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アマルナへの扉  作者: 田丸 彬禰


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アクエンアテン王墓の秘密

アマルナ観光の目玉のひとつアクエンアテン王墓。

この墓のあるアマルナが一般の日本人の観光ルートからはずれているため、エジプトを何度も訪れたことがある人でもこの王墓に入った人はそう多くはないでしょう。

当然一般的ではないこの墓の説明をする本も限られてきます。

実際に、この墓についての説明がされている日本語の本はあまりなく、簡単に手に入る日本語の本は、「図説 王家の谷百科―ファラオたちの栄華と墓と財宝」くらいしかないといえるでしょう。

今回は、この本にも書かれておらず、少なくても日本の専門家が取り上げることがない話題も含めてこの墓について書きたいと思います。


アクエンアテンに限らず、古代エジプトにおいて王墓造営は何よりも優先される事業であったので当然のことなのですが、この王墓は遷都直後から始まったと思われます。

そのために、アクエンアテンはルクソール西岸にあった墓職人の村をほぼそっくりアマルナに移し、それだけでは足りないため単純作業をおこなう労働者用の村もつくっていました。

これについてはいずれ書きたいと思いますが、とりあえず本題に戻ります。


そういうことで、アマルナ遷都直後から開始された王墓造営ですが、その装飾によって作業具合を特定、とまではいかなくても、ある程度まで絞ることができるものができます。


そのひとつが、レリーフの重要なモチーフであるアテン大神殿となります。


アテン大神殿。

とりあえず、本当にざっくりとこの神殿の説明をしておけば、アマルナ最大の神域を誇り、その名のとおりアテン神を祭る神殿です。

ルクソールにおけるカルナック神殿のような立ち位置にあると思ってください。

もっとも、現在はその痕跡だけが残り、建物らしきものは何もありませんが。


アテン大神殿の説明をしたところで、本題に戻ります。

アマルナ岩窟墳墓の装飾に共通する問題として、保存状態が非常に悪いことが挙げられますが、ここも例外ではありません。

アテン大神殿が描かれているレリーフもかなり痛んでいます。

ですが、注意深く観察すると、ここに描かれているアテン大神殿がアクエンアテンの治世九年頃に最初の段階が完成したケンプの言う「ロング・テンプル」が描かれていない初期のものであることがわかります。

つまり、アクエンアテン王墓のうち、その装飾が施された部分まではアマルナ遷都からそれほど時が経っていない時期に掘削だけではなく装飾まで完了していたことになります。


さて、もうひとつ。


玄室の碑文に含まれていたアテン神は前期名で書かれていた。


もう少し丁寧に書けば、その一部は前期名で書かれていたとなります。

このことがなぜ重要なことなのかといえば……。

アテン神の表記方法はアクエンアテンの治世九年から十年を境に変わります。

もし、アクエンアテン王墓の最深部にあたるこの部屋がアクエンアテンの死亡直前ないし死亡後に装飾が施されたのであれば、アテン神の表記はすべて後期に使用されたものでなければならないのですが、そこに一部であっても前期名で書かれていたアテン神の名があった。

そして、このことを踏まえてもう少し深い話をすれば、玄室とされたその部屋の装飾は治世十年以前から始まっていたということになります。

それにもかかわらず、最低でもその後六年はあったアクエンアテンの死亡までの時間で玄室より先の工事がほとんど進まなかったということにもなります。


もちろんここを玄室とする目的であれば問題ありません。

ところが、そこを当初から玄室として使用するつもりだったのかは、当時の標準的王墓プランやさらに先に進める工事がおこなわれかけていたことから疑問は残ります。


つまり、この墓は比較的早い段階で作業が止まっていたのです。


では、工事を止める理由とは何か。


考えられる中で一番可能性があるのはアクエンアテンの母で先王アメンヘテプ三世の妃であるティイの死です。


以前多くの専門家がこの墓に埋葬されていたとしていたアクエンアテンの妃であるネフェルティティの埋葬の痕跡はほぼゼロ(この墓から見つかった彼女の埋葬の証拠になりそうなものはシャブティの破片のみ)ですが、ティイがここに埋葬されていたことは石棺の破片が発見されたことから間違いありません。

それから、残されていたティイの石棺の破片に刻まれた図像と碑文から、アクエンアテンの治世十二年から十三年に死亡したアクエンアテンの次女メケトアテンはティイ王妃の死亡時には生存していたと考えられます。

すなわち、ティイの埋葬はアクエンアテンの治世十三年までにおこなわれたということになります。


想像というか妄想の類となりますが、とりあえずここまで述べたことをタイムライン的に書いてみます。


アクエンアテンの治世五年から六年。

アマルナ遷都と同時に王墓造営開始。


アクエンアテンの治世十年以前。

本来の列柱室なるべき部屋で現在は玄室と言われている部屋の工事開始、装飾も始まる。


アクエンアテンの治世十三年までのある日。

ティイ死亡。

埋葬室が必要となり、アクエンアテン王墓の列柱室にあたる部屋を埋葬室に利用することになった。


アクエンアテンの十七年。

アクエンアテン死亡。ティイと同じ部屋に埋葬される。


このような感じでしょうか。


せっかくですので、この妄想にもう少しお付き合いください。

このアクエンアテン王墓には入り口から入ってほどなくした場所に妙な横穴があります。

これは王墓にあるもうひとつの王墓として多くの資料で説明され、ネフェルティティ用の墓としてつくられていたとされるものです。

ですが、このネフェルティティのためとされる根拠はまったくありません。


ですから、ここで別の推理を出してもまったく問題ないでしょう。


私の意見。

それは、この横穴はネフェルティティのものではなく、アクエンアテン本人のためにつくられていたというものです。

前述したように、おそらく本来は列柱室になるべき部屋を急遽テイィの埋葬室としたために、自らの埋葬室をあらたにつくり始めたものの、完成には程遠い状態で死を迎えたために、残された者たちは手際よくアクエンアテンを埋葬するための場所としてティイが眠る部屋を利用した。

所謂専門家と言われる方がこの意見を口にしたことはなく、また根拠はないわけですから、これについてどう思うかは読み手の方々の感性にお任せする以外にないわけですが、今は完全に葬られた「急死したネフェルティティためにつくられた墓」説もまったく根拠がなく、さらに事実でもなかったわけですから、頭の片隅に置いておく程度の参考にはなるのではないかと思います。


今回はここで終わりにします。

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