始まり
二十六
その日、球磨地方は夏の太陽が眩しく照りつ
けていた。イエローとブラックのツートンカラ
ーのゴムボートは激流の球磨川を下っている。
所々にある岩場を、上手く避けて来たのだがゴ
ール前の難関の一番大きい岩場でアクシデント
が起こった。あともう少しでかわせると思った
所で接触してしまい大きくゴムボートが左に傾
いてしまったのだ。「あっ」と言う声で、ゴム
ボートに乗っていた全員が、その声の方を見る
と麻美は、球磨川に浮き沈みしながら流されて
いた。
「佐久間さん、麻美落ちたんですけど?」
ボートの乗員が、水の中に落ちてもインスト
ラクターの佐久間が意外に落ち着いている様子
に、由香は不満顔で聞いた。隣では、真美も同
じ様な顔をしている。佐久間は、その心配を取
り除くように答えた。
「ここらだったら、心配はいりません。ぶつか
る様な岩も無いし、もう少し流されたら直ぐに
緩い流れになります。それに、救命胴衣が有り
ますから、溺れる恐れはありませんので、ほら
麻美さん手を振っていますよ」
佐久間が、そう言ったので由佳と真美がそち
らを向くと、下流の穏やかな流れに着いた麻美
が水に浮かびながら、ボートに向って元気良く
手を振っているのが見えた。
「あさみー、大丈夫?」
真美も、麻美に手を振り大声で叫んだ。
「何でもですが、こういう水を使った競技は水
に慣れることが肝要なんです。カヌー競技なん
かは、基礎の段階で最初に教わるのは自らボー
トをひっくり返して、水の中で逆さまになった
状態から復元させる事を習います。安全に、気
を配っていても自然では何が起こるか解らない
ですからね。その時、パニックにならない訓練
が必要なんです。でも、事故が無いのが一番良
いんですけどね」
佐久間が、そんな説明をしてる間にゴムボー
トは、全員のパドル操作でゴールの岸に向かっ
ていた。麻美も、深みからやっと足の届く背に
付き岸に向かって泳ぐように歩いている。蘭は
そんな彼女たちの姿を、叔母夫婦に借りた車で
先回りして、佐久間に教えて貰ったベストのポ
イントで、見学していた。帰りは、彼女達を拾
って家に帰るつもりでいる。この後は、麻美達
のお別れ会を開く予定だったからだ。麻美が、
球磨川に落ちるというアクシデントは有ったも
のの、何事も無くラフティング体験は、終了す
る筈だったのだが・・・
「あ、村上さーん」
麻美が、岸にいる村上蘭に手を振って声を掛
けた。後方10m程の所には由香たちの乗ったゴ
ムボートが近づいて来ている。その時、麻美は
まだ岸まで7,8mの所のラフティングのゴール
である岩場を目指していたが、不意に足が止ま
った。自分の意思で止まったのではなく、誰か
に腕を掴まれたような気がしたのだ。不安に駆
られて腕の辺りを見たが、何も見えなかった。
けれど確かに、誰かに捕まえられていると感じ
ていた。麻美は、全身に鳥肌が立つのを必死に
我慢していたが、身体の震えは自然にどうしよ
うもなく止まらなくなっていた。
「何か居る・・・」
麻美の、つぶやく声と同時に晴天がカーテン
を閉めた部屋の様に薄暗くなった。空を仰ぎ見
ると、漆黒のペンキを縫った様な黒雲が急に流
れ込み心なしか風も強まってきている。蘭には
見えていた。麻美の、すぐ後ろにまるで時代劇
から抜けだして来た様な武士のいでたちをして
立っている者を、他の人間にその姿は見えなか
ったが、蘭以外にもゴムボートから蘭と麻美そ
れに、得体の知れない影を佐久間も凝視してい
た。濡れるのも構わず水の中に入った蘭は、す
かさず右手の平に、霊珠(注)を作りながらゆ
