微かな兆候
二十
焼け過ぎの肉と野菜を、網の端っこに置きなが
ら遠崎は佐久間に言った。
「お前以前言ってたよな、夜の川で何か得体の知
れない物を見たって」
「あー、言ったな」
紙皿に焼き肉のタレを、垂らし終わり肉と野菜
を適当に盛り立てるとそれを、遠崎は佐久間に渡
した。
「それがさ、お前だけじゃ無いみたいなんだよ」
「えっ」
それは球磨村役場で、金曜日の午後五時前勤務
終了間際に産業振興課の山下課長が、部下の遠崎
に言った事だった。
「遠崎、お前言ってたろ友達が変な物見たって」
机の上を、整理しながら帰り支度をしていた遠
崎が山下課長の方を見ずに返事をした。
「はい?それが何か」
以前、頭ごなしに否定されたのを思い出して、
少しおざなりに遠崎は返事を返した。そんな事を
気にする風も無く山下課長は話を続けた。
「今日のお昼に、選果場にちょっと用事があって
行ったとき、昼めし食ってた連中が噂話しをして
るのが聞こえてな」
「何を、話してたんですか?」
内心興味を持って、聞いて居た遠崎だったが外
目には、感心有りませんと言う顔をして課長の次
の言葉を待っていた。
「それが、変な物を見たって話もそうなんだが、
球磨川で山女魚釣りをしとったら急に、足を掴ま
れて川の中に引きずり込まれそうになったげな」
「引きずり込まれそうに?」
佐久間が、遠崎の話を遮って言った。
「ああ、課長が聞いた話によると他にも釣り人が
同様の経験をしたって、それが先月来た台風の後
くらいから急にそんな話が増えてて、中にはその
犯人を見たって人も居るらしい」
遠崎が話の続きを、喋ろうとしたが佐久間はち
ょっと待てという風に手を上げて、傍らのクーラ
ーボックスから缶ビールを取り出して渡した。そ
れを受け取ると遠崎はまた話し出した。
「それで、最初そいつは川の真ん中付近に居たら
しい、そこは流れが速くて深さがある所だからと
ても人が普通に立って居られる様な場所じゃ無い
んだが、平然と立っていてそれを、しばらく見て
いたら、急に自分の方に向かって来たって言うん
だ、釣り人は怖くなって岸に上がって振り返ると
いつの間にか消えてしまっていたんだと、それで
周りにいた釣り仲間に今の見たかって聞いたら誰
も見ていないって言われて、幻でも見たんだろう
と笑われたらしい」
そこまで、聞いていた佐久間は持っていた缶ビ
ールを一気飲みすると言った。
「そんな事があったのか、しかも真昼間にそれと
関係あるかどうかだけど、この前の台風の時に実
家の爺さんが裏山がどうとか言って中々避難しな
くて、最後は無理やり車に爺さんを押し込んで連
れて行ったって親父がぼやいてたんだよ」
「それで、爺さん何て言ったんだ」
クーラーボックスから、缶ビールを取り出しな
がら佐久間は話した。
「それが、笑ってしまうけど裏山の何かが眼を覚
ますと大変な事に、なるとか言ってたらしい」
話が盛り上がってた二人に、村上蘭が割って入
って来た。
「それは、興味深い話ですね。佐久間さんのお爺
さんがそこまで言われるなら、昔から大切に守っ
てきた何かが裏山に有るのかも知れないですね」
佐久間は、蘭の言葉を聞き終わると遠崎をチラ
ッと見て蘭に言った。
「実は次の休みに、その爺さんから裏山に行くか
ら連れて行ってくれと頼まれたんだよね」
蘭が「それじゃ」と言いかけた時、三人の所に
叔母さんが、何尾かの山女魚を入れた笊を差し出
して言った。
「肉ばっかりだと、飽きるだろうと思って山女魚
ば持って来たばってん、どぎゃんね」
見るからに、生きの良さそうな山女魚は30㎝ほ
どの大きさだった。笊の中で、笹の葉を下敷きに
してまだら模様の胴体を見せていて塩焼きにした
ら、最高に美味しそうな山女魚を見ながら蘭は佐
久間に話しかけた。
「佐久間さん、その裏山行きに僕も是非参加させ
てもらえませんか?」
山女魚の、焼ける香ばしい匂いがそこら中に漂
い初夏の一勝地に蝉の鳴き声が五月蠅く聞こえて
いた。此処は本当に平和そのものの様に見えるの
だが、その一方で不気味に邪悪な何かがウネウネ
と球磨川の清廉な水の底で息を潜めながら蠢きだ
そうとしていた。