豹変
十二
父娘が、この村に辿りついてから三ヶ月が経とう
としていた。村落からは、かなり離れた目立たない
山の中の一軒家に、村長の差配で住めるようになっ
ていた。元々この家には、身寄りのない婆が住んで
いたのだが一年程前に亡くなり、空き家になって荒
れ果てていたのを村の衆上げて何とか住めるまでに
してくれたのだ。以前、都で住んでいた屋敷とは比
べ物にならないほどのあばら家だったが、住めば都
とは良く言ったもので貞朝も清乃もいつしか此処の
暮らしに慣れて行った。其れも此れも、いつ逝って
しまうのかと気を揉んでいた村長の孫が、貞朝の治
療で普通に起き上がれるまでに回復したことに他な
らなかった。村長が、驚き喜んだのは言うまでも無
く村人達の二人を見る目が不審から尊敬に変わるの
にさほど時間は掛からなかった。
「父上、宜しゅう御座いましたね。雨露を、しのぐ
事のできる家とほらご覧ください今日はお魚を頂き
ましたよ」
清乃は、台所で夕餉の支度をしながら父親に話し
かけた。その、貞朝は今日も山に入り幾多の薬草を
取り、小さな机の前で薬研を使い今まで取り溜め乾
燥させた薬草をすりつぶす作業をしていた。この辺
りの、山には薬草の他に粉薬に使えそうな鉱石も、
取れそうなので明日はもう一度山に入るつもりの貞
朝だった。思わず、この村に住むことが叶ったのだ
が気掛かりな事が無い訳ではなかった。
「清乃、取り敢えずは安心だが油断はならんぞ。い
つ源氏の追っ手が現れるかも知れないという事に変
わりはないからの」
清乃も、それは承知していた。村に医者が居てく
れたら村人たちには大助かりだし、父娘にとっては
安住の地と食物が手に入ると言う利害関係が成立し
ているものの今はまだ源氏方が、戦後処理でゴタゴ
タしている最中なので良いがひと段落したら落人追
討が始まる事は容易に想像できる父娘だった。それ
に、村人にとっても二人を匿う事は代官所からのお
達しに逆らう事になる。もう、既に各村々には代官
所からの御触れが届いていた。平家の落人並びにこ
れに類するものを見つけた場合速やかに代官所に報
告すべし、もし隠し立てしたり匿ったことが判明し
た場合は重罪に処すと言うものだった。そこで村長
は村人に、村内以外の者に父娘の事は他言無用と言
い渡し二人には部落によほどの用事が無い限り安易
に近づかぬよう念を押されていた。何事かある時は
村から使いを出すという取り決めをしたのだ。
「父上、夕餉の用意が整いましてございます。お仕
事はその位にしてお食事に致しませぬか?」
清乃は囲炉裏に、掛けてある鍋の蓋を取り中の具
材をかき混ぜながらしゃもじに、少しだけ汁を取り
味見をすると鍋の蓋を、再び閉め父親にもう一度催
促をした。
「そうじゃの、腹も随分と空いて来た事だし頂くと
するか」
食事も済み貞朝は、再び机の前で作業を始めその
傍らで清乃が夕餉の後片づけを、していると突然入
口の戸板を叩く音がした。貞朝は咄嗟に、刀を掴み
清乃に目配せして奥に行くように合図を、送ると用
心深く戸板に近づき声を掛けた。
「どなたかの、此の夜更けに」
貞朝は相手の答えを、待たずに左手の親指はすで
に刀の鯉口を切りいつでも刀を、抜ける構えをして
いた。
「先生、又吉ばい申しわけなかばってん開けてもろ
てよかろか」
その、声には聞き覚えがあった。貞朝はホッとし
て戸板のつっかえ棒を外して声を掛けた。
「おう、又吉殿ではないかどうなされた」
又吉はいつも、女房共々何くれと無く世話を焼い
てくれる親切な男だ。今日も貞朝が、薬草を山に取
りに行くのを何処からか聞いて来たのだろう。我家
の、畑仕事もあるだろうにそれを置いて山に付いて
来てくれた。その又吉が、見るからに憔悴しきった
顔をして貞朝の顔を見ると縋る様な眼で言った。
「へえ先生に、お願いしたかこつがあっとですが」
又吉は何か、話しづらい事でもあるのか中々要領
を得なかった。兎に角、家まで来て欲しいの一点張
りだった。貞朝は清乃を呼んで身支度をした後「お
前も、付いて来なさい」と言って、火の始末を済ま
せてから又吉の家に向った。又吉が、要領を得なか
ったのは家に入って又吉の女房の様子を見てすぐ解
った。女房は名を、トメと言って亭主と同じく普段
は笑顔の絶えない愛想の良い女の筈が、眼の前に見
えている女はトメにしてトメに非ず、まるで追い込
まれた動物のように怯えと敵意に満ちた眼で睨み、
竈の隅にうずくまって居た。
「これは・・・」