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アマルナへの扉  作者: 田丸 彬禰


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ツタンカーメンは無名のファラオではなかった Ⅳ

その後、「エジプト学の父」サー・フリンダーズ・ピートリーが1891年にアマルナの発掘をおこない、ツタンカーメンの痕跡を多く発見します。

1894年にこの調査の報告書が発刊されるのですが、そこではツタンカーメンはアクエンアテン、スメンクカラーの次の王と記し、ツタンカーメンの次はアイ、その次はホルエムヘブと現在のものと同じ即位順を示しています。

ただし、治世年数は微妙なもので、アクエンアテンとツタンカーメンは現在のものとほぼ同じ18年、9年とほぼ正しいのですが、スメンクカラーは12年、アイは12年、ホルエムヘブは4年としています。

スメンクカラーはともかく、アイとホルエムヘブは逆でしょう!

この間違いを見ると、マネトの記述は驚くほど正確だったということになります。


そして、マネトの記述のもととなったエジプトの神官の話ですが、あのような重要事項を書き留めることが大好きな古代エジプト人が口伝で伝えていたはずがなく、やはり、どこかに王名と即位年数など記された原本があったと考えたくなります。


さらに時間が過ぎ、20世紀になってまずデイビスの王家の谷の発掘によってツタンカーメンの治世年数に関わる発見があり、続いてカーターによる王墓が発見されるということになります。


これだけの証拠と過程があったにもかかわらず、「カーターが王墓を発見するまでツタンカーメンは存在そのものすら疑われていた」という言葉が正しいと思いますか?

少なくても専門家と称する方が口にするものではないでしょう。


では、当時のツタンカーメンの認知度を表現するには、どのようなものが正しいのでしょうか?


私の意見。


ツタンカーメンの先代にあたり、アクエンアテンと共同統治をしていた証拠が多数あるものの、多くのことが未確定になっているアンクケペルウラー/ネフェルネフェルウアテン。

現代でいえば、存在していることは確定しているが、その性別や治世年数を含めてそれ以外のことはほぼわかっていないと言っていい、この王のような存在だったのではないでしょうか。


「謎の王ツタンカーメン」というのはどうでしょうか。


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