【上級者向け】王家の谷第55号墓で発見された厨子
もともとエジプトの遺跡に興味を持っている人向けに書いていたのですが、今回はさらにもう一段階ギアを上げたものとなります。
ということで、基本的な単語は知っているものとして書かせていただきます。
王家の谷第55号墓、KV55。
有名なツタンカーメン王墓の向かい側にある見栄えのしないその小さな墓は一般公開されていないこともあり観光客は入口を素通りするわけですが、このKV55こそ王家の谷屈指ともいえる謎多き墓となります。
多くの専門家がそれぞれ立場でその墓について様々な意見を述べ、そのどれもが正しく聞こえるものの、決定的なものにはならない。
その理由はそこから発見された複雑怪奇な遺物とその保存状態にあります。
いずれこの墓についてもやりますが、今回はその遺物のひとつである厨子に絞って書きます。
現在一般の人がその厨子を見ることができるのはほんの一部となっています。
というよりも、余程知識がある者が見なければ、あれを厨子の一部であると認識することすらできない状態で展示されています。
ですが、この墓を発見したT・デイビスによる報告書を見ることによって全体像を確認することはできます。
今回はこの報告書を見ながら書き進めます。
さて、ここで問題にするのはもちろん厨子に刻まれた碑文と図像ですが、まず大事なことを確認しておかねばなりません。
この厨子の持ち主であるティイはアメンヘテプ3世の妃であり、アクエンアテンの母であること。
それから、彼女はアメンヘテプ3世の死後、アマルナを訪れ、そこで亡くなり埋葬された。
そこはTA26。
つまり、アクエンアテン王墓。
その最深部にある埋葬室からは彼女の石棺の破片が多数発見されていることから彼女が埋葬されたのはほぼ間違いなくここであり、それはイコール、その後死亡したアクエンアテンは母の眠るその部屋に葬られたということになります。
まだあります。
ティイの夫であるアメンヘテプ3世は王家の谷に埋葬された。
もちろん葬儀を取り仕切ったのは次王であるアクエンアテン。
そして、もうひとつ。
彼女のミイラが発見されたのは王家の谷にある墓のひとつKV35。
ただし、これは第3中間期と呼ばれた時代にこの付近を統治していた支配者が王家の墓を開け副葬品を根こそぎ奪った後に被葬者をこの墓に集めて再埋葬した結果であり、元々埋葬されていたわけではありません。
それから厨子を眺めてわかること。
KV55で発見された厨子の部材に刻まれた碑文に残るアテン神の名がアクエンアテンの治世9年から10年の間に使用され始めた後期名であったこと。
確認できる範囲では図像はアクエンアテンとティイのみで、彼女の夫であるアメンヘテプ3世のものはない。
ただし、碑文内にアメンヘテプ三世の名は確認できる。
これらを踏まえてさらにもうひとつ加えます。
ルクソールで発見されたこの厨子はアマルナから持ち込まれたこと。
これは厨子に刻まれたアテン神の名が後期名であることに加え、持ち主がティイであることと、アクエンアテンの名前があることから間違いないと思われます。
そして、ここからが今回の本題で、迷宮に迷い込んだような話となります。
まず、厨子に残る彼女の夫であるアメンヘテプ3世の名は、大部分は即位名である「ネブ・マァト・ラー」で表記されているものの、最低でも一か所、不確定ですがさらに二か所で「アメンヘテプ」の名が使用されているように見えます。
ですが、これはおおいなる問題となるものです。
なぜなら、「アメンヘテプ」の「アメン」とはアクエンアテンの信奉するアテン神の天敵のような立場にある神のなであり、彼は各地の建造物に残る「アメン」の文字を削り落とすように命じたとされているのですから。
その彼がつくらせた母親の厨子にその「アメン」の名を刻むことはあるのだろうか?
ですが、事実としてそうなっている以上、あり得るかどうかを論じるのではなく、どのような場合にそうなるのかを論じるべきなのです。
では、どのような場合にそのようなことが起こるのか?
まず考えられるのはティイの厨子はアマルナ来訪前につくられた。
これなら、「アメン」の文字があっても問題ないのですが、そうなるとアテン神後期名との整合性が取れなくなります。
もちろん、出来上がっていたものを手直ししたものの、その時に手落ちによって「アメン」が残ってしまったと言い張ることもできますが、やや現実的には思えません。
続いて、アクエンアテンは「アメン」という文字にそれほど執着していなかった可能性。
これこそあり得なさそうですが、なくはないと言えます。
この厨子の製作を命じたのがアクエンアテンであればそう考えないかぎりこれは起こりえないことなのですから。
ですが、ここでも問題が。
そう。
建築物にあった「アメン」の文字の削り落とし。
そうなった場合、その行為はアクエンアテンが命じたものではなく、アクエンアテンの死後、ツタンカーメンの即位までの短期間に残された者たちによって集中しておこなわれたことになります。
そして、実をいえば、それは「アメンヘテプ」の「アメン」の部分が切り取られていることにも合致しますし、その後のアクエンアテンとアテン信仰に対する苛烈な報復を考えるとあり得そうな気もします。
ただし、これは現在の専門家が主張している意見から一番遠いです。
そして、最後。
実は報告書の間違いではないのかというもの。
身も蓋もなくなるので書きたくはなかったのですが、報告書にある「アメンヘテプ」の名に続くのはどう見てもアクエンアテンを示す文字列。
もしかしてと思ってしまいます。
ただし、これも後付け的に書けば、本来アクエンアテンの名があった場所にある時点でアメンヘテプと入れ直したと言い張ることは可能です。
ですが、そうなると、どの時点で「アメン」の文字の切り落としがおこなわれたのかを説明しなければならなくなります。
ということで、結局のところどれもこれも「帯に短し、たすきに長し」的なもので結論は出ないのです。
このように厨子ひとつとっても解決できない謎があるのですが、この墓から厨子以上に謎とされるものが発見されています。
もちろん、それはあの木棺。
そう。
刻まれた碑文の重要部分が削り取られているだけではなく、それ以外の部分も大きなダメージを受けて異様な姿になったあれです。
その木棺についても別にやるべきかもしれませんが、とりあえずそれはそのうちやるということで、今回はここまで。
最後にもうひとつ。
アクエンアテンの名はこの厨子を含めて多くの場所でカルトゥーシュ内の文字がそっくり削り落とされています。
しかし、アクエンアテンの名は独特の言い回しがされた文字がその前後に配置されているので、それによってそこにアクエンアテンの名があったことを判明できます。
何かの参考になれば幸いです。