ツタンカーメンは本当に消されたファラオだったのか?
すでに何度もやっていますが、もう一度。
ツタンカーメンを含むアクエンアテンに関わる王たちは公的な記録から抹殺された。
これが専門家を含む一般的な意見となります。
ですが、病的なアマルナ好きの立場で言わせてもらえれば、これが正しい意見なのか疑うべきものである。
これが今回の主題となります。
まず、この「ツタンカーメンは歴史から消された説」の有力な根拠を挙げておきましょう。
ひとつめ。
アビドスの王名表に名前がない。
ふたつめ。
建造物にあったツタンカーメンの名前が別の王の名に書き換えられている。
まあ、そのほかにも色々あるわけですが、とりあえず大きなものはこのふたつでしょう。
では、その根拠を疑いの目で見ていくことにしましょう。
中部エジプト、アビドスにあるセティ1世神殿。
「エジプトに行ったら絶対見るべきもの」ともいえる彩色レリーフが非常に美しいことで有名なこの神殿はそのほかにも多くの見どころがあるわけですが、そのひとつが王名表となります。
そして、この王名表には間違いなくアクエンアテンからアイまでのアマルナ関係者の名がありません。
では、通説どおりで何も問題ないだろう。
そう思うかもしれませんが、この王名表には他にも多くの王の名が抜け落ちています。
有名なのはもちろんハトシェプスト女王。
ですが、彼女もそれなりに名を落とされる理由があるため、今回は脇におきます。
彼女の代わりに登場していただくのは、第17王朝の王たちとなります。
第17王朝。
所謂第2中間期に属し、古王国時代や新王国時代に比べれば地味ではあります。
ですが、この第17王朝の王たちが北部を占拠していた異民族を追放する戦いを始め、実質的にそれを成功させました。
さらに、第17王朝と次の第18王朝は特に区分する必要がないくらい血が繋がっています。
つまり、アビドスの王名表に載せる理由は山ほどあっても、外す理由はないのです。
特にこの王朝最後の王であるカーメスの功績は第18王朝始祖であるイアフメスに勝るとも劣らない。
ですが、その王の名さえアビドスの王名表にはないのです。
さらにいえば、セティ1世よりものちの時代に作成されたと思われるトリノ王名表パピルスにはこの第17王朝どころか彼らと覇権を争った異民族の王朝の王まで名があるのです。
残念ながら、その保存状態の悪さから、肝心の第18王朝の部分は欠落しているのでトリノ王名表でハトシェプストやツタンカーメンがどうなっているのかはわかりません。
ですが、同じようにアビドスの王名表から省かれていた第2中間期の王たちの名がトリノ王名表に残されているということは、アビドスの王名表を主たる根拠にアクエンアテンやツタンカーメンが公的な記録から抹殺されたと主張することが必ずしも正しいとは言えないと思います。
では、アビドスの王名表でそのようなことになっているのか?
もちろん答えはわからないのですが、推測することくらいはできます。
それについては最後に述べることにします。
さて、せっかくアビドスの王名表を紹介したのですから、小ネタ的に他のものにも触れておきましょう。
ここで紹介するのはこの王名表がある通路にはもうひとつ有名なもの。
所謂「牛追いのレリーフ」というものです。
そして、このレリーフを説明する多くのものにはこのように書かれています。
セティ1世と王子時代のラムセス2世が……。
ですが、これは間違いです。
正しくは、「ラムセス二世と王子アメンヘルケプシェフ」によるとなります。
この手のものにはよくあることなのですが、現場を見ることなく参考資料をそのまま書き写す。
そして、それが拡散して間違いが通説になっていく。
これはその典型です。
そもそも、同じ通路にはありますが、王名表と牛追いのレリーフはまったく別物です。
父親であるセティ1世時代のものである王名表は浮彫であるのに対し、牛追いのレリーフはラムセス二世時代の特徴的作風である沈み彫り。
決定的なのは王と王子の名前。
やや読みにくいのですが、王はラムセス二世、王子はアメンヘルケプシェフと書かれています。
ちなみにアメンヘルケプシェフとは、ラムセスと彼の妃であるあのネフェルタリの子で長子であったことから「王太子」にあたる称号を所有し、アブシンベル大神殿の複数の場所でその名を見ることができるほか、アビドスやルクソール神殿で王子たちの行列シーンの筆頭に描かれた次の王になるはずだった人物です。
続いて、もうひとつの理由である名前の書き換えですが、これがおこなわれたことは事実かといえば、答えはイエスとなります。
そのなかでもツタンカーメンの名が彼の二代後の王であるホルエムヘブに変更されるというものは非常に多いです。
では、この書き換えの事実によってツタンカーメンが消されたファラオになったと言えるのかといえば、ノーです。
その理由。
古代エジプトでは名前の書き換えは頻繁におこなわれていたから。
それを一番わかりやすく説明できる例が、カルナック神殿で見ることができます。
その第2塔門にあるその場所では同じカルトゥーシュ内で複数の王が書き換えをおこなった痕跡が確認できます。
もし、名前の書き換えはその王の存在をなかったことにする意図によっておこなわれたのであれば、その行為によってラムセス1世は王の地位を自らに与えたホルエムヘブを抹殺し、そのラムセス1世を孫にあたるラムセス2世が闇に葬ったということになります。
ですが、実際にはそのようなことは当事者も考えていなかったと思われます。
ちなみに、ホルエムヘブはアクエンアテンに仕えていた者でアマルナには彼の墓も残っています。
そして、血統的正当性はないもののそれなりの手続きを踏んで王となったホルエムヘブによって後継に指名されたのが彼の部下であるラムセス1世。
セティ1世の父親でラムセス2世の祖父です。
つまり、セティ1世の一族にとっては大恩人。
アクエンアテンの関係者であるにも関わらずホルエムヘブがアビドスの王名表に名が刻まれるのは当然といえば当然といえるでしょう。
もしかしたら、ツタンカーメンの次の王アイは別の者を後継者に指名していたところをホルエムヘブが強引に王位を奪い取った。
いわゆる簒奪があった。
それをおこなったホルエムヘブの後継者であるラムセス1世の後継者たちがホルエムヘブの王位の正当化のために王名表作成時に前任者の名を消したというストーリーも考えられます。
そして、ここで先ほどの疑問に関する私が用意した答えとなります。
実は原本的な正当な王名表というものが別に存在し、それを基にセティ1世は自分の都合で省く王を決めてつくられた。
たとえば、第17王朝の王たちの名がないのは、深い意味などなく単純にスペースの問題、数合わせ的な問題によるもの。
そうして出来上がったのものがアビドスの王名表ではないのか。
いかがでしょうか?
ということで、最終的にはいつもの王名表の話になってしまいましたが、とりあえず今回はここまで。