っくりと麻美に、そして背後にいる古武士に用
心深く近づいて行った。その全身からは、憎し
みのオーラが蘭の身体にチクチクと痛みを伴う
程に容赦なく放射されていた。油断すると、呑
み込まれてしまいそうだった。以前、夜の川で
見た時は河童と思ったが違っていた。怨念で、
凝り固まった古武士の髪は肩まで垂れ下がりそ
の顔は凄まじい形相をしている。河童と見間違
えたのは、特徴的な頭頂部の丸く刈り込んだ髪
の毛でだった。
「大昔の、武士は戦さに被っていく兜を付ける
ときに月代と言って丸く刈り込んだ頭にすると
講義の教授が確か言っていたな」
蘭の頭に、一瞬そんな考えがよぎった。そう
こうしている間にも麻美は深みに引っ張られじ
わじわと後退していた。
「麻美、何をしてんだろう」
由佳が、独り言みたいに麻美を見つめながら
喋った。それも、その筈でさっきまで村上蘭の
いる岸に向かっていたのに今は後退りする様に
逆に深みに自分から歩いていたからである。
「麻美そっちは、深い方だよ危ないから」
真美が大声で、呼び掛けていた。
「このままじゃまずいな、俺が彼女を連れて来
るんで後の人はボートを岸に着けて下さい」
佐久間は、ゴムボートから飛び降りると胸ま
で水に浸かり麻美の方に泳ぎ出した。
「どうしたら良い・・・」
無理に麻美さんを、取り戻そうと動けば水中
にいきなり引きずり込まれる恐れがあるし、か
といって手をこまねいているとどっちみち連れ
て行かれそうだった。手の平に、作った霊珠を
悪霊に投げつけるのは簡単だけど、誤って麻美
さんに当たった時何かしら麻美さんの霊体に影
響が出ないか、と言う心配があった。その刹那
蘭に一つの考えが浮かんだ。佐久間も、直ぐ間
近まで近づいて来ていた。蘭と佐久間が、麻美
を助けようと古武士の悪霊と対峙している。丁
度その同じ時刻に村上蘭の姉の晶は、蘭の愛車
EV日産リーフのハンドルを握り南下している
最中だった。
「トルルルー、トルルルルー」
スマホの呼び出し音が、早く出ろとばかりに
車内に鳴り響いた。
「はい、村上です」
「あ、お母さんだけど今どの辺り?」
目線を、少しだけ左の方に向けナビの画面を
見て晶は答えた。
「例の御山を降りて、今から高速に乗る所」
母親の、薫子は少し間を置いてから問い掛け
て来た。
「それで、頼んでた物は用意出来たの?」
晶は、後部座敷の荷物をチラッと見ると母親
に言った。
「大丈夫、ちゃんと此処に有るわよ。それにし
ても何でこんなものが必要なの?」
高速道路の、料金所を通過し本線に合流した
後、晶は母親に聞いた。
「兎に角、早く蘭の所に行って貰いたいの。嫌
な予感が日増しに強くなって来て、蘭に危険が
迫っている様な気がしてならないのよ。向うに
着いたら、また連絡頂戴それじゃ頼んだわよ」
母親の、切迫した言葉とは裏腹に晶の方はと
言うと、久しぶりの旅行を楽しんでいるという
風だった。「解ったから」そう返事すると、リ
ーフのアクセルをグッと踏み込んだ。内燃機関
のあるガソリン車と違って、電気の力でモータ
ーを動かすEV車は、ガソリン車特有の排気ガ
スの匂いや小刻みな振動は殆ど無く圧倒的な加
速で、キーンと言うモーター音を発生させ晴天
の高速道路を疾走し、晶を乗せたリーフの車影
は南に向かってあっと言う間に見えなくなって
しまった。
(注)霊珠とは、村上蘭の体内にある霊体の一
部を手のひらに集め敵に投げつけ攻撃す
る。言うなれば、火薬を詰め込んだ銃の
弾の様な物である。必殺技とまでは、行
かないが悪意のある霊体を退散させる位
の威力は有る。




