれた、恐らく、影の主が発したであろう言葉の羅列を、僕はただ脳内で噛み砕くことしかできなかった。
いや中身は一応分かるには分かる。最近読んでいた小説に同じような題材が載っていたのを覚えている。
アメリカの哲学者がコウモリがどのような主観的体験を持っているか、を題材に述べた論文のことだ。
だが大事なのはそんな事じゃない。声の主がなぜ、いま、この場所で、僕にそんな事を聞いてきたのか? それだけが疑問だ。
「君だから」。最後の方にそう言っていた気がする。彼女は僕の知っている、もしくは僕と旧知の仲だった人物なのだろうか。
だが移動教室、昼休み、体育のペアワークでさえ一人を貫いている僕にそんな人物がいるのだろうか?
僕は取り敢えず声の主の正体を知ろうと、カーテンを開き、教室に光を与えた。
徐々に光が立ち込んで行き、影の主も次第に照らされていく。
肩の少し上で切りそろえられた黒髪。
細めの眉に切れ長の瞳。
すらりと通った鼻筋に、薄い唇。
椅子に座っているが座高と足の長さからみて、僕より少し下くらいに背丈。
そんな影の主はこちらを見据え、にやりと笑った。
そんな彼女の何か嫌な予感を感じる笑顔を見て、僕は思った。
......誰だ?
続きます