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アマルナへの扉  作者: 田丸 彬禰


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TT139

TT139。

これだけで何の話をするのかがわかるのは古代エジプトに詳しい方、少なくてもアマルナ時代に興味のある方でしょう。


ですが、大部分の方はこれだけはピンとは来ない。

実際のところ「TT139」をインターネットで検索してもそれに相応しいものは出てこないでしょうし。

ちなみに、まじめに検索して調べたいのなら、「TT139」に「tomb」も加えるとそれらしいものが出てくると思います。

もちろん英語でしょうし、日本語限定で検索してしまうとここがヒットすることになるのかもしれません。


さて、これから世間一般はもちろんエジプトに何度も出かけた人のなかでも全くマイナーはその場所の話をするのですが、ほんの少しだけそれについて説明をしておきます。


まず、「TT139」という言葉ですが、古代エジプトに関係するもので「TT」というのは、ほぼ例外なくルクソール西岸にある墓を示します。

被葬者の大部分は貴族とその家族となります。

ルクソール観光で訪れる貴族の墓もすべて「TTプラス番号」で表わされています。

日本語では第139号墓となります。


ついでに言っておけば、「KV」は王家の谷の墓、「QV」は王妃の谷の墓を示すもので、ツタンカーメンの墓はKV62、装飾がきれいなことで有名なラムセス2世王妃ネフェルタリの墓はQV66となります。


話をTT139に戻します。

このTT139自体は新王国時代につくられた貴族の墓のひとつで驚くほど装飾がきれいだとか、構造が複雑だとかいうものはありません。

この墓をエジプトマニアのごく一部とはいえ有名にしているのはひとえにそこに書かれたある碑文というか古代の落書きの存在です。

そして、今回もそれが主題ということです。


まず、これを書いたのはアメン神官で、その墓にその落書きを残した意図というものはわかりませんし、他人の墓にこのようなものを残すことは当時では珍しいことではなかったものの、現在の感覚では眉を顰める類のものではあります。

ですが、この落書きの内容はアマルナ時代終焉期の重要情報を多数含んでいるものなので、現在に生きる私たちは彼に感謝すべきなのかもしれません。


では、具体的にどのようなことが書かれていたのかといえば……。


前述しましたように、これが書かれたのはアマルナ時代の末期。

もう少し詳しくいえば、ネフェルネフェルウアテン/アンクケペルウラー王の時代となります。


古代エジプトでは年を現代の日本の元号に似たもので表示します。

王の治世年。

これです。

つまり、「~王の治世~年」というものになるのですが、ここに書かれていた王の名がネフェルネフェルウアテンとなります。


ところで、そのネフェルネフェルウアテン王ですが……。


誰ですか?その人は。


多くの方がこうなると思います。


なぜなら、一般的な即位順に従えば、アクエンアテンの後に即位したのは、有名なツタンカーメン。

ツタンカーメンの死後に即位したのは年老いたアイ。

その次の王はアマルナ時代を完全に終わらせたホルエムヘブとなり、ネフェルネフェルウアテンが入る余地はどこにもがないのですから。


では、一般的ではないものではどこにネフェルネフェルウアテン王が入るのかといえば、アクエンアテンとツタンカーメンの間となります。


これは、アクエンアテンとネフェルネフェルウアテンが共同統治していたとされる両者の名が併記されている遺物が見つかっていることや、ツタンカーメン王墓からネフェルネフェルウアテンの名が記された遺物が多数発見されていることで証明されます。


ついでにいえば、共同統治していた証拠とされるその遺物には、アクエンアテンの妃であるネフェルティティの名はなく、一方のネフェルネフェルウアテンの妃としてアクエンアテンの長女メリトアテンの名が残っています。


そこから導かれること。

まず、

このネフェルネフェルウアテンという謎の王はアクエンアテンと同時代を生きた人物。


くわえて、ふたりが共同統治していた証拠とされる遺物に記されているアクエンアテンの名が、改名前の名である「アメンヘテプ」ではなく、「アクエンアテン」であることから、アクエンアテンという名を使いだした治世後期で、ネフェルティティがアクエンアテンの傍にいない最晩年……治世が17年間のうち治世16年まではネフェルティティは死亡しておらず、第一王妃の地位も維持していた証拠が近年発見されているので……というところまで絞ることができます。


さらに、ツタンカーメン王墓にその名が刻まれた遺物が紛れ込んでいるのだからネフェルネフェルウアテンがツタンカーメンの死後に現れた人物とはならない。


これらのことを考え合わせると先ほど述べたようなかなり絞り込まれたところまで限定できることになります。


とりあえず、アマルナ時代末期の王ネフェルネフェルウアテン王の治世に書かれたことがわかったところで、そこにはその治世年数も書かれていました。

実をいえば、今回はここから続く話をすることになるのですが、これはひとまず脇に置き、その話をする前に内容についてのもうひとつの重要事項を簡単に片づけておきましょう。


