失踪
二十七
有り得ない事だが、あれだけの晴天が今は
黒雲に覆われ、まるで夕方の様な暗さに感じ
る。しかも、雨雲が上流で雨を降らしたのだ
ろうか水位がさっきより随分上がって波も強
まった気もする。ややもすると、流れに押し
流されそうな怖さを麻美は耐えていた。その
間にも、得体の知れない呪縛が麻美の右腕を
掴んで離さず深みに引きずり込もうとしてい
た。その時、眼の前にいる蘭が麻美に何か伝
え様としている事に気付いた。
「なに?」
蘭の手が、首のあたりで拳を握り何かを引
きちぎる動作をした後、それを後ろに投げる
仕草をした。麻美は、訳も解らず自由の効く
左手で自分の掌を首に当ててみると何かが触
れた。それは以前、蘭から貰ったネックレス
だった。
「これを、投げろと言うの?」
麻美が、アイコンタクトを村上蘭に送ると
「そう」と言う風に蘭が頷いた。麻美も頷き
返し、意を決し口を真一文字に閉じると手の
中のネックレスを握りしめた。
「麻美さん、伏せて!」
蘭が叫んだ。麻美が、首のネックレスを引
きちぎり後方に投げつけるとネックレスに込
められた村上蘭の念が入った霊体封じの力が
効いたのか、一瞬怯んだ悪霊が麻美の呪縛を
解いたのを、蘭は見逃さなかった。蘭の発し
た言葉に、反応する様に麻美は川の中に倒れ
こむ様に伏せた。刹那、蘭の右手から放たれ
た霊珠は、常人には見えない閃光を放ちなが
ら悪霊の頭にヒットした。まるで、スローモ
ーションの映像の様に悪霊はうしろ向きに崩
折れそのまま水中に没して行った。
「麻美さん、僕の手を掴んで」
蘭は一刻も早く、川の中から出たかった。
霊と呼ばれる輩は、理由は解らないが水中の
方が霊力が強まる様なのだ。蘭が、たった今
放った渾身の霊珠も果たしてどの位の威力が
あるのか甚だ疑問だし、どう考えても、陸地
に上がった方が有利に思えたのだ。
「蘭さん、私達助かったんですよね」
麻美が、安堵した顔で言った。
「あ、うん・・・」
自信をもって、麻美に大丈夫と言いたかっ
たのだが、悪霊の妖気がその辺りに残って居
るのが蘭には気がかりだった。しかも、その
妖気がさらに強まっているのを感じたからで
ある。漸く二人は、岸に辿り着き麻美が岩場
から陸に上がるのを確認した蘭が、ホッとし
て川の方を振り向こうとした時、いきなり首
根っこを鷲掴みにされる感覚に襲われた。村
上蘭の身体は、強風に翻弄される木片の様に
球磨川の深みに軽々と吹き飛ばされてしまっ
た。さて、此処までのストーリーで、懸命な
読者は既に疑問に感じている事と思うが、凄
まじい妖気を放つ悪霊とは言え実体のない霊
体が、なぜ人を掴んだり吹き飛ばしたりする
事が出来るのか、答えは念力もしくはテレキ
ネシスと呼ばれる念の力で、物体を動かす事
の出来る一部の特殊な霊体が持つ力であると
考えられる。以前、麻美に憑りついた女性の
霊がレストランで村上蘭が座っていたテーブ
ル上のコップを指で弾き飛ばした事が有った
が、その時の力もこのテレキネシスと思われ
る。が、それは兎も角として、冷静な性格で
ある事を自負していた村上蘭が、突然の出来
事に全身ずぶ濡れになりながら川の中で珍し
くパ二くっていた。
「ここまでの、霊力が有るとは」
相手を、少し見くびっていた蘭に悪霊は畳
み掛けるように襲いかかって来た。反撃の、
霊珠を作ろうと念を集中させたが悪霊は直ぐ
そこまで迫って来ていた。
「無理だ、間に合わない」
村上蘭は、覚悟を決めて素手で立ち向かう
為に構えた。その時、思いがけず悪霊の前に
立ちはだかった大きな肩が見えた。蘭と麻美
を見守っていた佐久間だった。
「村上さん、こいつは俺がなんとか止めとく
からさっき使った光る玉を作ってくれ」
驚いた事に、佐久間は常人では見る事も触
れることも出来ない悪霊の前進を、阻んでい
た。多分、それは彼が先祖から受け継いだ霊
感と蘭を助けたいと言う気持ちが相まって彼
の持っている能力を高めていたのかも知れな
い。蘭は、佐久間が悪霊を阻んでいる隙に霊
珠を作ろうと念を集中させる為、眼を一瞬閉
じた。直ぐ眼を開いたのだが、そこにいる筈
の佐久間はいななっていた。さっきまで、凄
い形相で睨んでいた悪霊の姿も見えない。ま
るで煙のように忽然と消えてしまっていた。
「佐久間さーん」
波打つ清流が、大きな渦を作って居た。不
思議な事に、さっきまで空を覆っていた黒雲
はいつの間にか強めの風に追いやられ、夏の
暑い日射しが戻って来て、今はもう元の晴天
になっていた。大声で、佐久間の名前を呼ん
だが返事はなく一人取り残された蘭の声が、
虚しく球磨川の流れに沁み込み沈んで行くだ
けだった。




