アマルナの都市遺跡
あまり知られていませんが、私のエジプトにおけるホームタウンである中部エジプトのアマルナは新王国時代の都市遺構を残しています。
そして、ここの遺構を見ると非常におもしろい事実がわかります。
アクエンアテンとその一族が王宮と言える場所に暮らしていたものの、所謂貴族と呼ばれる者も庶民と混在して暮らしていたことがわかります。
もっとも、貴族と言ってもヨーロッパや明治から昭和にかけての日本のような爵位というものが存在せず、肩書の有無だけで貴族かどうかの判別をしているので、必ずしも現代人の概念とは違うかもしれませんが。
ついでにいえば、称号や肩書のついた遺物が発見された遺構は岩窟墳墓の数に比べて圧倒的に多いので、称号や肩書だけで貴族と判断するのは間違いなのかもしれませんし、岩窟墳墓を持てる者こそが本当の貴族だったのかもしれません。
ちなみに岩窟墳墓の被葬者と同じ名がアマルナの都市遺構から見つかったのは数例のみ。
この辺をテーマに一文書けそうです。
では、同時代の他の都市ではどうなっていたのか?
当然気になると思いますが、実はこの話はこれ以上進まないのです。
つまり、発見されていないということです。
たとえば、新王国時代の事実上の都だったルクソール。
ルクソール西岸は巨大な墳墓群があり、そこには貴族の墓もあります。
ですが、彼らの住居の遺構が全く見つかっていないのです。
「生者の町」ルクソール東岸では。
ルクソールで唯一都市遺構といえるものが発見されたのは「死者の町」ルクソール西岸というのは皮肉なものですが、そこでも都市というより、王宮に関わりのある者たちの住居と言ったほうが近く、有名な岩窟墳墓の被葬者であるセンネフェルやナクトやラモーゼと言った貴族の住居は見つかっていないのが現状です。




