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アマルナへの扉  作者: 田丸 彬禰


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不思議な石棺

プスセンネス1世。

特別なエジプト好きでもなければこの王の名を知る人は多くはない。

いや。

かなりのエジプト好きであっても、この王をよく知る人は少ないと言ったほうがいいでしょう。

その理由は、まず彼がエジプトの王だったのが、第3中間期と呼ばれるあまり脚光を浴びる時代ではなかったこと。

それから理由をもうひとつ挙げるとするのなら、彼の時代の王都が観光ルートからはずれたタニスであったことになるでしょうか。


ですが、そのタニスで発見された彼の王墓は正真正銘の未盗掘でした。

ちなみに、驚くほど豪華な埋葬品が見つかったツタンカーメンの王墓も2度盗掘にあっています。

そして、今回の話はこの未盗掘王墓で発見された石棺についての話となります。


当然ながらその石棺にはプスセンネス1世のミイラが眠っていたのですが、実を言えば、この石棺は他の王のものを頂戴したものとなります。

その元の持ち主とはメルエンプタハ。

第19王朝4代目、有名なラムセス2世の次の王です。

もちろんこの時代の王の墓といえば、エジプト南部ルクソールにある王家の谷。

一方のタニスはカイロよりもさらに北、デルタ地帯の中央やや東となり、両者は直線距離でも500キロ以上離れています。

つまり、この石棺はプスセンネス1世の埋葬に使用するためルクソールからキロ以上も運ばれてきたわけです。


さて、事実を並べたところで、ここから何がわかるのか?

それを語るにはある条件をつける必要があります。


プスセンネス1世の石棺はメルエンプタハが使用したこと。


散々煽り文句を並べてそれはないだろうと言われそうですが、これには相応の理由があります。

実はメルエンプタハの墓には破壊されていたものの、石棺は残されていたのです。

しかも、ふたつも。

ツタンカーメン王墓の例を考えればこれはありえないこと。

つまり、ツタンカーメンの例でいえば、三重の厨子のなかには石棺があるわけですが、その石棺の中にあるのは木棺であって石棺ではないのです。

ですが、メンエンプタハの時代には石棺の中にさらに石棺が収められていたという可能性は十分に考えられます。

ということで、メルエンプタハのミイラは三重の石棺に収められたということで話を進めます。


実をいえば、それぞれの石棺の大きさを考えた時に、それが成り立つのかという疑問はあります。

ですから、他の可能性も十二分にあることは頭の片隅に入れておいてください。


まあ、専門家の同士の話でもないので、そこまで気にすることはないのかもしれませんが。


では、話を進めます。

その石棺がメルエンプタハの墓から持ち出されたとした場合に何がわかるのか?

それは、公的な盗掘。

もう少しわかりやすく言えば、権力者による墓荒らしがおこなわれていたということ。


いわゆる墓泥棒という言葉を聞いて思い浮かべるのは、深夜こっそりと穴を掘り、墓にあるお宝を盗み出すというものだと思います。

ですが、そのような方法では石棺は盗み出せません。

しかも、メルエンプタハの墓はかなり下り傾斜がついたもので、そのような重さのものをこっそりと引き上げるというのは絶対に無理なのです。

では、誰がということになりますが、この時期形式上はともかくエジプトは王によって統一支配されていたわけではなく、ルクソールのアメン神官団の権力者が王家の谷を含むエジプト南部の統治していました。

つまり、犯人は彼らということになります。

そして、彼らは石棺だけではなく、墓の中に収められていた副葬品もその戦利品としていたのは疑いようもありません。

つまり、一般的に考えられているものとは違い、王家の谷にある各墓を荒らしたのは権力者たちだったということになります。

そして、この石棺はルクソールの権力者からタニスの王朝への献上品ということだったということになれば、王家の谷にあるはずの石棺がタニスで見つかったことも納得できるのではないでしょうか。


それから、プスセンネス1世の石棺についてもうひとつ。

当然ですが、王家の谷からやってきた石棺にはメルエンプタハの名前が数多く彫り込まれていました。

もちろん王の埋葬のために再利用するわけですから、名前の彫り直しがおこなわれたわけですが、一か所それを怠ってしまったため私たちはそれがメルエンプタハのものだったことがわかるわけです。

まあ、ここまではそれなりの本であれば書かれていることなのですが、ウィキペディアを含めてその多くにはそれがどこにあるのかが書かれていません。

おそらく現場で石棺を見たり調査報告書に目を通すといった確認作業をせず、伝聞を右から左に書いたためにそういうことになったのでしょう。

ですが、その事実を確認しようとカイロ博物館に行く者にとってこれはあまりにも不親切。

ですから、ここで書いておきます。

蓋にあたる部分の上部は人型状になっています。

メルエンプタハの名前が確認できるのはこの人型のベルトの臍にあたる部分になります。

ただし、石棺の展示方法が以前の変わっていなければかなり高い位置にあるため自らの目で確認するのは非常に難しいです。

写真を撮影して後から確認するのがよろしいでしょう。


そして、最後にもうひとこと。

プスセンネス一世はあまり有名ではないと書きました。

ですが、前述したようにその墓は未盗掘。

多くの遺物が発見されています。

それはツタンカーメンほどではなくても、一部屋の多くを占めるくらいに。

そして、その一部は日本に何度もやってきています。

カイロ博物館の展示物が含まれるエジプト展で。

ですから、忘れてしまったかもしれませんが、エジプト展に出かけたことがあればこの王の副葬品は目にしていたということになります。


ということで、今回はここまで。

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