アマルナの範囲
現在アクエンアテンの王都をアマルナと呼んでいますが、もちろん、現在アマルナと呼ばれているエリアは現代の行政区なのでアクエンアテンの時代にものとは違います。
では、古代はどうだったのでしょうか。
前回の「ナイル河の東岸は生者の都、西岸は死者の都」のなかで書いたように、アクエンアテンの時代につくられた神殿や宮殿はすべてナイル河の東岸にありました。
ですから、アクエンアテンの王都は、現在のアマルナとほぼ同一と思っても間違っていないともいえます。
ただし、厳密に言えばアクエンアテンは「アケトアテン」と名付けた自らの王都の範囲をナイル河西岸にも広げていました。
実際のところ、ナイル河西岸の方が東岸のそれよりも面積は2倍以上あります。
なぜナイル河西岸にまでが王都の範囲であったと言い切れるのかといえば、アクエンアテンが「境界碑」と呼ばれる碑文を崖に刻み王都の範囲を宣言したからです。
では、その広大な西岸に何があったのかということですが、現在までアマルナ時代に関係する建造物というものは見つかっていません。
実際になかったのか、それとも現在の町の下に埋もれているのかは、発掘ができない今となってはわからないわけですが、ないという前提で話を進めれば、おそらく東岸に住むアマルナの住民たちの食料供給場所、すなわち穀倉地帯だったのではないかと思われます。
エジプトの農作地はオアシスやファイユーム湖など一部の例外を除けばナイル河流域に限定されますし、アマルナ東岸の川岸には神殿など建造物が並んでいたために、耕地になる場所は少なかったはずです。
もちろん他の地域からアマルナへ食料は運び込まれてきたでしょうが、対岸の耕作可能地域を放置するとは考えにくいです。
ただし、これも仮定の話となりますが、約十年という短期間で放棄されてしまったアマルナがもう少し長く王都の機能を果たしていれば、西岸にも何らかの建造物が建っていた可能性は十分にあります。
ついでに、東岸についても少々。
アクエンアテンは境界碑によってアマルナの範囲を決めたことは先ほど述べたとおりです。
ところが、現在見つかっている境界碑で囲まれたエリア内に収まらないのです。
……王墓が。
それも、誤差の範囲とはいえないくらいに。
これのどこが問題なのかといえば、アクエンアテンは境界碑でアケトアテンの範囲を示した際に、自らと家族はこの地の外に出ないことを宣言していたのです。
つまり、この状況は自らの宣言を破っていたことになります。
いったいこれはどう考えればいいのか?
王墓はそれそのものが境界碑的な役割をはたしているのか?
それとも、王墓はそのような存在なのか?
そうでなければ、まだ見つかっていない境界碑があるのか?
個人的には最後のものであって欲しいのですが。