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アマルナの謎 ネフェルティティとは何者か?

3000年以上前のことであり、アマルナ時代と言わずに古代エジプトのどの時代も大きな謎を含んでいます。

それが古代エジプトの魅力のひとつともいえるのです。


新王国時代第18王朝後期、アマルナ時代と呼ばれる一時期は、その謎というものがピラミッドの建造方法のような科学的なものというより、文学的というかミステリアスなものなので、より想像力を刺激るものといえるのではないでしょうか。


アクエンアテンはなぜ王都をルクソールからアマルナに移したのか?

彼が熱烈に信仰したアテン神はなぜあのような表記がされるのか?

そもそも、突然のように現れたアテン神はどこからやってきたものなのか?

アマルナ末期の混乱はどのようなものだったのか?

アクエンアテンの後継者は誰か?

ツタンカーメンの父親、母親は誰なのか?

謎の登場人物であるスメンクカラーやネフェルネフェルウアテンは誰なのか?

アクエンアテンの妻であるネフェルティティや娘たちはどうなり、どこに埋葬されたのか?


軽く並べてみてもこれだけの謎があり、多くの専門家がこれらについて多くの意見を述べているものの、そのどれもが見解の域を出るものではありません。

その理由。

もちろんそれは物的証拠が出てこないからで、私はアマルナ末期の混乱を説明することは、ピースが足りない状態でパズルを完成させるようなものと評しています。


このことを含めて、アマルナをより楽しんでもらうために、今後いくつか話題を提供したいと思いますが、今回はアクエンアテンの妃ネフェルティティ。


ネフェルティティ。


彼女の出自については、わかっていません。

当然のように、わずかな証拠に基づいて多くの意見が出されています。

もちろんそれが正しいのかは大いなる疑問が残るものの、これを完全否定するだけの根拠もないのも事実です。


ただし、簡単に否定できるものもあります。


たとえば、以前「ウィキペディア」に書き込まれていたネフェルティティとアクエンアテンの側室であるキヤ同一人物説。

この説の根拠というものは、「ネフェルティティとキヤが同じレリーフに同時に描かれていないこと」というものが挙げられていましたが、これは数あるアマルナに関するトンデモ根拠の中でも最低の部類に属します。

さらに、キヤの登場と同時期にネフェルティティの名前が消える(驚くべきことに、この逆、すなわちネフェルティティの登場とともにキヤが消えているという説明も存在しています)ということも根拠になっているようです。


では、ネフェルティティ=キヤ説を否定する根拠はなにかというものですが、キヤが王妃にとっての一番上位のタイトルでネフェルティティが所持している「偉大なる王妃」を使用していないことです。

ネフェルティティは、この後の説明に出てくる碑文の発見によりアクエンアテンが王に即位した当初から治世最後まで存在が確認できるうえに、百歩譲ってなんらかの事情でネフェルティティがキヤと名乗ることになっても、すでに所持している「偉大なる王妃」という称号をまで使用しないで、「私は下位の王妃である」と称するのはどのような時なのかと思ってしまいます。


それから、これは参考程度のものになりますが、図像に描かれたスカーフの存在があります。


古代エジプトの他の時代はわかりませんが、アマルナ時代のレリーフでスカーフを身につけて描かれるのは、王と「偉大なる王妃」の称号を持つネフェルティティ(と、スメンクカラーとともに描かれた偉大なる王妃メリトアテン)だけです。


もちろん、ネフェルティティもスカーフがない状態のレリーフはありますが、少なくてもスカーフがある王妃は、すべてネフェルティティだと言えます。

相当数あるキヤと確認できる図像はどれもスカーフをつけた姿では描かれず、キヤは「偉大なる王妃」ではない下位の王妃であることをうかがわせます。


ついでに「ウィキペディア」について言っておけば、確かに便利ではありますが、編集者(書き込み者)の聞きかじりや適当な知識によるトンデモ説が堂々と真実のようも書きこまれ、それが多くの人が信じてしまうという問題があります。

すべての情報を「ウィキペディア」に頼るというのは、少なくても古代エジプトに関するものについては避けたほうがよいと言わざるをえません。


「ウィキペディア」に載るネフェルティティの項目について、もう一つ、アマルナ好きとして訂正しておく必要がある部分があります。


「娘に続くネフェルティティ自身の記録の消失」の部分がそれです。


ここに書かれているものは、過去形で書かれるべき説です。


今世紀になって、アマルナの北にあるベルシャ近郊の採石場で発見されたアクエンアテンの治世16年増水期3月の日付が入った労働者のマーク(碑文)にネフェルティティの名前があることが確認されました。

すなわち、治世17年で終わるアクエンアテンの治世のほぼ最後まで、「偉大なる王妃」の称号を持つネフェルティティは生存し、もちろん失脚もしていなかったということになります。

これは非常に重要で、アクエンアテンの治世13年から15年の間にネフェルティティ死亡や失脚を唱えていた専門家は軒並み自説の訂正を迫られる事態になるくらいの発見でした。


ですが、この発見の影響はこれだけに留まりません。


ツタンカーメン王墓で発見された「アクエンアテン王、ネフェルネフェルウアテン王、メリトアテン王妃」の名前が連記された遺物(H・カーターの遺物番号1k)を共同統治説の根拠のひとつとして、私はネフェルティティ=ネフェルネフェルウアテン=スメンクカラーだと信じていますが、この日付は、この説にとっても目障りな証拠となりました。

というのは、それまではアクエンアテンの晩年にネフェルネフェルウアテンと改名したネフェルティティは、アクエンアテンと共同統治しており、ルクソール西岸にある第139号墓の壁に残された落書きにあるネフェルネフェルウアテンの治世3年がその共同統治期間にあたるとしてきました。

それがアクエンアテンの治世16年の段階でも、ネフェルティティが王であるネフェルネフェルウアテンではなく王妃ネフェルティティを名乗っていたとなると、少なくてもこれまでのストーリーでのアクエンアテンとの3年間の共同統治説は完全に崩壊し、前述した遺物との関係で余程丁寧なすり合わせ、またはこじつけをおこなわないとネフェルティティ=ネフェルネフェルウアテン説も成り立たなくなりました。


なお、ネフェルネフェルウアテン王が、なぜネフェルティティが改名して名乗っていると考えられるのかについては、いずれ書くであろうネフェルネフェルウアテンの時に詳しく書くことにして今回はここまで。

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― 新着の感想 ―
[一言] 勉強になります。 これからじっくり読ませていただきます。
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