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アマルナへの扉  作者: 田丸 彬禰


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アマルナで見つかった壺 それは驚くべき遺物だった

話を始める前にまず断っておくことがあります。

その壺の材質はいわゆるアラバスターなのですが、専門家に言わせるとこの壺に使われている石材は正しい意味でのアラバスターではないそうです。

曰く、現在の基準ではアラバスターとは雪花石膏を差しますが、この材質はそれとは別のものだと。

ですが、ほぼすべてのエジプト人が遠い昔から現代までこれはアラバスターだと言い続け、また大部分のエジプト学者が便宜上エジプシャン・アラバスターと称していますのでここではアラバスターとします。

なお、一部のサイトでアラバスターの語源はエジプトのアラバストロンであるとしていますが、それがエジプトのどこを指しているのか寡聞にして知りません。


さて、そろそろ本題に入りましょう。

そのアラバスター製の壺ですが、これ自体はたしかに貴重なものではあるものの、滅多に見る機会がないものなのかといえば、そうでもなく、古代エジプトのものと限定しても博物館にいけば山ほど見ることができます。

たとえば、あのツタンカーメン王墓からも同類のものは数多く発見されており、さらに博物館内ではそれらは展示スペースの端に追いやられ、注意深く見ないと通り過ぎてしまうくらいひどい扱いを受けている。

そのようなものなのです。


そのような壺をなぜ「アマルナで見つかった驚くべき遺物」を言い切ったのか?

理由はラベルと呼ばれるその壺に刻まれた文字群にあります。

そこにはある王の名前が記されていたのですが、その人物の名はなんとハトシェプスト女王。

アマルナとは縁もゆかりもないとまではいかなくても、それに近いくらい縁遠い人物です。


彼女についてもう少しだけ説明しておきましょう。

ハトシェプスト女王はアクエンアテンの四代前の王で、ルクソールにある彼女の葬祭殿は観光の目玉のひとつであり、カルナック神殿には彼女のオベリスクが一本(2022年になって相方の一本も場違いな場所に復活しました)が建っており、有名ではあるものの実に胡散臭いトトメス三世との確執をガイドが自慢気に語る場所となっています。


そして、彼女がアマルナを縁遠いと言ったもう一つの理由。

それは彼女が熱心に崇めていたのはアメン神ということ。

アメン神。

いうまでもなく、それはアクエンアテンが熱烈に信仰していたアテン神の天敵。

つまり、大幅に端折って言ってしまえば彼女とアクエンアテンは水と油のような立場です。

そのような人物の名が刻まれた壺がアマルナで見つかったということです。

アマルナ時代にはアメン信仰は弾圧を受け、多くの建築物から「アメン」という文字を削り取られたことを知っていれば、これでも十分に驚きなのですが、ここで終わればアマルナにやってきた彼女の縁者がいたのだろうとか、間違って紛れ込んだものだとか主張することも可能かもしれません。

ですが、そうはいかなかった。

この壺に更なる驚きを加えることになるのが、その壺が見つかった場所となります。

アマルナの中心部にあったアクエンアテン一家が昼間に居住していたとされる「王の家」と呼ばれる場所。

そこがその壺が発見されたと示されている場所となります。

さすがにここまで来てしまうと間違ってやってきたと笑い飛ばすのは難しくなります。

そして、諸々の状況を考えれば、その壺はアクエンアテンに近い者がすべてを承知のうえでルクソールからアマルナへ持ち込んだと考えるほうが筋は通ります。


ここでひとつの可能性を消しておくことにしましょう。


そもそも発見場所が間違っていたということ。

つまり、それはアマルナで発見されたものではなかったのではないか。


実を言えば、「The Illustrated Guide to the Egyptian Museum」という分厚いカイロ博物館のガイドブックを眺めていてこれを見つけた時、私もこの可能性があるのではないかと思っていました。

ですが、これはあっけなく否定されます。


当事アマルナを発掘していたEES(The Egypt Exploration Society)の資料に1931/1932シーズン(1932年1月3日)の発掘でこの壺がP42.2グリッドで発見されたと記され、この組織の出版物である「City of Akhenaten PartⅢ」にもしっかりと発掘品として書かれています。


それらの事実を合わせて考えると、やはりそれはハトシェプスト女王の名前が入った壺であることを承知のうえで遷都の際にルクソールからアマルナに持ち込んだということになります。


では、その理由は何か?

もちろんこの壺が持ち込まれた経緯を示す証拠などありませんので正確なところはわかりませんと答えるしかありません。

ただし、すべて推測というか妄想の類となりますが先ほど書いたもの以外にも理由になりそうなことを挙げることはできます。


その壺または中身にそれだけの価値があった可能性。

中身が何だったのかどこにも記されていないのでなんとも言えませんが、比較的大きなアラバスターの壺はやはり貴重なものだったので持ち込みリストに加えた可能性はあります。


実はそれが先祖伝来の品だった可能性。

第18王朝の王であるアクエンアテンは異端の王と呼ばれていますが、先王の血を引いた王であり、イメージからはかけ離れますが意外に祖先に対する思い入れはあったのかもしれません。

これについては、アクエンアテン王墓からもトトメス三世の名前が入った遺物も見つかっていますので完全否定はできないのではないでしょうか。


ちなみに、その壺に記されたハトシェプスト女王の名前にはアメンという文字が含まれていましたが、そこはしっかりと削り落とされていますので、カイロ博物館の地味な遺物が並ぶ一角に展示されているこれを偶然見つけることができたら、その辺も見ていただきたいと思います。

もっとも、新博物館が出来て展示物の大幅な移動があったので今はどこでどうなっているかは定かではありませんが。


それからもうひとつ。

この壺に刻まれた彼女の誕生名に含まれるアメンの文字はご多分に漏れずそぎ落とされていますが、それ以外の部分と「マアト・カア・ラー」という即位名は無傷で残っています。

これは実に興味深いことです。

なぜなら、このことは少なくてもアクエンアテンの時代まではハトシェプスト女王は王として認められていたことを示すからです。

もし、父王時代よりも前に彼女が消されたファラオの列に加えられていたのなら、前述したように「縁もゆかりない」アクエンアテンがわざわざ彼女を王と認めるような行為をするはずがない。

すなわち、アメンという文字を削り落とす作業の際に一緒にすべてを消し去るはずなのですから。


ということで、今回はカイロ博物館に眠る地味な遺物にまつわる話でしたが、いかがだったでしょうか。

タイトルほどの驚きではなかったでしょうが、それなりに楽しめたのであればありがたいです。

次回は……消されたファラオ列伝 の予定です。

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