その概要を簡単にいえば、ネフェルネフェルウアテン王はルクソールに自らの葬祭神殿もつくること。

それについてはアメン神官に任せること。


後者についていえば、アテン信仰の中心人物であるアクエンアテンの後継者がアメン神官と手打ちしたことを示しているとされています。

ですが、個人的に興味があるのは圧倒的に前者の方。

その理由。

この王の葬祭神殿は確実にあるとされるツタンカーメンの葬祭神殿とともに、いまだその存在地が確定されていないどころか、その場所の目安すらわかっていないのですから。

ついでに言っておけば、少し前にテレビでも話題になったルクソール西岸で発見された町の遺構。

実はこれを発見した調査隊の目的はツタンカーメンの葬祭神殿というオチがあります。


説明しなければならないことを説明したところで、今回の本題に入ります。


この墓に残されたグラフィートに書かれていたネフェルネフェルウアテン王の治世年数ですが……。

3年。

まあ、ハッキリ言って短いです。

短い、短いと言われるツタンカーメンでさえ10年近くあったわけですから。


ただし、ツタンカーメンの次の王であるアイの治世年数は4年ですし、第19王朝の初代の王であるラムセス1世の治世年数は2年、第20王朝の初代セトナクトも3年ないし4年の治世年数となります。

それなのに、王家の谷にあるあのそれらの王の墓は~と続けたいところですが、それはまた別の機会ということで話を進めます。


その3年という治世年数。

実はこの数字には非常に大きな意味があり、そして、それは専門家の間ではほぼ確定されたものとして処理されています。


その3年とはアクエンアテンとネフェルネフェルウアテンの共同統治期間。


これがその重要なものとなります。


つまり、ネフェルネフェルウアテン王はアクエンアテンが死亡し共同統治期間が終了したと同時に姿を消した。


これが定説となっており、共同統治期間も2年から3年とされています。

ですが、これは本当に正しいことなのでしょうか?


一応この定説の主な根拠を示しておけば……。

ネフェルネフェルウアテンの確認できる治世年数がこの3年であること。

ネフェルネフェルウアテンがアクエンアテンと共同統治をしていた根拠があること。

ネフェルネフェルウアテン単独の記念物が存在しないこと。


どれもこれもなるほどと言えるものではあります。

ですが、私はあえて言いたい。


アクエンアテンとネフェルネフェルウアテンの共闘統治自体は否定しませんが、あの3年は共同統治の年数を示すものではなく、ネフェルネフェルウアテンの単独統治の期間ではないのかと。


さすがにここまで言い切ってしまえば、万人が納得するものではなくてもそれなりの根拠を用意しなければなりません。


そして、私が用意したその根拠。

それはハトシェプスト女王とトトメス3世の共同統治期間の年数の表示方法です。


ハトシェプスト女王は幼くして即位したトトメス3世の後見人から自らも王となって共同統治のような形が採られていました。

多くの場所で王としての彼女が示されていましたので、単なる自称ということはないでしょう。


ですが、治世年数に関してすべてトトメス3世のものを使用していたとのこと。


残念ながら、彼女に関わるものでトトメス3世の治世年数が記された碑文というものは見たことがないので、この話は眉唾ということもありますが、とりあえずそれが正しければ、アクエンアテンとネフェルネフェルウアテンとの共同統治期間もアクエンアテンの治世年数で年号は統一されていた可能性は十分にあるでしょう。

そうなれば、TT139に残された治世3年はネフェルネフェルウアテンの単独統治になってからのものと考えても問題ないのではないでしょうか。

もちろん、ツタンカーメンとの共同統治ということも考えられますが、とりあえず、今回はこちらについては保留とします。


ついでいえば、このネフェルネフェルウアテン王は思われているよりもずっと活動的でアマルナではこの王の名前が記された遺物が多数発見されているだけではなく、アマルナから遠く離れたシナイ半島でもネフェルネフェルウアテンの名が記された遺物が見つかっています。


いずれ、この王に関する新たな発見があるでしょうし、もしかしたらそのときにこの治世年数の正解もわかるのかもしれません。

それまでは、言った者勝ち的な、興味がある者にとってはいくらでも妄想できる楽しい時間といえます。


ということで、今回はいつもより少々難易度が上がった話でしたが、この時代に興味を持つきっかけになれば幸いです。

では。

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