アクエンアテンのふたりの娘 Ⅳ
もちろんメリトアテンタアシェリトとアンケセパァテンタァシェリトの称号はふたりがメリトアテンとアンケセパァテンの娘であることを示しています。
ですが、母親のキヤは残し、娘の名を削り落とす理由として養子説は十分に納得できるものではないかと思います。
最後にもう一歩、話を進めます。
もちろんそれはふたりが養子になったのかということです。
一番簡単な理由かつほぼそうだと思われているのが、キヤの死ということになります。
母親が死んだ王の娘を年長の娘たちが引き取るということです。
そして、キヤの死亡した時期ですが、多くの専門家はアクエンアテンの治世十年前後としています。
たしかにキヤの名前がアクエンアテンの治世九年から十年に変更になったアテン神の名前のうち、前期名と呼ばれる以前の名前とともにしか現れていないというのは事実です。
ですが、キヤの娘を養子としたアクエンアテンの娘のひとりが次女ではなく三女であったことから、この時点で次女は死亡していたとも考えられ、アクエンアテンの治世十二年にものを描いたとほぼ確定できるレリーフに次女メケトアテンが登場していることから、キヤの死はそれ以降と考えることもできます。
アテン神前期名とともにしかキヤの名前が見つかっていないのは、キヤに属する建造物はアテン神後期名が使用された時期につくられなかったという説明でカタがつけられるので、とりあえずキヤの死亡時期については再検討が必要になるのではないかと思われます。
それから、もうひとつ。
これは根拠が非常に薄いものなので、私個人の妄想の類と思っていただいて結構なのですが、メリトアテンタアシェリトとアンケセパァテンタァシェリトは、アクエンアテンの五女ネフェルネフェルウラーと六女セペテンラーと同一人物説を提案したいと思います。
もちろん、彼女たちの母親は正妃ネフェルティティと肩書にありますが、メリトアテンタアシェリトとアンケセパァテンタァシェリトの肩書が偽りであった場合、この可能性もあると考えます。
一応根拠、というか、根拠らしきものを述べておけば、長女から四女までの名前には入っていたアテンがネフェルネフェルウラーと六女セペテンラーには入っていないこと。
つまり、正妃の娘と副妃の子供に差をつけたのではないかというものです。
ただし、これは六人の娘が揃ったレリーフの存在と矛盾する主張になりますので成り立たない可能性が高いです。




