「ナイル河の東岸は生者の都、西岸は死者の都」は事実なのか?
古代エジプトでは、「ナイル河の東岸は生者の都、西岸は死者の都」であると多くの場所で説明されます。
たとえば、「地球の歩き方」や「るるぶ」などを眺めても、表現はともかく内容的には同じことが大きく書かれているはずです。
現地ガイドがこの話を自慢げに語るのがルクソールです。
たしかにルクソールには、東岸にはカルナック神殿、ルクソール神殿があり、一方の西岸には王の墓地である王家の谷や、貴族の墓地群があります。
それを実感しながら、彼らの話を聞いていると、まるで古代エジプトではナイル河の西岸は死者の世界であり、ナイル河の西岸には生きている者が住んでいなかったとさえ思えます。
死者を埋葬するときにだけ、普段住んでいるナイル河東岸から、葬祭殿や墓地のあるナイル河西岸に渡るというようなイメージでしょうか。
今回この話を書いたのは、もちろんアマルナがナイル河のどちら側にあるかということを説明したかったからですが、この話の真偽についても書きたかったからです。
さて、アマルナですが、例の法則でいけば、宮殿やアテン神殿はナイル河東岸に、そして貴族の墓やアクエンアテン自身の墓は西岸にあることになります。
では、実際はどうかといえば、すべてアマルナでは墓地も含めてすべてナイル河東岸にあります。
この話を聞いたときに、多少なりともアクエンアテンの評価を知っていれば、この状況をこう説明するかもしれません。
異端の王アクエンアテンが、伝統を無視したためにそうなった。
これも、なんとなく納得しそうな理由ではあります。
ただし、本当にそう言い切っていいとは思えません。
実は、アマルナ時代と限定しなくても、この「ナイル河の東岸は生者の都、西岸は死者の都」の法則に当てはまらないものが数多くあります。
たとえば、アマルナ近郊には古王国時代から中王国時代の貴族たちの岩窟墳墓が多くあります。
ベニ・ハサンやベルシャは中王国時代のものですし、アマルナのすぐ北には古王国時代からの墳墓群であるシェイク・サイードがありますが、これらはいずれもナイル河東岸にあります。
これらに関して共通しているのは、岩窟墳墓からはナイル河がよく見えるという立地条件があり、逆に岩窟墳墓が見あたらない西岸で同じような墓をつくるための崖は、ナイル河からかなり距離があります。
最初に「ナイル河の東岸は生者の都、西岸は死者の都」の例としたルクソールでも、実はアメンヘテプ3世の特大サイズの王宮はナイル河西岸にあったりします。
そして、最近ではこの王宮の近くで「生者」の町が発見されました。
さらに、ギザ。
ここは、有名な3つの巨大ピラミッドが西岸にあり、その周辺には多くの貴族の墓もあります。
ところが、ピラミッドのすぐ近くには、ピラミッドタウン、エジプト学者の河江肖剰さんによれば、町というより都市と言ったほうがよい規模だそうですが、その都市の遺構が発見されています。
「ナイル河の東岸は生者の都、西岸は死者の都」の法則からいけば、これは非常に不都合なものといえます。
ということで、ギザのピラミッドを建てた王たちの時代には、アマルナとは逆に死者だけではなく生者もナイル河の西岸にいたことになります。
ピラミッド時代についてもう少し書けば、たとえばギザの大ピラミッドを建てたクフ王の父でメイドゥムとダハシュールに合計3つの巨大ピラミッドを建てたスネフルについても同様で、ナイル河東岸にこの王の都があった記録はありませんし、中王国時代のピラミッドがあるリシュトには都市遺構が発見されていますし、ナイル河の西岸に王の都があったと思われています。
決定的なのは現在ではサッカラ近郊の冴えない田舎村に成り下がっていますが、古代エジプトの歴史においては最初期からその終焉まで常にもっとも重要だった場所であるメンフィス。
そこがナイル河のどちら側にあったかといえば……。
東、ではなく西。
こうやって見ていくと、「ナイル河の東岸は生者の都、西岸は死者の都」が、完璧に実践されている場所を見つけるのは非常に困難で、本当に「古代エジプトではナイル河の東岸は生者の都、西岸は死者の都だった」と声高に叫んでよいものなのかと思えてきます。
そして、以前アマルナを訪れた時に、この地の調査をしている有名なエジプト学者であるバリー・ケンプに、「ナイル河の東岸は生者の都、西岸は死者の都という話があるが、アクエンアテンは、なぜナイル河東岸に墓をつくったのか」という質問をしました。
彼は非常に面白い表現で、この「ナイル河の東岸は生者の都、西岸は死者の都」という話そのものを否定しました。
それがこれです。
「たとえばデルタ地帯のどこが、ナイル河の東岸で、どこが西岸なのか」
ナイル河は河口にあたるエジプトのデルタ地帯に入ると、多くの支流に分かれていますが、ケンプはそのような場所で、どうやって東岸と西岸に分けるのかと言ったわけです。
彼の言葉に蛇足的にもう少しだけ説明を加えるならば、ある場所から見れば東岸だった場所が、別のある場所から見れば西岸である。
それを誰がどのような基準で東岸と西岸にわけるのか?
私はこの説明が気に入って以降この話をするときには、必ずこれを使うことにしています。
少しだけ、本題から離れた気もしますが、とりあえず結論として、古代エジプト人は太陽が沈む西は死者の都という概念は持っていたかもしれませんが、現代人が考えるほど厳格に守られていたわけではなく、多くの例から概念よりもそれぞれの立地条件や利便性を優先しているように思えます。
ということで、アマルナにおいてアクエンアテンやその臣下の墓がナイル河東岸にあるのは、アクエンアテンが変わり者だったからではなく、墓をつくるにふさわしい場所が東岸にあったからだと言えるのではないでしょうか。